ぬいぐるみ。アイス。想い。
放課後のチャイムが鳴ると同時に、教室の空気がゆるんだ。進平は「腹減ったわ〜」と叫びながら美術室へ向かい、教室には僕と灯だけが残った。灯は机に頬杖をつきながら、じっと僕を見ていた。
「……星凪、今日さ」
「ん?」
「ちょっと付き合ってよ。気分転換」
唐突な誘いだった。でも灯の声はいつもより少しだけ柔らかくて、どこか不安を隠しているように聞こえた。
「気分転換って……どこに?」
「んー……内緒。行けば分かるって」
灯は笑った。その笑顔は明るいのに、目だけが少し揺れていた。
「……まぁ、いいけど」
「よしっ!」
灯は嬉しそうに立ち上がり、僕の腕を軽く引いた。その手は、ほんの少しだけ震えていた。
――なんで震えてるんだろう。
そう思った瞬間、胸が少しだけざわついた。校舎を出ると、夕方の風が吹き抜ける。灯は僕の半歩前を歩きながら、振り返って言った。
「星凪、今日ずっと元気なかったからさ。…無理してない?」
「無理なんてしてないよ」
「ほんと?」
灯の目が、まっすぐ僕を見つめる。その視線に、胸が少しだけ熱くなる。
――なんだこれ。
灯に見つめられて、なんでこんなに心臓が……。
「……ほんとだよ」
「そっか。ならいいけど」
灯は笑った。でもその笑顔は、ほんの一瞬だけ沈んだ。
僕たちは学校近くのショッピングモールへ向かった。高校生がよく集まる場所だ。
「まずはゲーセン!」
灯は勢いよく入っていく。クレーンゲームの前で立ち止まり、
「これ欲しいんだよね〜」
とぬいぐるみを指差した。
「取れるかな?」
「星凪なら取れる!」
「なんで僕なんだよ」
「だって……星凪が取ってくれたら嬉しいし」
灯は照れたように笑った。その笑顔に、また胸がドキッとした。
――なんでだよ。
灯はただの友達だろ。
数回挑戦して、なんとかぬいぐるみを取ると、灯は本当に嬉しそうに抱きしめた。
「ありがと、星凪!」
その声は、いつもより少し高くて、少しだけ震えていた。
僕の心臓も、なぜか震えていた。
フードコートでアイスを買って、ベンチに座って話した。
灯はずっと笑っていた。僕も、気づけば笑っていた。
――なんだよこれ。なんでこんなに楽しいんだ。
そんなときだった。
ふと視線を感じて顔を上げると、モールの通路の向こうに――
弓月先輩が立っていた。
制服のまま、買い物袋を片手に。僕と灯を見つけた瞬間、先輩の表情が一瞬だけ固まった。
「……星凪くん」
その声は、いつもの落ち着いた声なのに、どこか震えていた。
灯が驚いたように目を丸くする。
「えっ、弓月先輩……?」
弓月先輩は灯を一瞥し、そして僕を見た。
昨日よりも、今日の朝よりも、ずっと複雑な目で。
「……二人で?」
その言い方は、問いかけというより――確認するような、あるいは、傷ついた人の声に聞こえた。
胸がざわつく。灯は慌てて笑顔を作る。
「えっと、星凪が元気なかったから、励まそうと思って!」
「……そう」
弓月先輩は短く答えた。その声は、ひどく冷たかった。
でもその冷たさの奥に、何か別の感情が隠れているように見えた。
嫉妬――
そんな言葉が頭をよぎったけれど、すぐに打ち消した。
そんなはず、ない。
弓月先輩は僕のことなんて――。
「……楽しんで」
先輩はそれだけ言うと、踵を返した。通路の向こうへ歩き去る背中は、ほんの一瞬だけ震えていた。
灯はその背中を見つめながら、小さく呟いた。
「……星凪。あの人、なんであんな顔してたんだろうね」
僕は答えられなかった。
胸の奥が、痛いほどざわついていた。
そして――灯と歩いたときの胸の高鳴りが、急に分からなくなった。
まるで、星の夜がまた近づいているみたいに。
弓月先輩が去っていった通路を、灯はしばらく見つめていた。
僕も同じ方向を見ていたけれど、胸のざわつきは消えなかった。
「……星凪」
灯が小さく呼んだ。
「さっきの……気にしてる?」
「……いや、別に」
「嘘」
灯は僕の横顔を覗き込む。その距離が近くて、思わず息が詰まった。
「星凪、さっきからずっと顔こわいよ。弓月先輩のこと、気になるんでしょ?」
「……気になるっていうか……」
言葉が詰まる。自分でもよく分からない。灯は少しだけ笑った。でもその笑顔は、どこか寂しそうだった。
「そっか。……星凪って、ほんと分かりやすいよね」
そう言いながら、灯はアイスの棒をくるくる回す。その指先が、ほんの少し震えていた。
「でもさ」
灯はふっと顔を上げた。その目は、いつもよりずっと真剣だった。
「星凪が元気ないと、私……嫌なんだよね」
「え?」
「だって、星凪が笑ってるほうが好きだし。一緒にいると楽しいし。今日だって……すごく楽しかったし」
胸がドキッとした。
灯は続ける。
「だからね、星凪。落ち込んでるときは、私が隣にいたいの」
その言葉は、告白じゃない。でも、告白よりずっと近い。僕の心臓が、また跳ねた。
――なんでだよ。灯はただの友達だろ。なのに、なんでこんなにドキドキしてるんだ。
灯は僕の反応を見て、少しだけ頬を赤くした。
「……変なこと言ったね。忘れて」
「いや……忘れないよ」
気づけば、そう答えていた。
灯の目が大きく開く。その瞳が揺れて、光を反射していた。
「星凪……」
灯が何か言おうとした、その瞬間。
「……星凪くん」
背後から、静かな声がした。
振り返ると――
さっき帰ったはずの弓月先輩が立っていた。
さっきよりも近い距離で。さっきよりも強い目で。
「少し……話、いい?」
灯の表情が固まる。僕の心臓も固まる。
弓月先輩の声は静かだったけれど、その奥にある感情は、隠しきれていなかった。
嫉妬。
焦り。
不安。
そして――何かを失いかけている人の声。
灯は小さく息を呑んだ。
「……星凪、行ってあげなよ」
その声は震えていた。でも、笑っていた。
僕は立ち上がる。
弓月先輩のほうへ。
灯は、僕の背中を見送っていた。その瞳に浮かんだ光は、アイスの溶けた水滴よりも儚かった。




