表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/19

雲の上には星はあるのだろうか

玄関の扉を閉めた瞬間、外の空気が切り離され、家の中の静けさが押し寄せてきた。

この家の静けさは、落ち着くものじゃない。

音がないのに、どこか軋むような、そんな重さがある。

「ただいま」

返事はない。

いつものことだ。

父はまだ帰っていないし、母は家にいても上辺だけの母、といった感じだ。

靴を脱ぎながら、ふと指先を見る。

白いペンキがまだ残っていた。洗えば落ちるはずなのに、落ちない。まるで、今日の出来事が皮膚に染み込んでしまったみたいだ。

弓月先輩の手。握ってしまったら折れてしまいそうなほど細く小さな指。近すぎた距離。体温が感じられるほど。胸の奥が熱くなった瞬間。直接語り掛けてくるような。

思い出すだけで、心臓がざわつく。

リビングの扉を開けると、母がソファに座っていた。

テレビはついているのに、画面を見ていない。ただ、光だけをぼんやりと眺めている。

「おかえり。」

ようやく返ってきた声は、どこか遠い。

僕を見ているようで、見ていない。

「学校はどうだったの。」

「……普通。」

母はそれ以上何も聞かない。僕も何も言わない。会話はいつもここで終わる。

父が帰ってくる気配はない。

帰ってきても、母と話すことはほとんどない。 家族なのに、家族じゃないみたいだ。

――あの夜から、ずっと。

胸の奥がきゅっと痛む。

星が降る夜。あの夜を境に、家の空気は決定的に変わった。

母と父は、あの夜、僕を探しながら激しく言い争った。

「あなたがちゃんと見ていれば」

「お前が目を離したんだろ」

幼い僕は、森の奥でその声を聞いていた。自分のせいで家族が壊れた。その感覚は、今も消えない。

部屋に戻り、ベッドに倒れ込む。

天井を見つめていると、今日の出来事が波のように押し寄せてくる。

弓月先輩の横顔。あの優しさ。あの距離。あの温度。

どうして、あんなに胸が苦しくなったんだろう。

どうして、あんなに心が揺れたんだろう。

恋、なのか。でも、それだけじゃない気がする。

…小学生のころ、同じクラスの子を好きになったと感じたことはあるが、こんなに心を直接わしづかみされるような感覚はなかった。

中学生の時も、高校生になってからも。

もっと深いところで、何かが繋がっているような――そんな感覚。

目を閉じると、光が揺れた。

星が降ったあの日の夜。

空からこぼれ落ちるように瞬く光。

その中で、誰かの手を握っていた。

温かくて、安心する手。

――だいじょうぶ。

声が聞こえた気がした。

でも、その声が誰のものだったのか、思い出そうとすると胸が苦しくなる。

記憶が、途切れる。

光。

手。

泣き声。

誰かの影。

冷たい風。

母の叫び声。

父の怒鳴り声。

全部がバラバラで、繋がらない。

思い出そうとすると、頭の奥がじんじん痛む。

まるで、誰かに「思い出すな」と言われているみたいだ。

あの夜のことを話しても、家族は信じてくれなかった。

「そんな子はいない。」

「怖くて幻覚を見たんだ。」

「夢と現実の区別がつかないのよ。」

だから僕は、あの夜の記憶を心の奥に押し込めた。

家族をこれ以上困らせないように。

自分のせいでまた喧嘩にならないように。

でも――その蓋が勝手に開いてしまう。そんな感覚に陥る。

どうしてだろう。

どうして、先輩を見ると、あの夜の光が蘇るんだろう。

胸の奥がざわざわして、落ち着かない。

布団に顔を埋める。

自分でもよく分からない感情が、渦を巻いていた。

――明日、先輩に会ったら、どんな顔をすればいいんだろう。

答えは出ないまま、夜がゆっくりと深まっていく。

窓の外を眺める。あいにくの曇り空。

雲の幕の上には無数の星が並んでいるのだろうか。

…そんなこと、紀元前の猿人でもないから知っているのは当たり前だ。しかしそう考える以外心を落ち着かせる方法はなかったのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ