雲の上には星はあるのだろうか
玄関の扉を閉めた瞬間、外の空気が切り離され、家の中の静けさが押し寄せてきた。
この家の静けさは、落ち着くものじゃない。
音がないのに、どこか軋むような、そんな重さがある。
「ただいま」
返事はない。
いつものことだ。
父はまだ帰っていないし、母は家にいても上辺だけの母、といった感じだ。
靴を脱ぎながら、ふと指先を見る。
白いペンキがまだ残っていた。洗えば落ちるはずなのに、落ちない。まるで、今日の出来事が皮膚に染み込んでしまったみたいだ。
弓月先輩の手。握ってしまったら折れてしまいそうなほど細く小さな指。近すぎた距離。体温が感じられるほど。胸の奥が熱くなった瞬間。直接語り掛けてくるような。
思い出すだけで、心臓がざわつく。
リビングの扉を開けると、母がソファに座っていた。
テレビはついているのに、画面を見ていない。ただ、光だけをぼんやりと眺めている。
「おかえり。」
ようやく返ってきた声は、どこか遠い。
僕を見ているようで、見ていない。
「学校はどうだったの。」
「……普通。」
母はそれ以上何も聞かない。僕も何も言わない。会話はいつもここで終わる。
父が帰ってくる気配はない。
帰ってきても、母と話すことはほとんどない。 家族なのに、家族じゃないみたいだ。
――あの夜から、ずっと。
胸の奥がきゅっと痛む。
星が降る夜。あの夜を境に、家の空気は決定的に変わった。
母と父は、あの夜、僕を探しながら激しく言い争った。
「あなたがちゃんと見ていれば」
「お前が目を離したんだろ」
幼い僕は、森の奥でその声を聞いていた。自分のせいで家族が壊れた。その感覚は、今も消えない。
部屋に戻り、ベッドに倒れ込む。
天井を見つめていると、今日の出来事が波のように押し寄せてくる。
弓月先輩の横顔。あの優しさ。あの距離。あの温度。
どうして、あんなに胸が苦しくなったんだろう。
どうして、あんなに心が揺れたんだろう。
恋、なのか。でも、それだけじゃない気がする。
…小学生のころ、同じクラスの子を好きになったと感じたことはあるが、こんなに心を直接わしづかみされるような感覚はなかった。
中学生の時も、高校生になってからも。
もっと深いところで、何かが繋がっているような――そんな感覚。
目を閉じると、光が揺れた。
星が降ったあの日の夜。
空からこぼれ落ちるように瞬く光。
その中で、誰かの手を握っていた。
温かくて、安心する手。
――だいじょうぶ。
声が聞こえた気がした。
でも、その声が誰のものだったのか、思い出そうとすると胸が苦しくなる。
記憶が、途切れる。
光。
手。
泣き声。
誰かの影。
冷たい風。
母の叫び声。
父の怒鳴り声。
全部がバラバラで、繋がらない。
思い出そうとすると、頭の奥がじんじん痛む。
まるで、誰かに「思い出すな」と言われているみたいだ。
あの夜のことを話しても、家族は信じてくれなかった。
「そんな子はいない。」
「怖くて幻覚を見たんだ。」
「夢と現実の区別がつかないのよ。」
だから僕は、あの夜の記憶を心の奥に押し込めた。
家族をこれ以上困らせないように。
自分のせいでまた喧嘩にならないように。
でも――その蓋が勝手に開いてしまう。そんな感覚に陥る。
どうしてだろう。
どうして、先輩を見ると、あの夜の光が蘇るんだろう。
胸の奥がざわざわして、落ち着かない。
布団に顔を埋める。
自分でもよく分からない感情が、渦を巻いていた。
――明日、先輩に会ったら、どんな顔をすればいいんだろう。
答えは出ないまま、夜がゆっくりと深まっていく。
窓の外を眺める。あいにくの曇り空。
雲の幕の上には無数の星が並んでいるのだろうか。
…そんなこと、紀元前の猿人でもないから知っているのは当たり前だ。しかしそう考える以外心を落ち着かせる方法はなかったのだった。




