霧
ファミレスの店内は、僕が抱える陰鬱な静寂を拒絶するように、過剰なほど明るく騒がしかった。
目の前の卓上コンロではハンバーグの脂が跳ね、周囲の席からは学生たちの弾けるような笑い声が聞こえる。進平がメニューを無造作にめくりながら、料理を嬉々として選んでいる。
「ハンバーグが鉄板よなぁ。このパスタも捨てられへん!んー!…全部食うわ!!」
「うるさいな。」
「……星凪、お水、こぼしそうだよ」
灯の指摘にハッと視線を落とすと、自分の指先がグラスの縁を細かく震わせていることに気づいた。冷えたグラスに浮かぶ無数の水滴が、テーブルの天板に小さな水たまりを作っている。その水たまりに反射した天井の明かりを、僕はぼんやりと見つめていた。
光の点が揺らめいた瞬間、世界の境界線が音もなく歪んだ。
反射的に閉じた瞼の裏で、強烈なフラッシュバックが奔流となって押し寄せた。
グラスの水滴が伝えた冷たさ。
換気扇の隙間から漏れる焦げた油の匂い。
キャンプファイヤーのように混ざりあって僕の鼻腔をかすめていく。
「あ……」
喉の奥から、乾いた吐息が漏れた。
『こっちだよ!』
『私は……この辺りに住んでいるの!!』
『私も都会の学校行ってみたい!』
『私にはお父さんがいないんだ。だからお母さんが1人で育ててくれるの!!』
心の深淵に厳重に封印していた光景が、まるでフィルムに焼き付けられたかのように、次々と脳裏に投影されていく。母が断言していた「あそこに女の子なんていなかった」という論理が、ガラガラと崩れ落ちる音がした。あの漆黒の闇。泣きじゃくる僕を慰めていた存在は、決して幻覚などではなかった。
…長い髪。弓月先輩のような。
…あの表情。
…言葉。
少女は迷い込んだ僕を森の奥で見つけ出し、その小さな手で導き出してくれたのだ。母の言葉に怯え、自分が口にした真実さえも「見間違い」として否定し続けてきた長い歳月。
…それは間違いだった。
「星凪? 大丈夫? 顔色が悪いよ」
心配そうに覗き込む灯の瞳には、かつて闇を切り裂いて僕を救ってくれたあの少女の残像が、現在の彼女と完全に重なって映っていた。僕は凍りついたまま、言葉を失う。
…そんなわけがない。あの日出会ったのは…。
「……灯」
喉が焼け付くような熱を帯び、僕は彼女の名前を呼んだ。
「……何?」
灯がわずかに表情を曇らせた。僕が何かを理解し、遠い日の記憶に辿り着いてしまったことに気づいたのかもしれない。
「……あ、いや。なんでもない。……喉、渇いたな」
震える手でグラスの水を飲み干す。ファミレスの照明が残酷なまでに僕の冷や汗を照らし出していた。これから対峙しなければならないという重圧が、心臓を締め付ける。進平がハンバーグを差し出してくれるが、口に運んでも味がわからなかった。目の前の灯の横顔を見つめるたび、霧が晴れるように、しかし同時に絶望的なまでの現実が視界に焼き付いていく。
中間テストの正解など、今の僕にはどうでもよかった。人生にぽっかりと開いてしまった、あの七夕の夜という名の穴をどう埋めればいいのか。その問いこそが、抗いがたい運命として僕の前に立ちはだかっていた。
「ねえ、星凪。テスト終わったら、どこか遠くへ行こうか?」
灯が問いかけたその声は、かつての約束を確かめるような静けさを纏っていた。僕は返答ができず、ただ窓の外のどんよりとした梅雨の夜空を見つめた。
ファミレスの喧騒を背にして、夜の冷たい空気が肌を刺す。
歩きながら、僕は灯の隣を歩く足取りが、先ほどまでよりもずっと軽くなっていることに気づいていた。
母さんの言う「そんな場所に女の子はいなかった」という言葉と、僕が心のどこかで信じ続けていた「誰かが助けてくれた」という記憶。
その二つの板挟みになっていたパズルが、ファミレスでのフラッシュバックによって、奇妙な形ではあるけれど、ひとつの絵として完成したような気がしていた。
(……あの少女は存在したんだ。)
自分の中で、その結論が勝手に定着していく。
あの夜、一緒にいた家族はキャンプ場を去ったと母は言った。大人の言う「帰ったはず」という事実と、僕の記憶の間には、そんな小さな空白があっただけなのだ。
隣を歩く灯を横目で見ると、彼女はどこか遠くを見つめながら、僕と同じ速度で歩いている。彼女の静かな横顔を見ていると、なぜか胸の奥がチクリと痛んだ。
「……星凪、明日もテスト勉強、頑張ろうね」
「ああ、うん。灯も、無理するなよ」
灯が僕に向けた微笑みは、いつものように完璧で、少しだけ儚い。
僕はその笑顔の裏側に何があるのかを、まだ知らない。
帰宅して自室に入ると、そこにはいつもの変わらない冷たい静寂が待っていた。
ベッドに倒れ込み、天井を見上げる。
明日からの中間テスト。それを終えれば、少しずつ夏に近づいていく。
あの夜の記憶が、僕の中で弓月先輩という事実が渦巻くだけで不思議と霧が晴れていくような感覚があった。
(…弓月先輩は…なんで…?)
彼女のあの冷徹な態度の裏側には、何か隠された事情があるのかもしれない。あるいは、僕には知り得ない苦しみが。
そう思うと、僕の中で先輩への執着は、以前よりもずっと切実で、痛々しいものへと変わっていった。




