梅雨とテスト
教室の窓から見える空は、梅雨入りの気配を濃く含んだ鈍色の雲に覆われていた。湿気を含んだ風がカーテンを揺らし、そのたびにプリントの端がカサカサと乾いた音を立てる。僕の視界にあるのは、教科書の無機質な活字と、数日前に灯が書き込んでくれた世界史の注釈だ。
「……ここ、覚えないと駄目だよね」
僕は独りごちて、シャーペンの芯を折った。心ここにあらずとは、まさに今の僕のことだ。頭の中を占めているのは、試験範囲の歴史年号や数式の解法ではない。あの体育祭の夜、グラウンドを支配した漆黒の闇と、僕の袖を掴んだ誰かの冷たい指先の感触だ。
あの夜、弓月先輩の手が僕を繋ぎ止めたとき、僕の胸をよぎったのは「恐怖」と、それとは裏腹な、理由のわからない「懐かしさ」だった。そして、遠くで泣き崩れていた灯の背中。彼女が隠そうとする嘘は、まるで毒のように僕の日常をゆっくりと侵食している。
「星凪、また考え事?」
隣の席から、鈴を転がすような、だけど少しだけ掠れた声がした。灯だ。彼女は僕のノートを覗き込み、困ったように眉を下げている。その横顔のなんと痛々しいことか。僕に「気にしないで」と微笑むために、彼女がどれだけの感情を殺しているのかを想像すると、僕は自分の卑怯さに吐き気がするほどだった。
「ごめん。ちょっと集中力が切れてて」
「うん、テスト一週間前だもんね。焦るよね」
灯はそう言って、自分の教科書を広げた。彼女の横顔を見つめながら、僕は喉の奥で言葉を詰まらせた。『あの夜、君が僕を助けてくれたんだよね』。そう言えたら、どれだけ楽だろう。でも、母親から聞かされた
「あそこに女の子なんていなかった」という冷酷な言葉が、僕の声を封じ込める。もし、僕が真実を口にしたとき、灯は今のような優しい笑顔を崩してしまうのではないか。そんな恐怖が、僕を臆病にさせていた。
「おい、なんやなんや。また灯が星凪にスパルタ指導中か?」
不意に背後から頭を小突かれ、思考の迷宮から引きずり出された。進平だ。体育祭の熱狂をそのまま引き継いだような彼の明るさは、今の僕には眩しすぎるほどだ。彼は僕の肩に腕を回し、わざとらしく大げさな溜息をついて見せた。
「はっはっ! お前ら、体育祭の時みたいな『運命の二人三脚』っぷりを見せつけんなや。こっちはテスト前でピリピリしてんねん」
進平の言葉に、灯がわずかに反応する。彼女は「そんなんじゃないよ」と小さく否定したが、その頬は微かに朱に染まっていた。そんな二人を見て、僕は自分がひどく場違いな場所にいるような錯覚に陥る。僕と灯の間に横たわる、巨大な断絶。進平には決して見えない、僕たちだけのドロドロとした泥沼。
「灯も大変やな。こんな、いざという時に記憶喪失みたいになる男を相手にするのは」
進平が何気なく放ったその言葉が、僕の胸に鋭く突き刺さった。記憶喪失。そう、僕はまさにその状態だ。七夕の夜、誕生日、そして両親の離婚の引き金となったあのキャンプ場での失踪。僕が忘れてしまった空白の時間は、あまりにも大きすぎた。
「……進平、そういう言い方しないでよ。星凪はただ、ちょっと考え事してるだけだよ」
灯が僕を庇って言い返した。その声には、必死さが混じっていた。僕という存在は、彼女にとって「守り続けなければならない壊れ物」のようになっている。
「あー……ごめんごめん。なんや空気が湿っぽいな」
進平は僕たちの間の空気を読み取ったのか、少しだけ声のトーンを下げて、話題を転換しようとした。
「星凪、放課後、ファミレス行かへんか? テスト勉強、一人で抱え込んでたら頭パンクするで。灯も来いよ。みんなでやった方が効率ええやろ?」
ファミレス。賑やかな場所に行けば、この重苦しい沈黙から逃げられるだろうか。僕が迷っていると、灯が上目遣いで僕の反応を伺っているのに気がついた。彼女もまた、二人きりでいることに耐えかねているのかもしれない。
「……うん。行こう。進平、誘ってくれてありがとう」
僕はカバンに教科書を詰め込んだ。しかし、その手はまだ冷えていた。教科書のページをめくるたび、当時のキャンプ場の写真が脳裏に浮かぶ。ケーキの甘い匂い、両親の凍りついた視線、そして、森の奥で僕の手を引いてくれた少女の、小さくて温かい手。
放課後のファミレスへ向かう道すがら、僕はふと空を見上げた。雲間から差し込む一筋の光が、まるで真実を指し示しているかのように思える。だが、僕はまだ、その光の正体に触れる勇気がない。
進平が先頭を歩き、灯がその少し後ろを、僕と並んで歩く。彼女の足音は静かで、僕の存在をそっと包み込んでいるかのようだ。でも、その歩幅は、あの日の森の中での歩幅とどこか似ているような気がしてならない。
「……ねえ、星凪」
歩きながら、灯が小さく僕を呼んだ。
「ん?」
「テストが終わったらさ、また……また、グラウンドに行こうよ」
彼女の瞳は、悲しいほどに真っ直ぐだった。グラウンド。あの夜、僕と弓月先輩が、そして彼女が引き裂かれた場所。彼女は、あの場所を塗り替えようとしているのか。それとも、僕を二度とあのような暗闇へ行かせないための、彼女なりの鎖なのか。
僕は「わかった」とだけ答えた。その言葉が、明日への約束なのか、それとも逃げ道なのかもわからないまま。
夕暮れの街並みが、僕たちを飲み込んでいく。進平が何か面白い冗談を言って笑い転げているが、その声はどこか遠くから聞こえてくるようだ。僕たちの日常は、表面上はいつも通りに回っている。けれど、その底流では、歪な記憶と、抑えきれない少女たちの執着が、静かに、確実に渦を巻いている。
テスト勉強なんて、ただの言い訳だ。本当の試験は、この記憶の霧を晴らした先に待っている。それを解く鍵が、どこかに眠っていると信じて、僕は再び歩き始めた。
六月の湿った夜風が、僕の髪を乱す。未来への不安と、過去への執着が入り混じったこの季節が、僕をどこへ連れて行くのか。僕はまだ知らない。ただ、その先に、僕が本当に守らなければならない誰かがいることだけを、微かな痛みが教えてくれている。
ファミレスの明かりが、すぐそこに見えていた。その光はあまりにも眩しく、僕の抱える暗闇を浮き彫りにする。僕は深呼吸をして、もう一度、灯に向かって微笑みかけてみた。その笑顔が、精一杯の演技であることを彼女に悟られないように祈りながら。
僕たちの青春は、こんなにも脆くて、こんなにも激しい。嵐のようなテスト期間が終われば、次は七夕がやってくる。あの日、僕が失った誕生日。僕が失った記憶。そしてーー
「早く入ろうぜ、腹減った!」
進平の明るい声が夜空に響く。僕はうなずき、灯の隣に立った。暗闇の中、僕の手を引いてくれたあの少女の手の温もりを、もう一度だけ思い出そうとしながら。この日常が、永遠に続かないことを知りながら、僕は今日という一日を、ただ必死に生き抜いていく。
それが、僕にできる唯一の誠実さなのだと信じて。




