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あの夜

家の玄関のドアを開けると、いつものように冷え切った、静まり返った空気が僕を迎えた。

リビングの明かりは点いていない。元々折り合いの悪かった両親の仲は、僕が幼い頃に起こしたあの夜をきっかけに決定的に冷え切り、今やこの家はただの張り詰めた箱のようになってしまっていた。

自分の部屋に入り、カバンを床に放り出す。

クローゼットの奥、ずっと目をつむり続けてきた古い段ボール箱を引っ張り出した。埃を払ってガムテープを剥がすと、中から数冊の家族アルバムや、幼い頃のガラクタが姿を現す。

僕は床に座り込み、ページをめくった。

「……これだ」

数枚の写真のところで、僕の指が止まる。

日付は、僕の誕生日。そして、星が綺麗に見えるはずの、七夕の夜。

いつもは険悪な両親が、その日だけは僕の誕生日を祝うため、そして「綺麗な星空を見に行こう」という父親の珍しい提案で、わざわざ遠くの山奥のキャンプ場まで車を走らせたのだ。

写真に写る幼い僕は、ケーキを前にして、見たこともないようなはしゃいだ笑顔を浮かべていた。

だけど、僕の記憶は、このキャンプ場に到着して星を見上げたあたりから、急激に濃い霧に包まれて不自然に途切れている。

覚えているのは、その後に僕が親の目を盗んで一人で迷い込んでしまい、真っ暗な森の中で泣いていたこと。そして、暗闇の中から現れた『一人の女の子』が、僕の手を引いて救い出してくれたことだけだ。

あの時、パニックになって泣きじゃくる僕を必死に探した両親は、僕を見つけた後、激しい口論を始めた。

「お前が目を離したからだ」

「あなたが勝手に連れてくるからよ」

僕の誕生日の夜は、両親が互いに責任を擦り付け合う地獄のような怒鳴り合いで幕を閉じた。それがトラウマになり、僕はあの夜の記憶に自ら強固な鍵をかけてしまった。

そして何より、僕が

「女の子が助けてくれたんだ」

と何度訴えても、親は酷く冷めた目で僕を突き放した。

『そんな場所に、女の子なんかいるわけがないでしょう。見間違いか幻覚よ』

親のその言葉を思い出すたび、胸の奥がズキズキと痛む。

だけど、今なら、ほんの少しだけ別の可能性を考えることができる。

(親は、嘘を吐いていたわけじゃないのかもしれない……?)

もし、親の言う「いるわけがない」に、僕の知らない別の意味があったとしたら。

「……ダメだ、思い出せない」

頭を抱え、きつく目を閉じる。

弓月先輩が暗闇の中で僕の手を掴み、「やっと捕まえた」と呟いたあの執着。

僕に向ける、あまりにも巨大で歪な感情の理由が、あの七夕の夜、僕の誕生日の暗闇の中に隠されていることだけは間違いない。だけど、バラバラのピースはまだ噛み合わず、肝心の真相は深い霧の向こう側に隠れたままだ。

僕はアルバムを閉じ、静まり返った部屋の天井を見上げた。

あの日、僕は一体誰と出会って、誰とはぐれたのだろう。

古いアルバムをめくり、不自然な記憶の空白に頭を悩ませていると、背後で突然、ドアが小さく軋む音がした。

ハッと振り返ると、そこにはいつの間にか、部屋の入り口に佇む母の姿があった。

いつもなら、リビングから出てくることすら稀な母だ。薄暗い廊下の光に照らされたその表情は、ひどく冷めていて、どこか酷く疲れたように僕の手元のアルバムを見つめていた。

「……懐かしいものを見てるのね、星凪」

「あ、うん。……ちょっとね。僕の誕生日の時のこと、思い出そうとしてて」

 僕がそう言うと、母は自嘲気味に口元を歪め、ゆっくりと部屋の中へ入ってきた。そして、ベッドの端に腰掛け、小さくため息をついた。

「思い出す必要なんてないわよ。ろくな記憶じゃないんだから。……あの七夕の夜を境に、この家は完全に壊れてしまったんだからね」

母の言葉に、胸がドクリと跳ね上がる。

僕は意を決して、ずっと聞けずにいた疑問をぶつけてみることにした。

「母さん。あの夜のこと、ちゃんと教えてほしいんだ。僕、迷子になって……そのあと『女の子が助けてくれた』って言ったよね。でも、母さんたちは『そんな場所に女の子なんかいるわけがない』って、僕の言葉を全然信じてくれなかった。どうして、あんなに断定できたの?」

僕の問いかけに、母はしばらく黙って窓の外の夜空を見つめていた。やがて、諦めたようにぽつり、ぽつりと語り始めた。

「……当然でしょう。あの日、あの山奥のキャンプ場にはね、私たちの他にもう一組、先客の家族がいたのよ」

「え……? 別の家族?」

「ええ。偶然あの場所で会ってね。ランタンの灯りを囲んで、しばらく一緒に星を見て過ごしたわ。あなたも、その家の女の子と、まるでおとぎ話の主人公にでもなったみたいに、楽しそうに満天の星空を見上げていた」

母の口から語られる、僕の記憶に全くないエピソード。

「だけど、夜が更ける頃に、その家族は『お先に』って荷物をまとめて、車で山を下りて帰っていったわ。……問題は、その直後よ」

母の目が、咎めるように僕を射すくめた。

「その女の子が帰ってしまって、あなたが寂しがったからなのか、それとも星に目を奪われたからなのか……。あなたがほんの一瞬、私たちの目を盗んで、鬱蒼と茂る夜の森の奥へと一人で迷い込んでしまったの」

母さんの声が、当時の怒りと焦燥感を思い出すかのように、微かに震え始める。

「私たちがどれだけ必死で探したか分かる? 呼んでも声は聞こえないし、真っ暗だし……。ようやくあなたを見つけ出した時、あなたはパニックになって泣きじゃくりながら、『女の子が手を引いて助けてくれたんだ!』って何度も叫んでいたわ。……でもね、星凪」

母は冷え切った、突き放すような瞳で僕を見つめた。

「そんな場所に、女の子なんているわけがないでしょう? さっきまで一緒にいたあの子は、確実に車で山を降りたのよ。あの山の中にいる子供は、あなたとその子の二人だけだった。大人の私たちがそれを見ていたの。だから、あなたが言っていた『女の子』なんて、恐怖が見せた見間違いか、ただの幻覚に決まっているわ」

「それは……」

母の言葉の理屈は、完璧だった。大人の視点から見れば、それはぐうの音も出ない正論だ。

親の言う『女の子』は、さっき確実に帰った。だから、この森の奥に女の子がいるはずがない――。

「あの日、あなたが目を離して迷子になったことで、あの人は私を責め、私はあの人を責めたわ。あなたの誕生日の夜は、地獄のような罵り合いで幕を閉じた。……もう、あんな話は終わりにしましょう」

母はそれだけ言い残すと、吐き捨てるように立ち上がり、部屋を出て行ってしまった。

パタン、とドアが閉まる。

一人残された部屋の中で、僕は頭を抱えた。

母さんの言っていることは正しい。先に来ていた家族はあの時確かに帰ったんだ。だとしたら……僕を助けてくれたあの女の子は、一体誰だったんだ……?

母から真相の断片を聞かされたことで、僕の頭の中のモヤモヤは、晴れるどころかさらに深い霧へと包まれていく。

弓月先輩が暗闇の中で僕の手を掴み、「やっと捕まえた」と呟いたあの執着。

もっと大きな感情があの七夕の夜に同時に始まっていたことなど、今の僕はまだ、知る由もなかった。

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