歪な感情、変わる日常
体育祭が明けた翌朝。
教室に差し込む初夏の光は昨日と変わらず眩しいはずなのに、僕の視界はどこか薄暗い霧に包まれているようだった。
登校してすぐ、僕はカバンを机に置くのと同時に灯の席へと向かった。昨日の夜、暗闇のグラウンドで見た、灯の涙の残像が網膜に焼き付いて離れなかったからだ。言い訳でも何でもいい、とにかく昨日のことはトラブルだったんだと伝えたかった。
「あ、星凪! おはよー!」
だけど、灯の周りにはすでに賑やかなメンツが集まっていた。
僕が声をかけようと近づくと、灯はいつも通りの弾けたような笑顔を僕に向けてみせた。その完璧すぎる「幼馴染の笑顔」に、僕は一瞬、気圧されて足が止まる。
「昨日さー、進平たちと行った焼き肉マジでえぐかったわ。星凪も来ればよかったのに!」
「そうそう、進平が肉焦がしまくってさぁ」
輪の中で楽しそうに笑う灯。その目の奥に、昨日の夜のような揺らぎは一切見当たらない。それがかえって、僕の胸をざわつかせた。
「……灯。ちょっと、いい?」
意を決して、周りの声を遮るように声をかける。他の人たちは「お、なんだなんだ?」とニヤニヤしながら僕たちを見比べた。灯は一瞬だけ目を瞬かせたけれど、すぐに
「うん、どしたの?」
と席を立ち、廊下の隅へと僕に付いてきてくれた。
人気のない通路の壁に背を預け、灯は首を傾げる。
「昨日のこと、なんだけど……」
僕は焦る気持ちを抑えながら、一気に言葉を紡いだ。
「資材置き場でパイプが崩れてさ、下級生を助けてたら遅くなっちゃったんだ。そしたらそこに偶然、弓月先輩がいて、それで照明が落ちて……。あいつが言ってたジンクスっていうの、僕、本当に何も知らなくて。だから、灯との約束を破ろうとしたわけじゃ――」
「うん、知ってるよ」
灯は、僕の言葉を優しく遮るようにそう言った。
その表情は、ひどく穏やかで、慈愛に満ちていて……だからこそ、決定的な壁を感じさせた。
「下級生の子たちが感謝してたもん。『鳴海先輩が助けてくれた』って。星凪は昔からそういう優しいところあるから、絶対なんかあったんだろうなって思ってた」
「じゃあ……」
「だから、気にしてないよ?」
灯はふふっと小さく笑って、自分のローファーのつま先に視線を落とした。
「私もさ、昨日グラウンドに戻ったの、ただの忘れ物取りに行くだけだったし。……ジンクスのことなんて、私、本当に何も知らなかったから。ただ、星凪とちょっとお喋りして帰りたかっただけ。だから、気にしないで」
「――っ」
嘘だ、と思った。
あの時、地面に力なく落ちた紅白の二人三脚の紐。あの切実な涙。
灯は絶対にジンクスの意味を知っていた。知っていて、すべてを賭けて僕を呼んだのに、今は「何も知らなかった」と明確な嘘をついて、自分から静かに引き下がろうとしている。
「じゃあ、私、みんな待たせてるから戻るね!」
灯はそれ以上僕に弁解の余地を与えないように、パタパタと軽い足取りで教室へ戻っていった。あいつの後ろ姿を見送りながら、僕の胸には、刺さったまま抜けないトゲのような痛みが確かに残った。
放課後。重い足取りで向かった生徒会室の空気は、さらに針のむしろだった。
ドアを開けると、いつも通りデスクに向かって書類をめくる弓月先輩の姿があった。病み上がりのはずなのに、その背筋は凛と伸び、完璧な「生徒会長」の仮面を被り直している。昨日の夜、暗闇の中で僕の手首を掴み、「離さない」と狂おしげに囁いたあの少女の面影は、どこにもないように見えた。
「――遅いわよ、星凪くん。体育祭の収支報告書、そこにまとめておいてちょうだい」
「……はい」
他愛のない事務連絡。他の役員たちがいる前では、先輩は僕を突き放すような冷たい視線しか向けない。
けれど、予定の作業がすべて終わり、他の役員たちが「お疲れ様でしたー」と帰っていき、室内に僕と先輩の二人きりになった瞬間、世界の温度がガラリと変わった。
カチ、とドアが閉まる音。
先輩はペンを置くと、ゆっくりと首を巡らせて、僕の目を真っ直ぐに見つめていた。その瞳の奥には、隠しきれない、陽炎のような熱がゆらゆらと揺らめいている。
「……星凪くん」
「先輩。昨日の、グラウンドでのことは――」
「私は、昨日のことをただの偶然だとは思っていないわ」
先輩の声が、静まり返った室内に響く。冷徹な仮面の裏から、あの夜の執着がじわりと滲み出ていた。
「あのタイミングで、あの暗闇の中で、あなたが私の目の前に現れた。そして、私の手を握り返してくれた。……それが何を意味するのか、あなたなら分かるでしょう?」
「それは、トラブルで動けなくなって、たまたま……」
「いいえ、運命よ」
先輩は立ち上がり、ゆっくりと僕との距離を詰めてくる。窓からの夕日が、先輩の美しい横顔をオレンジ色に染めていく。その光景が、僕の脳裏の少女の輪郭を激しく刺激する。
「あなたはいつもそう。私の前から急にいなくなって、私を一人にする。……でも、昨日の夜、私たちはジンクスに選ばれたの。もう、離れられないわ」
「先輩……っ」
何かがおかしい。
どうしてこの人はこれほどまでに僕にこだわるんだ?
歪な感情の渦に巻き込まれながら、僕は猛烈なモヤモヤと、逃れられない焦燥感に突き動かされていた。もう怯えるだけの後輩でいるわけにはいかない。
閉ざされた記憶の扉を、僕自身の手でこじ開けなければ、この壊れかけた日常は本当に破滅してしまう。
僕はカバンを強く握り締め、先輩の視線から逃げるように生徒会室を後にした。




