ジンクスと残酷な照明
夕方の閉会式が終わり、グラウンドを包んでいた熱狂の余韻が、ゆっくりと長い影の中に溶けていく。
クラスメイトたちがやりきった表情で互いの健闘を称え合い、散会していく中、僕は自分の教室で片付けの荷物をまとめていた。
「おーう、星凪! お疲れさん!」
背後から、バシィィンと火を噴くような勢いで背中を叩かれた。
振り返ると、クラスTシャツの首元をだらしなく広げた進平が、首にタオルをかけた状態でニカッと白い歯を見せて笑っていた。相変わらずの関西ノリは、丸一日動き回った後でも全く衰えていない。
「最高やったな、今日の二人三脚! お前らの猛ダッシュ、美術室の窓から見たどの絵画より芸術的やったわ!」
「大袈裟だよ。……でも、ありがとね、進平。ペア、強引に決めてくれて」
「なんや、照れるなや。ほな、これから打ち上げがてら、美術部のメンツでがっつり飯でも食いに行かへんか? お前、絶対腹減ってるやろ」
進平は僕の肩にガシッと腕を回し、当然ついてくるものとして教室のドアを指差した。
みんなで食事。いつもなら、喜んで飛びついていた誘いだ。
しかし、僕の脳裏には、昼間のグラウンドで紅白の紐を解きながら、僕を真っ直ぐに見つめていた灯の切実な瞳が焼き付いて離れなかった。
『今日の夜……体育祭の片付けが全部終わった後、グラウンドに残って。私と一緒に』
彼女は理由を教えてくれなかった。ただのワガママだと言い張っていた。
しかしあの目を裏切ることなんて、今の僕には絶対にできなかった。
「……ごめん、進平。今日は、ちょっと先に行くわ」
「あ? なんや、飯断るとか珍しいな。生徒会の用事か?」
「いや、そうじゃなくて……灯と、約束があるんだ」
僕がそう言うと、進平の動きがピタッと止まった。
回されていた腕が外れ、進平は信じられないものを見るような目で、じーっと僕の顔を覗き込んできた。
「……お前、今、なんて言うた?」
「だから、灯と約束があるから、今日は残らなきゃいけないんだよ。あいつに、片付けの後にグラウンドで待っててって言われてさ」
その瞬間、進平の目が驚きで丸くなり、次の瞬間には、何とも言えないニヤニヤとした、だけどどこか真剣な複雑な笑みに変わった。
「おいおいおい、マジかお前……。」
「なんのことだよ。ただ居残るだけだろ? 先生に見つかったら怒られるから、早く済ませたいんだけど」
僕が本気で困惑しているのを見て、進平は呆れたように大きなため息をつき、僕の額を小突いた。
「お前なぁ……。ホンマにイベント事に疎い奴っちゃな。お前、この学校の『体育祭のジンクス』知らんのんか?」
「ジンクス……?」
その言葉に、僕の心臓がドクリと嫌な脈を打った。
「そうや。うちの学校には、昔からめちゃくちゃ有名な噂があるんや。……『体育祭の日の夜、最後にグラウンドの照明が落ちる瞬間、一緒にそこにいた男女は、一生離れられんようになる』ってな」
「え……」
「普段の生徒会やったら、不純異性交遊や言うて真っ先にグラウンドから追い出しにかかる案件や。そんな場所に、灯がお前を呼び出した。中身を教えんかったんは、あいつなりの照れ隠しか、それとも覚悟の裏返しやろ」
進平の言葉が、僕の頭の中に容赦なく響き渡る。
最後にグラウンドの照明が落ちる瞬間、一緒にいた男女は離れられなくなる。
お伽話のような、他愛のない迷信。
だけど、灯がジンクスの名前を出さずに、ただ「私が怖いから」と震える声で僕を誘った理由。
そして――あの保健室で、熱に浮かされながら「私をあの日みたいに一人にしないで」と僕の名前を呼んでうなされていた弓月先輩の姿。
「……ほな、俺は空気読んで、他の奴らと飯行ってくるわ」
進平は僕の肩をポンと叩くと、いつになく真面目な顔で僕を見つめた。
「星凪。灯ちゃん、本気やぞ。お前も、ちゃんと覚悟決めて行ったれよ」
進平が教室を出ていく足音が遠ざかる。
誰もいない教室の中、夕闇が静かに満ちていく。
窓の外を見下ろすと、グラウンドでは最後の片付けをする生徒会役員たちの人影と、それを照らす巨大な水銀灯の光が、ギラギラと妖しく揺れていた。
まだ何も真相は分からない。僕は、自分の過去に何があったのかさえ思い出せない。だけど、もう引き返せないところまで、日常の歯車は回り始めていた。
僕はゴクリと唾を飲み込み、カバンを強く握り締めると、灯の待つ夜のグラウンドへと歩き出した。
グラウンドを照らす巨大な水銀灯の光が、夜の闇を白々と切り裂いていた。
進平と別れた僕は、足早に校舎の階段を駆け下り、灯の待つグラウンドへと向かっていた。胸の鼓動が、走っているせいだけじゃなく、恐怖と焦燥感で狂ったように跳ね上がる。
『最後にグラウンドの照明が落ちる瞬間、一緒にいた男女は、一生離れられんようになる』
進平から聞かされたジンクスの意味。そして、灯がすべてを隠して僕を呼び出した本当の理由。
あいつは僕を、あの過去の暗闇から、先輩の視線から、自分の側へと完全に引き留めようとしたんだ。そのために、この体育祭の終わりの夜を選んだ。
「待ってて、灯……今、行くから」
用具室の脇を抜け、一気に視界が開けたグラウンドへと飛び出す。
しかし、そこで僕の目に飛び込んできたのは、予想もしない光景だった。
「きゃっ!?」
グラウンドの隅、テントの支柱やブルーシートがうずたかく積まれた資材置き場の方から、短い悲鳴が響いた。
見ると、崩れかかった重い鉄製パイプの山と、それを必死に支えようとして身動きが取れなくなっている数人の下級生の姿があった。片付けの途中でバランスを崩したのだろう。このままではドミノ倒しのように周囲の資材が崩落する。
「危ないっ!!」
僕は灯の待つ場所とは正反対の方向へ、咄嗟に身体を転じさせていた。
無我夢中で駆け寄り、崩れ落ちてくる重い鉄パイプの束を、下級生たちの身代わりに押し返すようにして腕で受け止める。
「ぐっ……! みんな、今のうちに手を離して後ろに下がれ!」
「す、すみません……っ!」
パニックになる下級生たちを逃がし、なんとか資材を安全な方向へと受け流す。ガシャガシャと派手な金属音が夜のグラウンドに響き渡った。怪我人がいないことを確認し、泥だらけになった手を払って息を整えた時、背筋に冷たい戦慄が走った。
――時間がない。
腕時計に目を落とす。完全下校時刻の直前。グラウンドの自動消灯タイマーが作動する時間は、もう目の前に迫っていた。
「灯……っ!」
慌てて彼女が待っているはずの、グラウンドの反対側へと走ろうとした、その時だった。
ウーーー、と夜の校舎から、消灯予告の短いブザーが鳴り響いた。
「っ、嘘だろ……!?」
足がすくむ。ここからグラウンドを突っ切っても、灯のところまでは絶対に間に合わない。
視界の端、遠く離れたグラウンドの向こう岸に、ぽつんと佇む灯の小さな人影が見えたような気がした。彼女は、ずっと僕を待っている。僕が、ご褒美の約束を守って駆けつけてくれるのを、信じて待っているのに。
その時。
「――星凪くん?」
すぐ近くから、鈴の音を転がしたような、だけど酷くかすれた声が僕の名前を呼んだ。
ハッと振り返る。
資材置き場のすぐ横、暗い本部のテントの影からゆっくりと姿を現したのは、生徒会の腕章を巻いた人影。
まだ病み上がりの、少し青白い顔をした――弓月先輩だった。
先輩は、手にした夜間見回り用の懐中電灯を握りしめたまま、信じられないものを見るような目で僕を見つめていた。その瞳には、昼間の冷徹な拒絶ではなく、あの保健室の暗闇で見せたような、脆くて、寂しげな光が宿っている。
「どうして……あなたがここにいるの……?」
「先輩……僕は、灯との約束が……」
言いかけた僕の言葉は、最後まで繋がらなかった。
カチ、と遠くの配電盤から、無慈悲な電子音が響く。
刹那、グラウンドを照らしていた巨大な水銀灯の光が、一斉に、完全に、かき消えた。
「あ……」
世界が、一瞬で深い漆黒の闇へと突き落とされる。
網膜に残った残像のせいで、目の前が真っ暗で何も見えない。
その、光が落ちた、まさにその瞬間。
僕のすぐ目の前にいたのは、約束したはずの灯ではなかった。
暗闇の中、僕の制服の袖を、震える指先でぎゅっと掴んできたのは。
「……見つけた」
熱を帯びた掠れた声で、泣きそうにそう呟いたのは、弓月先輩だった。
離れられなくなるという、体育祭の日の夜のジンクス。
暗闇に包まれたグラウンドの真ん中で、僕の頭の中は真っ白になり、ただ繋がれた袖からの先輩の熱い体温だけが、狂ったように脳裏へと突き刺さっていた。
手元すら見えない漆黒のグラウンド。網膜に焼き付いた水銀灯の残像が、チカチカと虚しく明滅している。
聞こえるのは、自分の早鐘のような心臓の音と、すぐ目の前にいる弓月先輩の、小さく震える吐息だけ。
『体育祭の日の夜、最後にグラウンドの照明が落ちる瞬間、一緒にいた男女は――』
進平から聞かされた言葉が、呪いのように頭の中で何度もリフレインする。
僕がここにいるはずのない先輩と重なり合ってしまった、その残酷なタイミング。
「あ……、先輩……?」
掠れた声で問いかける。けれど、僕の制服の袖を掴む先輩の指先は、さらに強く、生地を破らんばかりの力でぎゅっと握りしめられた。
「……やっと、捕まえた」
暗闇の向こうから、先輩の声が響く。それはいつもの冷徹な生徒会長のものでも、保健室で聞いた弱々しいうわ言でもなかった。
どこか、狂おしいほどの安堵と、深い執念が混ざり合ったような、酷く生々しい響き。
「あの日も……そうだったわね。星凪くん。あなたはいつも、私の目の前から急にいなくなってしまう。私がほんの一瞬、目を離した隙に……暗闇の向こうへ、私の手の届かないところへ、消えてしまうの」
「先輩、何を言って――」
「でも、神様はまだ、私を見捨てていなかったみたい」
先輩の手が、僕の袖を滑り落ち、今度は僕の手首をひんやりとした掌で包み込んだ。
熱を出していたあの日の名残か、それとも夜風のせいか、先輩の肌は驚くほど冷たい。だけど、握る力は、僕が振り払うことなんて到底できないほどに強固だった。
「これで、もう離れられないわ。……いいえ、離さない。この迷信が本物なら、私は喜んで呪われてあげる」
その言葉の重みに、僕は息を呑んだ。
先輩は知っていたのだ。この学校に伝わるジンクスの意味を。そして、確信犯的にこの場所に残り、この瞬間を待っていた。
僕が灯との約束を優先した結果、トラブルに巻き込まれ、偶然ここに居合わせてしまったことなんて、先輩にとっては関係のないことなのだ。ただ、「照明が落ちた瞬間に、星凪が自分の目の前にいた」という事実だけが、先輩の心を狂わせるほどの歓喜で満たしている。
――その時だった。
パサリ、と少し離れた暗闇の中で、何かが小さく崩れるような音がした。
心臓が凍りつく。
僕は、先輩に手首を掴まれたまま、音のした方へと必死に目を凝らした。
少しずつ暗闇に目が慣れてくると、かすかな星明かりの下、数メートル先に立ち尽くす、もう一つの小さな人影が、ぼんやりと浮かび上がってきた。
「……灯?」
思わず、その名前を呼んでいた。
人影はピクリとも動かなかった。だけど、あいつが手に持っていたであろう、二人三脚の紅白の綿紐が、地面に力なく落ちたのが見えた。
灯は、そこにいたのだ。
グラウンドの反対側で待っていたはずの灯は、消灯時間が迫っても僕が来ないことを心配して、あるいは僕を探して、ここまで走ってきてくれていたんだ。
そして――見てしまったのだ。
自分がすべてを賭けて誘ったはずの、その特別な瞬間、僕が弓月先輩と手を繋ぎ、寄り添い合っている姿を。
「あ、違うんだ、灯! これは……っ!」
僕は咄嗟に、先輩の手を振り払おうとした。
だけど、先輩はそれを許さなかった。僕の身体を自分のほうへと強く引き寄せ、僕の視界を遮るように、暗闇の中でその美しい顔を近づけてくる。
「ダメよ、鳴海くん。どこを見ているの? あなたの目の前にいるのは、私よ」
先輩の声が、僕の耳元で残酷に囁かれる。
遠くで、灯の人影がゆっくりと後退りしていくのが分かった。
灯は何も言わなかった。叫びもしなければ、僕を責めることもしなかった。ただ、静かに、夜の闇に溶け込むようにして、背を向けて走り去っていく。
その去り際、かすかな星の光を反射して、灯の頬を濡らす一筋の涙が、僕の脳裏に鮮烈に焼き付いた。
「灯……っ!!」
叫ぶ僕の声は、静まり返った夜のグラウンドに虚しく響くだけだった。
手首に残る、先輩の冷たくて重い体温。
闇の向こうへ消えていった、灯の泣き顔。
誰も本当の『真相』を口にしないまま、歪んだ歯車はついに噛み合い、僕たちの日常を修復不可能な形へと破壊しながら、狂ったように回り始めた。




