迎える体育祭
グラウンドに鳴り響くピストルの音と、割れんばかりの歓声。
ついに迎えた体育祭当日は、雲一つない青空が広がっていた。メガホンを叩く音、クラスメイトたちの狂気じみた怒号、そして進平の「いけえええ! 根性見せぇ!」という相変わらず関西ノリの爆音が、五感を容赦なく揺さぶってくる。
お祭り騒ぎの熱気の中にいるはずなのに、僕の心臓は、それとは全く違う理由で激しくドクドクと鐘を突いていた。
「次、二人三脚リレー、B組招集所へ集まってくださーい!」
放送が流れた瞬間、隣にいた灯の肩がびくりと跳ねた。
クラスTシャツを着た灯は、いつも通り元気な「親友」を演じようと口元を笑わせていたけれど、その瞳はどこか緊張で強張っている。あの日の放課後、夕暮れのグラウンドで僕の胸に顔を埋めて泣きそうになって以来、僕たちの間には、よりいっそう繊細で、壊れそうな空気が流れていた。
招集所の隅。僕たちは並んで地面にしゃがみ込み、お互いの足首に紅白の綿紐を巻き付けた。
練習の時と同じ、細い足首。布越しに伝わる体温。紐をきゅっと結び終えて立ち上がると、嫌でもお互いの肩と腰がぴったりと密着する。近すぎる距離に、頭がどうにかなりそうだった。
「……緊張、してる?」
僕が声をかけると、灯は小さく息を吐き出し、僕の肩に回した手にぎゅっと力を込めた。
「そりゃあね。これで転んだら、進平に一生笑いものにされるもん」
「あはは、確かに」
いつもの冗談。いつものやり取り。
だけど、灯はそのまま僕のシャツの生地を小さく掴んだまま、ふっと視線を斜め下に落とした。長い睫毛が、夕暮れではない、真昼の太陽の光を浴びて影を作っている。
「ねぇ、星凪」
「ん?」
「もし……もし、このレースで私たちが1位を取れたらさ」
灯の声が、いつもよりほんの少しだけトーンを下げて、僕の耳元に届いた。周囲の騒がしい歓声のフィルターをすり抜けて、その声だけが僕の鼓動に直接突き刺さる。
「……ご褒美、ちょうだい」
「えっ、ご褒美?」
思わず灯の顔を覗き込むと、彼女は悪戯っぽく、だけどどこか必死さを隠すように、はにかんだ笑顔を浮かべていた。頬がほんのりと桜色に染まっているのは、きっとこの暑い太陽のせいだけじゃない。
「うん。なんでもいいよ。ジュース1本でもいいし、どっか遊びに行くのでもいいし……。とにかく、勝ったら私が欲しいもの、一つだけ星凪に叶えてもらうの。ダメ?」
上目遣いで僕を見つめる灯の瞳。
その奥にあるものは、ただの勝負の罰ゲームのような軽さではなかった。まるで、この二人三脚で勝つことに、僕たちのこれからの関係のすべてを賭けているかのような、切実で、だけど甘い熱がそこにはあった。
あの日、灯が口にしそうになった「ずっと前から」という言葉の続き。
そして、保健室の暗闇の中でうなされていた弓月先輩の「置いていかないで」という掠れた声。
2人の少女の秘めた想いが、この体育祭の熱気の中で、いよいよ形を変えて僕に迫ってくる。僕がまだ何も思い出せないまま、日常の歯車は、もう後戻りできないスピードで回り始めていた。
「……わかった。1位取れたら、何でも言うこと聞くよ」
僕が覚悟を決めてそう言うと、灯はパッと目を見開いた後、今日一番の、嘘偽りのない眩しい笑顔を咲かせた。
「言ったね! よし……絶対勝つよ、星凪!」
「2年B組、位置についてくださーい!」
スターターの合図が響く。
僕たちは一歩を踏み出すために、お互いの身体を強く引き寄せ合った。その瞬間、灯の髪からふわりと香ったあの微かな甘い匂いが、僕の脳裏の、あの夜の冷たい風を、一瞬だけ優しくかき消したような気がした。
――パーン、と乾いたピストルの音が青空に吸い込まれていった。
その瞬間、僕たちの身体は弾かれたように前方へと飛び出していた。
「イチ、ニ! イチ、ニ!」
灯の弾むような掛け声が、すぐ耳元で聞こえる。
練習の時はあんなにもつれていた足が、今は嘘みたいに噛み合っていた。右、左、右、左。お互いの太ももが擦れ合い、結んだ紅白の紐がぐっと引っ張られるたび、二人で一人の生き物になったかのような奇妙な高揚感が身体を駆け巡る。
グラウンドを埋め尽くす歓声が、まるで遠い世界の出来事のように鼓膜の奥でこもって聞こえた。視界にあるのは、照り返す白線と、前を走る他クラスの背中だけだ。
「星凪、いける! 前、抜けるよ!」
「うん……っ!」
コーナーに差し掛かり、遠心力で身体が外側に振られそうになる。僕は咄嗟に、灯の細い肩を左腕で強く抱き寄せた。灯もまた、僕の腰をぎゅっと抱きしめ返す。
汗の匂いと、太陽の熱と、灯の髪の甘い香りが、めちゃくちゃに混ざり合って胸がいっぱいになる。
――勝ったら、私が欲しいもの、一つだけ叶えてもらうの。
その言葉が、僕の脚を突き動かす。
灯が何を望んでいるのか、今の僕にはまだ分からない。だけど、あいつのあの切実な目を裏切りたくないという一心だけで、僕は泥臭く地面を蹴り続けた。
最後の直線。前を走るA組の背中が、一歩ごとに近づいてくる。
「せーのっ、……走れぇぇ!」
灯が声を張り上げた。
最後の力を振り絞り、僕たちはほとんど もつれ込むようにして、同時にゴールラインを駆け抜けた。
「――2年B組、1着!!」
実況のメガホンが響いた瞬間、僕たちの身体はバランスを崩し、そのままグラウンドの砂の上に重なるようにして倒れ込んだ。
「痛たた……っ」
「きゃっ……!」
舞い上がる白い砂。だけど、痛みなんて少しも感じなかった。僕の胸の上に、灯の小さな身体がすっぽりと乗っかっている。お互いに肩で激しく息をしながら、信じられないというように目を見開いた。
「勝った……? 嘘、星凪、私たち1位!?」
「あはは、やった……やったよ、灯!」
灯の顔が、歓喜でくしゃりと歪む。あいつは僕の胸に両手を突いたまま、弾けたような笑顔を見せた。その距離は、唇が触れそうなくらいに近かった。
「……あ」
お互いの心臓の音が、ダイレクトに体躯を通じて響き合う。あまりの近さに、灯の笑顔がふっと固まり、みるみるうちに耳の裏まで真っ赤に染まっていく。慌てて退こうとした灯だったけれど、足首の紐がそれを許さない。
「うわっと、動くと危ないって!」
「ご、ごめん! ……でも、約束、覚えてるよね?」
灯は僕の胸元をぎゅっと握りしめたまま、上気した顔で僕を真っ直ぐに見つめた。その瞳は、勝った喜びの裏で、ひどく真剣に揺れている。
「私、ご褒美……本当に、何でも言うこと聞いてもらうからね」
「……あぁ。約束だからね」
僕がそう答えると、灯は安心したように小さく息を漏らした。
その時だった。
騒がしいグラウンドの熱気の中に、冷や水をぶっかけられたような、奇妙な『視線』を感じて、僕は思わず顔を上げた。
本部テントの最前列。
生徒会の腕章を巻いた弓月先輩が、パイプ椅子に腰掛けたまま、こちらをじっと見つめていた。
手にしたバインダーを白くなるほど強く握りしめ、その氷のような瞳は、僕と灯の結ばれた足元を、そして重なり合ったままの身体を、じっと見下ろしている。
熱を出して保健室であんなに弱々しくうなされていた人とは、とても思えないほどの、昏く、深い拒絶の眼差し。
陽炎が揺れるグラウンドの真ん中で、僕は灯の体温を感じながら、同時に先輩の視線に射すくめられていた。
1位の歓声が遠ざかっていく。
灯の甘いご褒美の約束と、弓月先輩の冷徹な視線。
体育祭という狂騒のピークの裏で、僕たちの歪んだ歯車は、いよいよ決定的な破滅へと向かってスピードを上げていくような気がした。
僕がグラウンドの砂の上に倒れ込んだまま、本部テントの弓月先輩の視線に息を呑んでいた、その時だった。
僕の胸元を握りしめる灯の手に、さらにきゅっと力がこもる。
先輩の視線に気づいているのか、それともわざと視線を外しているのか、灯は僕の顔だけを真っ直ぐに見つめていた。その大きな瞳の奥には、いつもの眩しい太陽のような明るさはなく、夕暮れのグラウンドで見せたような、ひどく切実な光が揺れている。
「星凪。……私が欲しいご褒美、今言ってもいい?」
「え……? うん、いいよ。何?」
てっきり「どこどこのカフェのパフェ」とか「新しく出るゲーム」とか、そういう他愛のないものだと思い込もうとしていた。そうやって、僕たちの間の安全な距離を必死に守ろうとしていた。
だけど、灯の口からこぼれ落ちたのは、僕の予想を遥かに超えた、けれどどこか恐れていた言葉だった。
「今日の夜……体育祭の片付けが全部終わった後、グラウンドに残って。私と一緒に」
「……え?」
思わず、間抜けた声が出た。
てっきり何か物を買わされるか、どこかへ付き合わされるかだと思っていたのに、彼女が口にしたのは「夜の学校に居残る」という、あまりにも奇妙な要求だったからだ。
「グラウンドに? 片付けの後に残って、どうするのさ。先生たちに見つかったら怒られるよ」
「……いいの。ただ、残ってほしいだけ」
灯はただ、はぐらかすように自嘲気味に、だけどどこか誇らしげに小さく笑った。その笑顔は、胸が締め付けられるほどに痛々しくて、綺麗だった。
「ただの私のワガママ。でもね……そうでもしないと、星凪はどんどん私の知らない遠くに行っちゃいそうな気がするんだよ。最近の星凪を見てると、私、すごく怖くなるの」
灯の言葉の端々に滲む、僕への剥き出しの執着。
彼女は僕が何かを抱えていることはわかっている。そして自分が置いていかれることを、震えるほど恐れているんだ。居残ることに何の意味があるのかは僕には分からなかったけれど、灯のその真剣すぎる目を見れば、それがただのノリや悪ふざけではないことくらい、僕にだって痛いほど分かった。
僕は言葉を失ったまま、灯を見つめることしかできなかった。
目の前で、僕のシャツを掴んで「一緒に居残って」と乞う灯。
建物の陰から、僕たちの結ばれた足元を、世界の終わりを見るような氷の瞳で見つめ続けている、弓月先輩。
奇妙な胸のざわつきに、頭の奥がズキズキと痛み出す。
数日前、熱に浮かされた先輩が保健室の暗闇でうなされていた、あの姿。あの時、先輩の頼りない輪郭に、僕は確かにあの夜の少女の面影を見てしまった。
(もし……もしも、あの夜の少女が先輩なのだとしたら)
灯が僕を夜のグラウンドに誘うのは、一体どういう意味があるんだろう。
まだ何も真相は分からない。誰も本当のことを教えてくれない。だけど、僕たちの過去の因縁は、この体育祭の夜という舞台へ向けて、確実に包囲網を狭めていた。
「……約束、破ったら承知しないからね」
灯はそう言って、僕の胸からようやく身体を離し、しゃがみ込んで足首の紐を解き始めた。
昏紅白の紐がするりと解け、僕たちの身体が離れていく。
昼間の残酷なほどの青空の下、僕は立ち上がり、冷や汗の流れる首筋を拭った。
狂騒の体育祭はまだ続いていく。けれど、僕の意識はもう、灯が何を企んでいるのかも分からないまま、あの祭りの後に訪れる、静まり返った夜のグラウンドへと囚われてしまっていた。




