騒がしい日常の裏にある感情の澱
灯との二人三脚の居残り練習から数日。体育祭の足音が近づくにつれて、学校全体がさらに慌ただしさを増していた。
グラウンドでの熱気から逃れるように僕が向かったのは、放課後の生徒会室だった。
ここ最近の弓月先輩との距離は、相変わらず冷え切ったままだ。部屋に入っても目線すら合わない。けれど、体育祭という巨大な行事を前に、生徒会の仕事量は限界に達していた。各部活動からの備品申請、当日のプログラム変更、救護班の配置。山積みの書類を前に、さすがの先輩も一人で全てを捌ききれなくなっているのが、傍から見ていても分かった。
「星凪くん。この機材配置の図面、修正版を印刷してグラウンドの本部に届けてちょうだい」
「あ、はい。わかりました」
夕方を過ぎ、他の役員たちがそれぞれの仕事で出払ってしまった室内。残されたのは、僕と先輩の二人だけだった。
黙々とコピー機を動かし、書類をホチキスで留めていく。窓の外からは、まだグラウンドで応援合戦の練習をしている生徒たちの微かな掛け声が聞こえてくる。
その時、室内に短い沈黙が訪れた。
いつもなら聞こえるはずの、先輩のシャーペンを走らせる音が止まっている。
不思議に思って振り返ると、先輩はデスクに両肘をつき、額を両手で支えるようにして下を向いていた。長い黒髪が、その横顔を隠すようにハラリと落ちている。
「……先輩?」
声をかけても、返事がない。ただ、その肩が心なしか小さく震えているように見えた。
僕はホチキスを置き、恐る恐る先輩のデスクへと近づいた。
机の上には、びっしりと数字が書き込まれた予算案と、他校との調整書類が散乱している。そのどれもが、完璧主義の先輩が一人で抱え込んできたものだ。
「弓月先輩……大丈夫ですか?」
もう一度声をかけた瞬間、先輩がゆっくりと顔を上げた。
いつも僕を見下ろしていたあの鋭い瞳が、今は信じられないほど弱々しく、微かに潤んでいる。その白い頬は、熱を持ったように赤くなっていた。
「……なんでもないわ。ただ、少し……」
言いかけた先輩の身体が、ふらりと横に傾く。
「先輩っ!」
僕は咄嗟にデスクを回り込み、倒れそうになった先輩の肩を支えた。
腕の中に触れた先輩の身体は、驚くほど熱かった。息が荒く、いつもまとっている冷徹な拒絶のオーラなんて、どこにもなくなっていた。
「熱、ありますよ……。無理しすぎです。最近、全然休んでなかったじゃないですか」
「……離して。私は、生徒会長よ。これくらい、一人で……」
先輩は僕の胸を弱々しく押し返そうとする。けれど、その手には全く力が乗っていなかった。むしろ、僕の制服の特有の生地の感触を確かめるように、その指先が小さく震えながら僕の腕を掴む。
その瞬間、先輩の瞳が、熱のせいか、あるいは別の理由からか、トロンと大きく揺れた。僕を突き放すはずの言葉が、喉の奥で消えていく。
「……どうして、いつもそうなの」
先輩が、掠れた声で呟いた。
「どうしてあなたは、そんな風に……私を置いていってしまうの」
「え……?」
「あの日もそう。私だって、ずっとあなたと……星を……」
そこまで言って、先輩はハッと我に返ったように唇を噛んだ。
その瞳の奥に、いつもの「冷たい仮面」を必死に取り戻そうとする光が走る。だけど、僕の心臓はすでに、その言葉に強烈に反応してしまっていた。
――あの日。星。
先輩も、あの夜のことを言っているのだろうか。先輩もまた、僕の知らない「あの日」の記憶をその胸に抱えて、僕を見ていたのだろうか。
「先輩、それってどういう――」
「……忘れて。熱のせいで、変なことを言ったわ」
先輩は今度こそ僕の手を振り払い、デスクに深く腰掛け直した。そして、顔を隠すようにして、掠れた声で僕に背を向ける。
「今日の作業はここまでにするわ。星凪くん……悪いけれど、鍵を閉めて、私を保健室まで……連れて行ってくれないかしら」
頼るような、だけどこれ以上踏み込ませないような、張り詰めた声。
氷のようだった弓月先輩の、初めて見た脆い素顔。
灯との間で揺れていた僕の心に、また一つ、どうしても無視できない大きな波紋が広がっていくのを、僕は夕闇の生徒会室で静かに感じていた。
放課後の喧騒が完全に遠のいた渡り廊下を、僕は先輩の身体を支えながらゆっくりと歩いた。
肩を貸した弓月先輩の身体は、さっきよりもずっと熱を帯びているように感じられた。いつもなら凛として隙のない先輩が、今は僕に体重を預け、小さく息を荒くしている。頼りなく揺れる肩を支えるたび、すれ違いざまに香る微かな匂いが、熱のせいでいつもより少しだけ濃く、僕の鼻腔をくすぐった。その温もりが、僕の胸の奥にある気まずさを、じわじわと焦燥感へ変えていく。
静まり返った保健室のドアを開け、先輩を奥のベッドへと横たわらせる。
「……ありがとう、星凪くん」
枕に頭を沈めた先輩は、そう言って力なく微笑んだ。額に手を当て、息を整えようとしている。その姿は、生徒会室で見た完璧な「生徒会長」の姿とは程遠く、ひどく脆い、一人の等身大の女の子に見えた。
「先生、もう帰っちゃったみたいですね。冷たいタオル、持ってきます」
僕がパイプ椅子から立ち上がろうとした時、先輩はすでに重い微熱の波に呑み込まれるように、ゆっくりと瞼を閉じていた。
「……っ、……ん……」
パイプ椅子に座り直した僕の耳に、先輩の小さく苦しげな呼吸の音が届く。
カーテンの隙間から差し込む夕日が、先輩の白い肌を淡いオレンジ色に染めていた。先輩はうっすらと額に汗を浮かべ、何かから逃れるように、小さく頭を左右に振ってうなされ始めた。
「……だめ……置いて、いかないで……」
掠れた、ひどく幼い声だった。
いつも僕たちを惹きつけ、時に冷たく突き放すあの凛とした生徒会長の声ではない。守られていなければ壊れてしまいそうな、迷子の少女のような声。
「……星凪……くん……」
熱に浮かされた先輩の口から、僕の名前がこぼれ落ちる。
その瞬間、先輩の細い指先が、何かを探すようにベッドのシーツをきゅっと掴んだ。
「っ……!」
心臓が、ドクンと大きく跳ね上がった。
その指の動き、その怯えるような声の震え、解けた髪が夕闇に溶けていく頼りなげな横顔。
――あの日。
僕の脳裏に、ずっと頑固に封印してきたはずの、あの星が降る夜の光景が、静かにフラッシュバックした。
暗い森の奥。肌を刺すような冷たい空気。僕のすぐ隣で、同じように怯えながら、だけど僕のすぐ近くで確かに息を弾ませていた、あの夜の少女の横顔。
(もしかして……あの時、僕の隣にいたのって……)
確信はなかった。記憶のモザイクはまだ粗く、ただの僕の都合のいい幻覚かもしれない。だいいち、僕を助けてくれた少女について、うちの親は「そんな場所に女の子がいるわけがない」の一点張りだったはずだ。親が正しければ、あの夜、僕の周りに女の子なんていなかったことになる。
なのに、どうして今、目の前でうなされている弓月先輩の姿に、あの夜の少女の頼りない輪郭が、どうしても重なって見えてしまうんだろう。
先輩の手が、今度はシーツを離れ、空をあてもなく彷徨う。僕は吸い寄せられるように、その熱い手を両手でそっと包み込んだ。
「……ここにいます、先輩」
僕がそう呟くと、先輩は僕の手の温もりに安心したのか、小さく息を吐き出し、それ以上うなされることはなくなった。
繋いだ手から、先輩の熱い体温が、僕の皮膚を通じて脳裏へと駆け上がってくる。
先輩の呼吸がすっかり落ち着くまで、僕はその手を握り続けた。
窓の外の夕日は完全に沈み、保健室の中は深い群青色の闇に包まれていく。静寂が部屋を満たす中、僕の頭の中だけは、出口のない迷路に迷い込んだようにぐるぐると回り続けていた。
何かがおかしい。
ここ最近の学校生活のすべてが、目に見えない奇妙な糸で引っ張られているような違和感があった。
数日前、夕暮れのグラウンドで、僕のシャツの裾を握りしめて「忘れられるわけないじゃん」と泣きそうに言った灯。あいつは「ずっと前から」と言いかけて、言葉を飲み込んだ。いつも通りの幼馴染の笑顔の裏で、灯は何を隠しているんだろう。
そして今、熱に浮かされながら僕の名前を呼び、「置いていかないで」と呟いた弓月先輩。朝の廊下であれほど僕を冷たく無視した人が、どうして夢の中ではこんなにも寂しそうな声を出すんだろう。
灯の涙。
弓月先輩の拒絶。
そして、僕がずっと心の奥底に封じ込めてきた、あの夜の記憶。
バラバラだったはずの点と点が、僕の知らないところで不穏に繋がり合おうとしている気がして、背中に冷たい汗が流れた。
(僕は……あの日、本当は誰と出会って、何を失くしたんだ?)
どれだけ考えても、答えは出ない。幼い頃の記憶の扉は重く閉ざされたままで、ノックをしても虚しい音しか返ってこなかった。ただ一つ分かっているのは、2人の少女が僕に向ける視線の理由が、あの夜の暗闇の中に隠されているのかもしれない、ということだけだった。
トントン、と微かな足音が遠くの廊下から聞こえ、僕は我に返って先輩の手をそっと離した。
先輩の顔は、先ほどよりもいくらか穏やかになり、静かな寝息を立てている。熱も少しは下がってきたのだろうか、頬の赤みが引いていくのが暗がりでも分かった。
「……ごめん、先輩」
小さく呟いた言葉は、誰に届くこともなく暗闇に溶けて消えた。
体育祭の足音が近づいている。グラウンドを駆けるクラスメイトたちの歓声、メガホンの爆音、進平の関西ノリ。…灯の感情。そんな騒がしい日常の裏側で、僕の知らない過去の澱が、じわじわと足元から這い上がってきているような予感がした。
誰も本当のことを言わない。誰も、僕の失くした記憶を教えてはくれない。
歪んだままの歯車が、静かに、けれど確実に回り続ける。
僕はカバンを手に取り、そっと保健室を後にした。ゆっくりとドアを閉める瞬間、冷たい夜風が渡り廊下を吹き抜けていき、僕の制服の袖を小さく揺らした。その風は、あの星の降る夜に吹いていた風と、どこかよく似ている気がした。




