死の香り
テスト最終日の終わりの鐘が、校舎に乾いた余韻を残して消えた。五時を回った校舎は、すでに生徒たちの喧騒から切り離され、埃っぽい静寂の中に沈んでいる。教室に漂う解放感など、僕には無縁のものだった。机の上には、鉛筆の削りかすと、空白だらけの世界史の解答用紙が取り残されている。
テストの点数や成績順位のことなど、今の僕にとってはどこか別の世界の話のように思えた。僕の足は、吸い寄せられるように生徒会室へと向かっていた。廊下には僕の靴音だけが反響し、窓から差し込む六月の夕日が、床に長く歪な影を落としている。
生徒会室までの道のりは、いつもより遥かに長く感じられた。廊下の突き当たりにある掲示板には、来月七夕に行われる恒例行事のポスターが貼られている。それを見つめるだけで、僕の心臓は高鳴り、同時に言いようのない焦燥が込み上げてくる。なぜ、あの日からこれほどまでに僕は「答え」を求めて彷徨っているのだろうか。
階段を登りながら、僕は自分の内面を反芻していた。この一週間、僕の心を支配していたのは、あの七夕の夜の記憶への渇望だった。ファミレスでのフラッシュバック以来、僕の思考は弓月先輩という磁石に強烈に引き寄せられている。彼女が僕を救い出した。彼女だけが、あの夜の森の深淵を知っている。そう信じることが、崩れそうな日常を繋ぎ止めるための唯一の楔となっていた。灯の優しい眼差しが時折、良心の呵責となって突き刺さるが、僕はそれを無視するようにして加速する衝動に身を任せていた。
突き当たりの生徒会室のドアが、いつになく重厚に見える。僕はノックの前に一度深呼吸をした。制服の襟元を直し、濡れた髪を軽く整える。誰かに見られるわけでもないのに、僕はまるでこれから決戦の場に赴くかのような緊張感に襲われていた。
「……失礼します」
小さく声をかけ、ドアをそっと開く。中にはひやりとした冷たい空気が張り詰めている。窓際のデスクで書類に目を通していた弓月先輩は、僕の姿を認めると、ゆっくりと万年筆を置いた。その動作一つ一つが、今日という日にふさわしい、重く引き締まった緊張感を纏っている。彼女の背後には、沈みゆく夕日が薄いオレンジ色のベールとなって彼女を包み込み、どこか現実離れした美しさを際立たせていた。
先輩はすぐに言葉を発しなかった。彼女は僕をじっと見つめたまま、万年筆を指先で弄んでいる。その瞳には、僕の理解できない深い思索の色が宿っていた。僕は部屋の真ん中で立ち尽くし、彼女が口を開くのを待つしかなかった。
「……終わったのね。お疲れ様、星凪くん」
先輩の声は、いつもより少しだけ低く、かすれていた。その響きに、僕は言いようのない不安を覚える。僕は彼女の前に立ち、テスト期間中に募らせたままの、押し殺してきた感情をただ抱えていた。僕の心は、理由も分からずに荒波に揺られる小舟のように不安定だ。彼女の瞳を見つめると、自分がどこまで沈んでいくのか分からなくなる。
「テスト……最後の手応えはどうだった?」
彼女は事務的な質問を投げかけてきた。僕は心ここにあらずで、適当な相槌を打つ。彼女の手元には、僕の知らない古い資料が積まれている。そのどれもが、僕が記憶の彼方に捨ててきたはずの過去と繋がっているような気がしてならない。
僕はあえて何も言わずに、彼女の反応を待った。彼女が何かを隠しているのなら、その沈黙の壁を壊すのは僕の役目ではないのかもしれない。重苦しい時間が流れ、部屋を包む夕闇が少しずつ濃くなっていく。先輩は溜息を一つ吐くと、万年筆をトレイに戻し、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
窓際のカーテンを閉めると、部屋の明かりがより一層際立つ。彼女はゆっくりと歩み寄り、僕のすぐ目の前で立ち止まった。僕たちの間には、今にも切れそうなほど細い糸が張られているような、そんな危うい距離感があった。彼女の体温さえも、この生徒会室の冷気の中に溶けていきそうだ。
「……何か、報告することがありますか?」
僕がそう尋ねると、彼女はふっと、全てを諦めたような、あるいは覚悟を決めたような、悲痛なほどの静けさを瞳に湛えて僕を見つめた。
彼女はデスクからゆっくりと立ち上がり、窓際のカーテンを閉めると、部屋の明かりがより一層際立つ。彼女はゆっくりと歩み寄り、僕のすぐ目の前で立ち止まった。僕たちの間には、今にも切れそうなほど細い糸が張られているような、そんな危うい距離感があった。
「星凪くん。あなたは、どうしてそんなに答えを急ぐの?」
不意に投げかけられた問いに、僕は言葉を失った。先輩は僕の目から決して視線を外さない。
「……あの夜、森で迷子になったあなたと、あなたを導いてくれた誰か。……あなたがずっと探している、その『真実』についてよ」
心臓が跳ねた。僕は何も言っていない。まだ何も話していないのに、なぜ彼女がその言葉を口にするのか。
「あなたは、母から『あそこに女の子なんていなかった』と聞かされていた。……ええ、それは事実よ。あそこに『普通』の存在なんて、一人もいなかったのだから」
彼女は僕の制服の襟元にそっと指先を触れる。その指先は氷のように冷たかった。彼女はそのまま僕の胸に額を預け、小さく、深い息を吐いた。
「あの夜、暗闇の中、泣きじゃくるあなたを森の奥で見つけて手を引いたのは……私よ。けれど、それからあなたが私にどんな約束をして、私があなたを助けるためにどんな対価を支払ったのか、あなたは覚えていないのね」
彼女が僕の胸に寄り添う体温は、僕が求めていた「恩人」の温もりとは決定的に違う。死に近いほど凍てついた、拒絶と慈しみの入り混じった冷たさ。
「私はもう……あなたに残せるものがないの。あの夜、私があの森に留まったこと自体が、私の人生の終わりを意味していたのだから」
彼女の言葉が、脳内で反響する。彼女の表情が急激に歪み始めた。僕の知らない過去、僕の知らない彼女の苦悩が、その言葉の端々に滲み出ている。彼女が何を言おうとしているのか。その重みに思考が追いつかない。
「あのね、星凪。私は……」
先輩がそう言いかけた、その瞬間だった。
視界の端が、まるで水面に落ちたインクのように急速に染まっていく。鋭い頭痛が、脳を真っ二つに引き裂くような感覚となって僕を襲った。
「うっ……!」
頭を押さえ、僕はたまらず膝をつく。足の力が抜け、床に崩れ落ちる。先輩の背中が遠ざかり、霧の中で何かが崩れ去る音が聞こえる。心臓が早鐘を打ち、全身から脂汗が吹き出す。
「……っ、星凪!?」
先輩の悲鳴のような呼び声が聞こえる。彼女が駆け寄り、僕の体を支えようと腕を伸ばすのが分かった。その腕の中に、僕は吸い込まれるように倒れ込む。
先輩の身体から伝わってくる、甘い香りと、そして確実な「死」のような、凍りつくような冷たさ。僕の意識は、その冷たさに抱かれながら、容赦なく漆黒の深淵へと引きずられていった。




