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不穏な気配

翌日。学校へ向かう僕の足取りは、昨日よりもさらに重かった。

 寝不足のせいだけじゃない。目を閉じるたびに脳裏をよぎる、二人の少女の残像が胸の奥をせき止めている。モールの通路の向こうで、見たこともないほど冷たく、そして傷ついたような目で僕を見つめていた弓月先輩。そして、夕暮れの街頭の下で、僕の手を小さく、けれど逃げられないほどの強さで握りしめていた灯。

 二人の温度差が、僕の胸の中でぐちゃぐちゃに混ざり合って、冷たい塊になって居座っている。

「……はぁ」

 下駄箱の前で思わず大きなため息をついた瞬間、背後から強烈な衝撃が走った。

「おっしゃ星凪! 朝っぱらから死にそうな顔してどないしたんや! 魂抜けてへんか!?」

 関西弁の爆音が鼓膜を揺らす。振り返ると、いつも通り日に焼けた黒い肌に、白い歯をニカッと輝かせた進平が立っていた。その屈託のない笑顔と、いつもと一ミリも変わらない大雑把な態度に、張り詰めていた僕の肩の力がわずかに抜ける。

「……進平。朝から元気だね」

「当たり前やんけ! 男子たるもの、常にエネルギー全開で生きなアカン。それよりお前、顔色最悪やぞ。昨日ちゃんと寝たか? まーた美術室の片付けで夜更かしでもしたんちゃうやろな」

「いや、ちょっと考え事をしててさ……」

「ふーん? まぁ、色々と大変な時期やもんな。ほな、教室行こうや」

 進平は僕の肩に腕を回し、いつもの軽い足取りで歩き出す。彼は鈍感なフリをしながらも、僕が何かを抱えているときは、あえて深く踏み込まずに隣にいてくれる。その優しさが、今の僕にはひどくありがたかった。

 けれど、教室の扉を開けた瞬間、その救いは一瞬で消え去った。

「あ、星凪、進平、おはよう!」

 席に着いていた灯が、こちらを振り返っていつも通りの明るい声を出した。ショートカットの髪を揺らし、満面の笑みを浮かべている。

 いつも通り。本当に、いつも通りの灯だ。

 だけど、僕には分かってしまった。彼女の笑顔の端が、ほんの少しだけ引きつっていることに。僕と目が合った一瞬、彼女の瞳が小さく揺れ、手元に置かれたノートを握る指先に、ぎゅっと力がこもったのを。

「……灯、おはよう」

「おぅ、灯、元気やなぁ!朝飯何食べてきたん?」

「もー、進平は朝からうるさい! 私は普通にトーストだよ」

 灯は進平の言葉にケラケラと笑いながら応じている。いつも通りの、三人の掛け合い。だけど、僕と灯の間にだけ、目に見えない透明な壁が立ちはだかっているような、奇妙なぎこちなさが漂っていた。

 昨日の夕方、灯は僕の腕の中で泣きそうな声を出しながら、「隣にいたい」と言った。僕の記憶の断片を引きずり出し、激しく揺さぶったその温もり。

 それなのに、今の彼女はまるで何事もなかったかのように振る舞おうとしている。それが僕への気遣いなのだと分かってしまうからこそ、僕の胸は締め付けられるように痛んだ。

 朝のホームルームが始まり、先生が何かを話している間も、僕の頭は使い物にならなかった。

 ――あの日。星が降るような夜、僕が森の奥で迷子になったあの日。

 チャイムが鳴り、一限目の授業が終わる。

 僕はたまらず席を立ち、廊下へ出た。この息苦しい教室から、少しでも逃れたかった。

「……あ」

 廊下の角を曲がった瞬間、心臓が跳ね上がった。

 向こうから、凛とした空気をまとって歩いてくる人影があった。長い髪、端正な顔立ち、けれど生徒会長の腕章。弓月先輩だった。

 周囲の生徒たちが「あ、生徒会長だ」と小声で囁き合う中、先輩はまっすぐにこちらへ歩いてくる。僕の鼓動が速くなる。昨日のお礼を、いや、昨日の誤解を解かなければならない。僕は意を決して、一歩前に踏み出した。

「……弓月、先輩」

 声をかけた。

 けれど、先輩の歩調は乱れなかった。

 ほんの一瞬、先輩の切れ上がった瞳が僕を捉えたような気がした。精度高く僕を見据えるはずのその瞳には、しかし何の感情も灯っていなかった。まるで、そこに誰も存在していないかのように、ただの空気を見るような冷徹さで、先輩は僕の横を通り過ぎていった。

 すれ違いざま、先輩の髪がふわりと揺れ、昨日と同じ微かな香りが鼻腔をくすぐる。

 ――完全な、無視。

 昨日の朝、廊下で「もっと知りたい」と弱々しく微笑んでいたあの先輩は、どこにもいなかった。その圧倒的な拒絶に、僕の指先が冷たく震える。

「……何やってんねん、お前」

 いつの間にか後ろに立っていた進平が、呆れたような、けれどどこか心配そうな声で僕の肩を叩いた。

「進平……」

「完全に避けられとるなぁ。挨拶くらい返してくれてもええのに。会長はん、今日一段と機嫌悪そうやな」

 進平は通り過ぎていく先輩の背中を眺めながら、ふぅとため息をついた。

「なぁ、星凪。お前、昨日あの後、なんかやらかしたんか?」

「……いや、何も。ただ、モールでばったり会って……」

「モール? 灯と一緒におるところを見られたんか?」

 進平の言葉に、僕は小さく頷いた。進平は「あちゃー」と額に手を当て、大げさに首を振る。

「そらアカンわ。会長はん、お前のことえらい気に入っとるみたいやったし、女子の嫉嫉は怖いで? ……まぁ、俺にはよぉ分からんけどな!」

 いつものように冗談めかして笑う進平。だけど、彼の目は笑っていなかった。彼は僕の顔をじっと見つめ、それから声を少し低くした。

「星凪。お前さ、灯のこと、どう思っとるん?」

「え……?」

「灯ちゃん、今日無理して笑っとるやろ。お前が元気ないから、必死にいつも通りにしようとしとんねん。あいつ、分かりやすいからさ」

 進平の言葉が、胸にぐサリと刺さる。

 分かっている。灯がどれだけ無理をしているか、僕のためにどれだけ心を痛めているか。だけど、僕の頭の中は、今や完全に『あの日』の記憶と、弓月先輩の冷たい視線に占拠されてしまっていた。

「進平、俺……」

「まぁ、深く考えすぎんな。放課後、美術室でじっくり話聞いたるからな。今はとりあえず、授業戻るぞ」

 進平は僕の背中をぽんと叩き、教室へと歩き出した。その背中を追いかけながら、僕はふと、教室の窓際に目をやった。

 そこには、窓の外をぼんやりと眺めている灯の横顔があった。その瞳は、いつも通りに輝いてはいなかった。どこか遠く、僕の手の届かない過去を見つめているような、寂しげな影を落としていた。

 昼休みになっても、状況は変わらなかった。

 お弁当を食べるときも、進平が一人で関西ノリのワチャワチャした話を爆発させて場を盛り上げようとしてくれたけれど、僕と灯の会話はどこか上辺だけで、すぐに途切れてしまう。

「あ、そうだ! 星凪、今日の放課後、ノート貸してほしいな。ほら、一限目の数学、私ちょっと寝ちゃってさ!」

 灯がわざとらしく明るい声を出す。

「うん、いいよ。カバンに入ってるから、後で渡すね」

「ありがと! 助かるー!」

 それだけの会話なのに、言葉の裏側で、お互いに触れてはいけない傷口を庇い合っているような痛々しさがあった。灯は僕の顔をまっすぐに見ようとせず、僕もまた、彼女の手の温もりを思い出してしまって視線をそらした。

 進平はその様子を黙って見守りながら、最後に一言だけ呟いた。

「……まぁ、焦らんと、ゆっくりな」

 その言葉が、誰に向けられたものなのかは分からなかった。

 午後になり、廊下ですれ違う弓月先輩は、相変わらず僕の存在を完全に消し去ったかのように冷たかった。その徹底した拒絶が、僕の胸の奥にある『あの日』の光景を、より一層激しく揺さぶり続ける。

 自分がどれほど残酷な中心点に立たされているのかを自覚し、僕はめまいを覚えた。窓の外を見上げると、昨日のどんよりとした曇り空が嘘のように、突き抜けるような青空が広がっていた。けれど、僕の心の中には、あの星の降る夜の、ひどく冷たい風が吹き荒れたままだった。

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