桜と距離感。
翌朝、目覚ましの音がやけに遠く聞こえた。
昨日の疲れが残っているというより、胸の奥に重たい石が沈んでいるような感覚だった。
制服に袖を通しながら、僕はため息をひとつ落とす。
――弓月先輩。
昨日のあの冷たさは、なんだったんだろう。
生徒会室でのあの距離感。
必要最低限の言葉だけを投げて、僕の目を一度も見なかった。
朝の路地裏で見た、あの弱さを含んだ表情はどこにもなかった。
そして灯。
あの子は……あの瞬間、確かに気持ちを漏らした。
「もし先輩と仲良くなったら、私にも紹介してよ」
あれは冗談のようで、冗談じゃなかった。
僕はどう返せばよかったのか、今でもわからない。
靴を履きながら、胸の奥がじんわりと痛む。
「……行くか」
家を出ると、朝の空気は少し湿っていた。
梅雨が近いのかもしれない。
桜はほとんど散って、道端に薄いピンクの影を残している。
学校に着くと、昇降口の前で進平が手を振っていた。
「おーい星凪!昨日の生徒会どうやったんや!」
声がデカい。
朝から元気すぎる。
「普通だよ。書類整理とか、雑用とか」
「なんや、もっとこう……青春っぽいイベントはなかったんか?」
「青春ってなんだよ」
「知らんけど!」
進平は笑って僕の肩を叩く。
その明るさが、逆に胸に刺さる。
教室に入ると、灯がすでに席に座っていた。
僕を見ると、ほんの一瞬だけ目をそらす。
「……おはよ、星凪」
「お、おはよう」
ぎこちない。
昨日までの自然な距離感が嘘みたいだ。
灯は笑おうとして、うまく笑えず、視線を机に落とした。
「昨日のこと、気にしなくていいから。ほんとに」
その声は、いつもの明るさの半分もなかった。
僕は何も言えなかった。
言葉を探しても、喉の奥でつかえて出てこない。
進平が僕と灯を交互に見て、眉をひそめる。
「……なんやお前ら、朝から空気重ない?」
「別に」
「別に」
また声が重なった。
灯は気まずそうに笑い、僕は目をそらした。
進平は「はぁ?」と呆れたようにため息をつく。
「お前ら、もっとこう……青春せぇよ」
「青春ってなんだよ」
「知らんけど!」
またそれか。
でも、その軽さが救いでもあった。
その時、教室のドアが開いた。
「鳴海くん、生徒会室まで来てもらえる?」
弓月先輩だった。
昨日と同じ、いや、昨日よりも冷たい。
表情は無表情に近く、声には温度がなかった。
「……はい」
僕は立ち上がる。
灯の視線が背中に刺さる。
進平は何か言いたげに口を開きかけて、結局閉じた。
廊下に出ると、弓月先輩は一言も話さず歩き出した。
昨日の柔らかさはどこにもない。
「……あの、先輩」
勇気を振り絞って声をかける。
弓月先輩は足を止めず、淡々と答えた。
「仕事中は“先輩”じゃなくて“会長”って呼んで」
「……はい」
冷たい。
本当に冷たい。
昨日のあの笑顔は、なんだったんだろう。
生徒会室に入ると、先輩は机の上の書類を指差した。
「これ、クラスごとに配ってきて。急ぎで」
「わかりました」
「終わったら戻ってきて」
それだけ言うと、先輩は視線を書類に戻した。
僕の存在なんて、最初からなかったみたいに。
胸が痛む。
理由がわからない痛みだ。
廊下を歩きながら、僕は昨日のことを思い返す。
――朝の路地裏。
――膝を抱えていた弓月先輩。
――あの弱さ。
――あの笑顔。
全部、幻だったんだろうか。
教室に戻ると、灯が心配そうに僕を見た。
「……星凪、大丈夫?」
「大丈夫だよ」
笑おうとしたけれど、うまく笑えなかった。
灯はその表情を見て、少しだけ眉を寄せた。
「……無理しないでよ」
その声は、昨日よりもさらに弱かった。
進平が僕の背中を叩く。
「お前ら、ほんまに青春しろって。見てられんわ」
「青春ってなんだよ」
「知らんけど!」
そのやり取りに、灯が少しだけ笑った。
ほんの少しだけ。
でも、その笑顔はすぐに消えた。
僕は配布物を配り終え、生徒会室に戻る。
扉を開けると、弓月先輩は窓の外を見ていた。
風でカーテンが揺れ、先輩の髪がふわりと揺れる。
その横顔は、どこか寂しそうだった。
「……会長、終わりました」
声をかけると、先輩はゆっくりと振り返った。
「ありがとう」
その一言だけは、昨日の優しさに少しだけ近かった。
でも、すぐにまた表情は固くなる。
「じゃあ次は――」
先輩が言いかけた時、風が強く吹き、窓がガタリと揺れた。
先輩は一瞬だけ肩を震わせた。
その仕草が、昨日の路地裏の姿と重なる。
僕は思わず口を開いた。
「……先輩、昨日……」
「仕事中に私情を挟まないで」
冷たく遮られた。
胸の奥が、また痛んだ。
でも、その冷たさの奥に――
ほんの少しだけ、震えが混じっていた気がした。
先輩は僕から視線をそらし、書類に目を落とす。
「……続けるよ」
その声は、昨日よりもずっと弱かった。
僕は何も言えず、ただ頷いた。
窓の外では、散り残った桜が風に舞っていた。
その花びらが、先輩の横顔に重なって見えた。
儚くて、触れたら消えてしまいそうで。
――この距離感が、一番怖い。
そう思った。




