文庫本のページのような関係
午後の授業はまともに頭に入ってこなかった。
ノートの端に意味のない線を走らせては消し、また走らせる。窓の外の青空が眩しければ眩しいほど、僕の心の中の曇天は色を濃くしていく。
そして無情にも、放課後を告げるチャイムが鳴った。
いつもなら進平と美術室へ向かう時間だが、今日、僕には行かなければならない場所がある。
生徒会室。
あるきっかけで僕がそこに足を踏み入れるようになってから、まだ日は浅い。昨日までは、その重い木製の扉を開けるのが、どこか誇らしく、少しだけ胸が弾む時間だった。そこにはいつも、僕をからかうように、けれど優しく目を細める弓月先輩がいたからだ。
だけど、今の僕にとって、その扉は処刑台の入り口のように重苦しかった。
「……失礼します」
細く息を吐きながらドアを開けると、室内にはすでに数人の役員が集まっていた。
そして、部屋の最奥、窓際のデスクに、彼女はいた。
校章の入った腕章を巻き、膨大な資料に目を通している生徒会長――空閑弓月。
「あ、鳴海くん。ちょうどよかった、これ、今日の分のデータ入力お願いね」
副会長の先輩から書類の束を渡され、
「あ、はい。お疲れ様です」
と受け取る。その間も、僕の視線は無意識に部屋の奥へと向かっていた。
先輩は、僕が部屋に入ってきた音に気付いているはずだった。
今の先輩は、書類から一瞬たりとも目を離さなかった。
カチ、カチ、と規則的にシャーペンをノックする音だけが、彼女の周囲に冷たい結界を張っているように見えた。
「……」
僕は自分のデスクに向かい、パソコンを立ち上げてデータを打ち込み始めた。
キーボードを叩く音が、静かな室内にやけに大きく響く。
一時間ほど、生きた心地のしない沈黙の作業が続いた。
他校との合同行事の予算案、生徒からの要望書。画面に並ぶ数字や文字が、滑って脳内に残らない。時折、先輩が他の役員と業務的な会話を交わす声が聞こえる。その声はいつも通りの凛としたものだったけれど、僕に向けて話すときの、あの柔らかい温度は完全に削ぎ落とされていた。
「じゃあ、今日の会議はここまで。残りの資料整理は私の方でやっておくから、みんなはもう上がっていいわよ」
しばらくして、先輩の澄んだ声が部屋に響いた。
役員たちが「お疲れ様です」と次々に荷物をまとめ、部屋を出ていく。
僕も立ち上がり、カバンを手にした。
部屋に残されたのは、僕と弓月先輩の二人だけ。
今しかない、と思った。朝の廊下では周囲に人が多すぎた。今なら、モールのこと、そして、僕が灯と一緒にいたことについて、誤解を解くことができるかもしれない。
「あの……弓月先輩」
意を決して、背中に向けて声をかけた。
先輩が、ゆっくりとこちらを振り返る。夕方の斜光が、彼女の長い黒髪を赤銅色に染めていた。
けれど、その瞳を見た瞬間、僕は言葉を失った。
朝、廊下ですれ違った時と同じだった。いや、二人きりになった分、その冷徹さは鋭さを増していた。精度高く僕の輪郭を捉えているはずなのに、その瞳の奥には、僕という人間が映っていないかのような、絶対的な拒絶。
「何かかしら、星凪くん」
「……昨日の、モールのことです。あの時、僕は――」
「プライベートの報告なら、必要ないわ」
先輩の声は、驚くほど淡々としていた。感情の起伏が全くない、氷の板のような声。
「ここは生徒会室よ。あなたの交友関係について、私が関与する理由はないわ。……それとも、業務に関する重要な報告が何かあるのかしら?」
「それは……ない、ですけど」
「なら、早く教室に戻りなさい。瀬川さんが、あなたの席で待っているはずよ」
心臓が、冷たい手で直接掴まれたように縮み上がった。
先輩の口から出た「瀬川さん」という名前に、明確な棘が含まれているのが分かった。先輩はすべてを知っているような、あるいは、すべてを諦めてしまったような目で、僕を真っ直ぐに見据えていた。
「……失礼、しました」
それ以上、一言も言葉が出てこなかった。
僕は逃げるように生徒会室のドアを開け、廊下へと飛び出した。パタン、と閉まったドアの向こう側から、もう僕を呼び止める声は聞こえなかった。
激しく波打つ鼓動を抑えながら、僕は自分の教室へと走った。
頭の中はぐちゃぐちゃだった。どうして先輩があんなにも傷ついたような、冷たい目をするのか。どうして灯の名前を出したのか。
――そして、教室の前に辿り着き、中を覗き込む。
部活へ向かう者、友達と笑い合いながら校門を目指す者。教室の中に充満していた賑やかな熱気が、潮が引くようにすうっと薄れていく。
その中に進平もいた。
「おっしゃ、俺はちょっと部活の奴らに捕まってくるわ! 星凪、カバンここに置いたままにしとくから、後で美術室で合流な!」
進平がいつもの爆音でそう言い残し、嵐のように教室を去っていった。一人残された僕は、自分の席に座ったまま、ぼんやりと黒板を眺めていた。日直が雑に消したチョークの跡が、白い粉となって虚空に舞っている。
カバンの中から、一限目の数学のノートを取り出す。角が少し丸くなったそれを机の上に置き、僕はただ、彼女が来るのを待った。
――トントン、と。
遠慮がちな音が、開け放たれた教室の扉から響いた。
「……星凪、まだいる?」
ひょっこりと顔を覗かせたのは、灯だった。
肩のあたりで綺麗に切りそろえられたショートカットの髪が、夕方の風に揺れている。彼女はいつも通り、僕のよく知る「親友」の笑顔を浮かべていた。
「うん。ノート、ここに用意してあるよ」
「あ、ありがと! 助かるー、本当に一限目きつかったんだよね」
灯は小走りで僕の席までやってくると、机の上のノートに手を伸ばした。
いつもなら、ここで「ちゃんと復習しろよ」とか「お前また寝てただろ」とか、他愛のない軽口を叩き合えるはずだった。それが僕たちの、一歩も踏み外すことのない安全な日常だったから。
だけど、灯がノートを掴もうとした、その瞬間だった。
伸ばされた彼女の指先が、僕の親指の付け根に、ほんのわずかだけ触れた。
「っ……!」
心臓がどくん、と嫌な跳ね方をした。
指先が触れ合っただけなのに、まるで微弱な電流が走ったかのように、僕は無意識に手を後ろへ引っ込めてしまっていた。あまりにもあからさまな拒絶の動き。
教室の空気が、一瞬で凍りつくのが分かった。
「……あ、ごめん」
咄嗟に謝ったけれど、言葉はひどく上擦っていた。
灯の手が、空中でピタリと止まる。
彼女の大きな瞳が、傷ついたように小さく見開かれたのを、僕は見逃さなかった。その細い指先が、昨日の夕暮れ、僕の腕を壊れ物を扱うように強く、強く握りしめていたあの温もりと重なって、頭の奥がズキリと痛む。
あの時、灯は泣きそうな声で僕の隣にいたいと言った。
僕を暗闇から救い出してくれた、記憶の底の少女。
灯はゆっくりと手を下ろし、今度は慎重に、僕の肌に触れないようにノートの端だけをそっと掴んだ。
「ううん、私こそごめんね。急に驚かせちゃって」
そう言って笑った灯の笑顔は、今朝よりもずっと、痛々しいほど綺麗に整えられていた。歪みそうな唇を、強靭な理性で引っ張り上げているような、そんな無理のある笑顔。
「……灯。あの、さ」
何かしなければいけない、と思った。この息の詰まるような沈黙を破りたかった。
昨日のモールのこと、弓月先輩のこと、そして僕たちの間に流れるこの奇妙な違和感について、何か一言でも説明すべきなんじゃないか。
だけど、僕が言葉を紡ごうとした瞬間、灯はそれを察したように、一歩後ろへ下がった。
「あ、そうだ! このノート、明日にはちゃんと返すからね! 中身、汚さないように気をつけるから」
彼女の声は、普段よりもワントーン高かった。僕に何も言わせないための、徹底した先手だった。
「……うん。急がなくていいよ。灯のペースで」
「うん、ありがと! じゃあ、私、今日これから用事あるから、先に行くね。進平にもよろしく言っといて!」
灯はノートを胸に抱きしめるようにして、足早に教室の出口へと向かっていく。その背中は、僕から逃げ出そうとしているようでもあり、同時に、僕にそれ以上踏み込ませないように境界線を引いているようでもあった。
ガラガラ、と小気味良い音を立てて教室の扉が閉まる。
残されたのは、オレンジ色の夕日に染まった、静かすぎる教室と、僕一人。
僕は自分の右手のひらをじっと見つめた。灯の指先が触れた場所が、まだ微かに熱を持っているような錯覚に陥る。
――どうして、普通にできないんだろう。
いつも通りに笑って、いつも通りにバカ話をして、いつも通りの明日を迎える。昨日までは、それが世界で一番簡単なことだったはずなのに。
あのモールで、弓月先輩の氷のような瞳を見てしまってから。
そして、灯のあの泣き出しそうな告白めいた言葉を聞いてしまってから。
僕の日常の歯車は、確実に噛み合わなくなっている。誰も何も決定的なことは言っていないのに、全員が少しずつ嘘をつきながら、薄氷の上を歩いているみたいな、そんな危うさの中に僕たちはいた。
文庫本の最初の数ページが静かにめくられるように、僕たちの関係は、僕の知らないところで少しずつ、けれど決定的に形を変え始めていた。
カバンを肩にかけ、僕は重い足取りで美術室へと向かう。廊下の窓から差し込む夕日は、僕の影を不自然なほど長く、暗く、床に引き伸ばしていた。




