2.砂の果実。 ウキハ。 6
ホランはゆっくりと歩いていた。いや、もしかしたらとてつもなく速く歩いているのかも知れない。ここでは時間がとても曖昧だ。灰色の枯れた大地と昼夜を無視した灰色の空が無限にリピートしている。暗くて見えないが空の向こうでは、大きな何かがうねっている。
……風?いや……鯨?
彼は、ただただ歩いた。進んで行く内に彼の右側に先端が見えない位の絶壁が現れた。それは徐々に傾きを大きくして、今ではホランの上に覆い被さる形になっていた。何かが聞こえる。最初ホランは風のうねりだと考えていたが、暫くして、人の声だと気づいた。低く抑揚の無い、歌にも聞こえた。
……あんのくたーさんばーくさんほーでぃ、あんのくたーさんばーくさんほーでぃ……
「天為か。どうしてこんな所に?ここはどこだ?いや、寧ろ何故、お前は天井に座っているのだ?」
ホランの上に覆い被さる様にせり出している絶壁の天井に胡座をかいた天為が背を向けて座っていた。霧の国に住むサムライのような服装だ。
「天井にいるのは君だね。……久しいね。ホラン。ここは狭間の国。名前は無い。強いて言うなら、あんのくたーさんばーくさんほーでぃって事になるけど。」
天為は振り返りもせず、そう答えた。彼は座禅を組み、手の甲を膝に乗せていた。指は印を結びそうで結んでいない。身体全体で漢字の「全」の形を作っている。
「全僧か。剣士にしては奇妙な刀筋だと思った。お前の刀筋は死の向こう側にあった。」
そう言って瞬きすると、ホランは天為の左隣にいた。一瞬で移動したのだろうか?いや、違う。ここでは、時間も位置も距離も関係無いのだ。そう言う場所なのだ。天為を見やると彼は瞳を閉じて、瞑想しているように見えた。どこか形が定まらず、ゆらゆらと移ろっている。
「此処には時間が無い。お話しが好きなら、どれだけでも付き合うよ。だけど、無限は全てを無意味にもする。」
天為はゆっくりと瞼を上げる。切れ長の瞼の中で、美しい月色の瞳が蠢いていた。複数の瞳がうねり流動していた。天為が目を開くと共に灰色だった空に光が差し、世界の全貌が露わになっていく。
「コレは……?」
ホランは言葉を失った。そこには巨大な螺旋が空を左から右へと貫いていた。3本の流れが互いに神鳴りの様なもので干渉仕合いながらも決して接することなく、空の彼方まで延びていた。ごおう、ごおう、と螺旋は唸り声を上げていた。ホランに螺旋の色は認識出来なかった。
「あんのくたーさんばーくさんほーでぃ。これは螺旋だ。マイトのうねり。魔法や命の根幹でもある魂の流れだ。夥しく連なるこの多重世界を唯一、無制限に貫いていける存在だ。これは無限に伸び続けるとも言われてるし、螺旋の始まりは既に滅び始めているとも言われてる。螺旋は世界そのもの。その全貌を知ることは出来ないのかも。ただ……。」
天為はそこで一呼吸置いた。姿勢は相変わらず「全」の形。薄目を開けて、俯きがちだ。ぴくりとも動かない。よく見れば喋っていても、唇は動いていない。
「ただ、君は死んだ。コットスに蹴り上げられて。」
ホランは唐突に思い出す。ボウモアの魔力に捕らわれて、操られコットスに返り討ちにされた事を。でも、だから?
「そうだな。俺は死んだ。取り返しのつかない過ちを犯す前にコットスさんの手で決着を付けてくれて助かった。感謝してる。」
「コットスは苦しんでいる。君を殺してしまった事について。」
事務屋コットス。冷酷で冷静な彼のことを街人はそう呼んでいた。これまでに誰かの死について、心が動いた事など無い筈だ。でも、私の死に苦しんでいる?いや、有り得ない。でも、そうかもしれない。私達は他の誰とも違った。友でも好敵手でも親子でも師弟でもない。
……わかるよ。
過去も未来もなかった。ホランが産まれたとき、そこには少なくとも母はいたはずだ。でも、彼は知らない。コットスもそうだった。コットスは誰かにこの件について伝えたコトはなかったが、ホランは感じていた。自分達には過去が無く、それ故に、未来もなかった。稀にそう言った人間がいる。時折、出会い、すれ違う。ただ、長い時を共にする事は稀だ。はっきりと理解せぬまま、二人は依存していたのだ。説明するのは難しい。でも、極めて強い絆が確かに存在していた。
「……そうか、苦しんでいるのか。」
ホランは俯いた。悲しかったのだ。コットスを苦しめている事が。
「一瞬なら、戻せる。」
ホランは天為を見つめた。何を言っているのだ?天為は全く動かない、ただ、無数の瞳だけが、瞼の内で蠢いていた。
「一瞬なら君の魂を身体に戻せる。それでどんな意味が生まれるのか、君が何を出来るのかは解らない。でも、俺は出来るよ。一瞬……ならね。」
ホランはひとしきり天為を見つめて……そして、言った。
「頼む。」




