【9】フォギー・ボトムの血痕と指紋。〜氷水を用意する男〜
それからギャレットはノラに指示を出した。
「その高級アパートメントの住人のリストが欲しい。国税庁からも探れ」と。
ノラは意気込んで答える。
「難しいと思いますけど、やってみます!」
ギャレットはそうして、別の仕事にも取り掛かる。
ギャレットは自分のチームを率いる以外にも、オーラの主任捜査分析官として、常に紙ならば山積みになる量の仕事を抱えているのだ。
だが、その日のギャレットは、ほんの少し行動パターンが変わっていた。
パソコンに向かい、固定電話を掛けながら――
スマホはいつもの定位置では無く、自分の視界に入らない位置に置いていた。
ギャレットも無意識のままに。
ヴェイル博士が、クワンティコから車で20分の所にある一軒家の自宅の寝室で目覚めると、もう夜の20時だった。
ドアの前で座っているジャーマン・シェパードと目が合う。
その犬はジャーマン・シェパードらしからぬ、心配そうな顔で小首を傾げているように見える。
ヴェイル博士が微笑み、「ロドン、おいで」と少し掠れた声で言うと、嬉しそうに尻尾を振ってベッドの脇まで来る。
そして、きちんと止まって座った。
ヴェイル博士が細く白い指先で頭を撫でてやる。
その時、ヴェイル博士の寝室のドアが開いた。
ロドンがパッと振り返り、ドアから現れた人物に尻尾を振って駆け寄る。
その人物――
マーカスがアハハと笑う。
「ロドン!流石は軍用犬だな!
美味い匂いには敏感だ!
セオ、具合はどうだ?」
ヴェイル博士の青白い頬がパッと薔薇色に染まる。
「マーカス!
来てたんですか!?」
マーカスがフフッと笑う。
「まあな。
お前は良く眠っていたから、起こさなかった。
驚いたか?」
「ええ」
「もっと驚くことがあるぞ。
俺の手料理だ!」
ヴェイル博士が、ふわりと起き上がる。
「手料理!?
あなたが?」
驚きの声を上げ、淡いヴァイオレットグレーの瞳を丸くしているヴェイル博士に、マーカスがベッドサイドに氷水を置きながら答える。
「まあ簡単なスープだ。
でも、パンは美味いぞ。
なんたってパン屋で買って来たからな。
明日の朝の分もある」
「マーカス……!」
ヴェイル博士の瞳がきらきらと光る。
「食べられなければ無理はするな。
それより、新米シェフにお帰りの挨拶くらいしろ。
やる気がもっと出る」
ヴェイル博士がゆっくりと立ち上がり、マーカスの胸に飛び込む。
「……お帰りなさい、マーカス……」
「ただいま、セオ」
マーカスの大きな手が、ヴェイル博士の小さな白い顔を包む。
「どうして来てくれたんですか?」
ヴェイル博士が潤んだ瞳で、マーカスを見上げる。
マーカスが困ったように答える。
「心配で、会いたかった。それじゃ駄目か?」
ヴェイル博士が、はにかみながら言う。
「嬉しいです……とても……」
すると、ロドンが『早く!早く!』と言うように、二人の周りを回り始めた。
二人は顔を見合わせて、笑いあう。
そして、ヴェイル博士の枕の下には――
使い捨てのスマホが、サイレント・モードにして置かれてあった。
ギャレットは、クロウ捜査官、ヴォーン捜査官、アッシュ捜査官の三人と、オーラの鑑識五名がヴァージニア州FBI本部近くのホテルに到着したことを、ホイットモア渉外官から聞かされると、帰宅した。
ギャレットのアパートメントのドアマンが、にこやかに迎え入れてくれる。
いつも通りに。
ギャレットの部屋には、無駄な物は無い。
それに――
自宅に誰も呼ぶことは無い。
簡単な夕食を作り、食事を終えると、シャワーを浴びる。
その刹那――
スマホが鳴った。
ギャレットはバスタオルを掴むと、びしょ濡れのまま浴室から飛び出す。
ワンコールで切れた着信音。
画面には非通知の表示。
ギャレットは濡れた手で、スマホを握りしめた。
マーカスとヴェイル博士は、二人並んでマーカスお手製の豆や野菜がたっぷり入ったトマト味のチキンスープを食べ、ガーリックバターを塗ったフランスパンを平らげた。
ヴェイル博士は水だが、マーカスは赤ワインを飲みながら、食欲のあるヴェイル博士を見ては嬉しそうに笑っていた。
それから、二人で皿洗いをし、ロドンを裏庭に放つ。
ロドンは裏庭から森へと、猛スピードで嬉しそうに駆けていく。
そうして二人は、ヴェイル博士の寝室へと戻った。
その時、マーカスの手には、氷がいっぱい入った氷水のグラスが握られていた。
翌朝。
ギャレットが自分のオフィスに入った途端、ノラから連絡があった。
ノラが悔しそうに報告する。
「もー!!
30階建ての高級アパートメントなのに!
住民の1/3は住んでいません!
しかも、又貸しに次ぐ又貸しで、持ち主に辿れないようになっています!」
「それで、家賃も高くなる訳か」
ギャレットの短い返答に、ノラはまた悔しそうに答える。
「そうです!
しかも!
残りの2/3の住民も、その警備会社の持ち物に住んでいることになっています!
つまり、名義は警備会社!
良く考えてありますよね〜!
お金があっても訳アリの人だと、そのアパートメントを買うと記録が残る!
でも、名義人を警備会社にすれば、住民はその住所は使えるけど、名前は明かさなくて良い!」
ギャレットの冷たい声がする。
「つまり――
そのアパートメントは、軍事産業の企業による小遣い稼ぎというところだな。
では、賃貸で住んでいる住人のリストを送れ」
「もう、送りました!
では!」
その瞬間、ギャレットのパソコンにノラからのメールが表示される。
だが、午前中いっぱい掛けて、ギャレットとノラで精査したが、不審な人物も、あの青年らしき人間もそのリストには無かった。
そして、午後。
クロウ捜査官からギャレットに連絡が入った。
クロウ捜査官は電話口で、興奮を抑えきれないように言った。
「指紋が出た!
それに、血痕もだ!
青年は確かに反撃していたよ!
足跡も無数に出たが、午後にはうちの鑑識が青年の靴底に絞って靴底の型を取る。
もちろん青年と争ったらしい、もう一人の靴底もな!」
「成る程。
刺した人間は一人でやって来たのか。
それで――
青年は何で反撃していた?」
クロウ捜査官が即座に答える。
「それは出なかった!
刺した犯人が持ち帰って処分したんだろう。
だが、飛沫血痕がある。
ヤツが反撃された時の血痕だろう。
それと、奇妙な袋を見つけた。
鑑識がそのまま密封しておいた」
「ありがとう。
では、明日」
「おう!」
クロウ捜査官が勢い良く言って通話が切れる。
そして、夕方。
ギャレットは鑑識からの報告を受けていた。
鑑識によると、密封した袋にも指紋があるかも知れないが、今のところ不明。
それと、現場から出た指紋は、青年を刺した犯人が反撃された時に、箱状の物に手を付いた時のものらしく、部分指紋しか取れなかった。
そのため、データベースに掛けるのは、オーラのラボで慎重に再現してからにしたいとのことだった。
ギャレットは承諾した。
そうして、ギャレットがクロウ捜査官と鑑識たちの報告を纏めていると、既に夕陽がさしていた。
その瞬間――
ギャレットのスマホが鳴った。
ギャレットが素早くスマホを掴む。
画面には非通知の表示。
だが、今日は、三回鳴って切れた。
ギャレットがハッとして、通話履歴を見る。
そう、昨夜、ギャレットは三回ワンコールの通話をしていた。
ヴェイル博士の使い捨てのスマホに。
ヴェイル博士からのワンコールの電話は無かったのに――
ギャレットは、かけずにはいられなかったのだ。
それに、ギャレットは非通知の電話の発信元を、追うことすら、しない。
このワンコールの電話のやり取り。
それは、元軍人で最年少で少佐に上り詰め、A.U.R.A.《オーラ》の主任捜査分析官となったギャレット・ロークが、初めて犯したミスだった――
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