閑話:老狸の傷跡、あるいは永遠に消えぬ狂犬の幻影
本編完結後の閑話、第一弾です。
天下の覇者でありながら、たった一人の男の狂信によってその絶対的な権威を物理的に粉砕された徳川家康。
九死に一生を得て江戸へ帰還した彼を待っていたのは、安寧の世ではなく、一生消えることのない「黄金の呪い」でした。
老狸の晩年と、その凄絶な最期をお届けします。
慶長二十年、夏。
大坂の陣が終結し、難攻不落を誇った大坂城は完全に灰燼に帰した。
豊臣家は名実ともに滅び去り、天下のすべてが徳川の御威光にひれ伏した。各地の大名たちは競うように忠誠を誓い、戦乱の世はついに終わりを告げたのである。
だが、駿府城の奥深く、最高級の香木が焚き染められた豪奢な寝所で身を起こした徳川家康の顔に、歴史の勝者としての歓喜や安堵の色は、微塵も存在していなかった。
「……う、ぐぅ……ッ、あぁぁッ!」
深夜。家康は、上質な絹の寝巻きの胸元を力強く握りしめ、脂汗を流して獣のような呻き声を上げた。
右肩から胸板にかけて斜めに走る、生々しく、そして巨大な刀傷。茶臼山の頂上で、あの黄金の狂犬に深く抉られた呪いの痕だ。
日本中から集められた名医たちが必死に手を尽くし、傷口自体はすでに塞がっている。命に別状はないと、誰もが太鼓判を押した。だというのに、夜の闇が訪れ、周囲が静寂に包まれるたびに、火で直接炙られているかのような激痛が家康の全身を苛むのである。
「痛むか、痛むか秀家……! 貴様、死してなお、このワシの肉を喰い破る気か……ッ!」
暗闇の中で荒い息を吐きながら、家康の脳裏に「あの男」の顔がフラッシュバックする。
全身に三十発以上の銃弾を浴び、絶命しているにもかかわらず、茶臼山の頂上で仁王立ちになり、決してワシから目を離さなかったあの初老の男。宇喜多秀家。
思えば、あの男から放たれる理屈の通じない狂気は、大坂の陣で突如として現れたものではない。十五年前の『関ヶ原の戦い』の泥濘の底から、すでに始まっていたのだ。
――慶長五年、九月十五日。
小早川秀秋の裏切りによって、西軍は完全に総崩れとなった。大谷吉継は自刃し、石田三成も、島津も、毛利も、誰もが己の命と家名を惜しみ、戦場に背を向けて敗走していった。
だが、ただ一人、西軍の最大兵力であった宇喜多秀家だけは違った。
敗色濃厚な死地にあってなお、あの大軍の先頭に立ち、血塗れの顔でワシの本陣へと突撃を繰り返そうとしていたあの双眸。
望遠鏡越しに見たあの男の瞳には、敗軍の将が抱く無念や、死への絶望など微塵もなかった。
あったのは、損得勘定も大義名分も通用しない、太閤秀吉という一人の男に対するドロドロと煮えたぎるような『底なしの狂信』だけだったのだ。
(……あの日、ワシはあの理屈の通じない狂信を、心の底で恐れたのだ)
家康は、震える手で自身の傷跡をなぞった。
関ヶ原の後、捕縛された秀家を、ワシは斬首にはしなかった。本多正信ら重臣たちは皆「後顧の憂いを断つべきだ」と処刑を進言したが、ワシは首を縦に振らなかった。
あの狂信者を下手に処刑してしまえば、豊臣恩顧の大名や西国の者たちから「悲劇の忠臣」として神仏のように崇められ、新たな反乱の火種になりかねない。何より、あの男が斬首の座で笑って死んでいく姿を、ワシ自身が見たくなかったのだ。
故に、家康は最も冷酷で、最も合理的な判断を下した。
八丈島という、人の生きられぬ絶海の孤島への流罪。
米すら育たず、来る日も来る日も暴風雨に晒される地獄の島。幼い頃から太閤に溺愛され、絹の着物を着て豪奢な飯を食ってきた軟弱な貴公子など、あのような島に送られれば、一年も経たずに心が折れ、惨めに泥を啜りながら獣のように腐り果てる。
そうすれば、誰も宇喜多秀家などという男を敬うことはなくなる。完璧な計算だった。
だが、そのワシの「合理的な計算」こそが、生涯で最も致命的な誤算であったと、今なら分かる。
あの男は、絶望の島で心が折れるどころか、自らを閉じ込めたその密閉空間の中で、太閤への狂信とワシへの怨念を十四年間ひたすらに発酵させ、極限まで濃縮してしまったのだ。
八丈島という巨大な牢獄は、宇喜多秀家という男を腐らせる場所ではなく、歴史の理を叩き壊すための「最強の刃」へと鍛え上げる、巨大な鎔鉱炉に他ならなかった。
「大御所様! 大御所様、いかがなされましたか!」
寝所の外から、近習の緊迫した声が響く。家康の呻き声を聞きつけて飛んできたのだろう。
「……なんでもない! 大事ないわ、決して入ってくるなッ!」
家康は怒鳴りつけ、再び深い闇の中に一人取り残された。
大坂の平野部で、ワシの十五万の大軍勢を紙屑のように蹂躙した、あの『動く城』。
そして、万の軍勢に完全に包囲されながらも、ただ一人でワシの喉元まで迫り、盾となった本多忠朝の左腕ごと、ワシの肉を斬り裂いたあの黄金の剛剣。
思い出すだけで、天下人の老体が恐怖にガタガタと震え出す。
(……秀頼は、討ち漏らした)
家康は、ギリッと奥歯を噛み締めた。
大坂城は落とした。だが、最も重要な豊臣の血脈は、大坂城のどこを探しても見つからなかった。
あの狂犬が、茶臼山で自らの命を文字通り薪にして時間を稼いだせいで、真田や明石といった連中に護衛され、秀頼は西の海へと逃げおおせてしまったのだ。
薩摩へ落ち延びたのか、はたまた南蛮のルソンか、明国か。忍びを大量に放っても、その足取りは完全に途絶えている。
徳川の世は、これから二百年、三百年と続くだろう。諸大名を完全に統制し、民草が戦を知らぬ盤石な泰平の世が来る。
だが、ワシが築き上げたその「完璧な天下の設計図」には、決して消し去ることのできない巨大な欠陥と、泥の足跡がつけられてしまった。
海の向こうで、豊臣の血脈が生きている。その事実がある限り、徳川の世は永遠に「目に見えぬ恐怖」に怯え続けねばならない。
「……勝ったのはワシだ。ワシの天下だぞ、秀家。太閤の幻影など、このワシが完全に消し去ってやったのだ……!」
家康は、痛む胸の傷をかきむしりながら、暗闇に向かって枯れた声で呪詛を吐いた。
「……だが、なぜだ。なぜ貴様は、死してなお、ワシの夢の中でまで、その血塗れた黄金の陣羽織を翻して……楽しそうに笑っておるのだ……ッ!!」
当然、暗闇からの返事はない。
ただ、初夏の生温かい夜風が、大坂の地から遠く駿府まで、得体の知れない死の臭いを運んでくるだけだ。
天下人・徳川家康は、生涯消えることのない「狂犬の幻影」と傷の激痛に怯えながら、その残り少ない晩年を、誰にも見せられぬ底知れぬ恐怖と共に生きることを余儀なくされたのである。
歴史の勝者は徳川家康である。
だが、その魂の最も深い部分を力ずくでねじ伏せ、永遠の敗北感を刻み込んだのは、間違いなく、あの八丈島から帰還した黄金の狂犬であった。
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