閑話:歪んだ因果の果て、海を渡った黄金
閑話第二弾、「その後の歴史」をお届けします。
一人の男の途方もない暴力と執念によって、茶臼山で物理的にへし折られた歴史の因果。
総大将を失いかけた徳川と、海へと逃れた豊臣。宇喜多秀家という「狂犬」が残した深すぎる爪痕は、その後の日本の二百年をどのような形に変容させたのか。
史実とは全く異なる道を歩み始めた、歪で、しかし熱を帯びた「もう一つの歴史」の俯瞰図です。
慶長二十年(一六一五年)の大坂夏の陣は、後世の歴史家たちにとって、最も解釈の分かれる特異点として記録されている。
表向きの歴史書、すなわち徳川幕府が編纂した公式記録において、大坂城は陥落し、豊臣家は完全に滅亡したことになっている。総大将・徳川家康は茶臼山にて見事な采配を振るい、反逆者どもをことごとく討ち果たした、と。
だが、その不自然なほどに「完璧な記録」の裏側で、同時代を生きた大名たちの密書や、宣教師たちの本国への報告書には、全く異なる凄絶な光景が記されていた。
『――黄金の悪鬼が、家康公の首に刃を突き立てた』
『――茶臼山の頂は、宇喜多秀家というただ一人の男によって、数万の軍勢が近寄ることすらできぬ血の海と化した』
『――豊臣の若き主君と、真田の赤き甲冑の将は、黒い南蛮造りの軍船に乗り、何処かへと消え去った』
真実は、隠し通せるものではなかった。
家康は命こそ取り留めたものの、秀家に斬り裂かれた深い傷と、底知れぬ恐怖という猛毒に精神を蝕まれ、大坂の陣の翌年、夜な夜な幻影に悶え苦しみながらこの世を去った。
二代将軍・秀忠、そして三代将軍・家光は、盤石であるはずの天下の覇権を繋ぎ止めるため、史実以上に苛烈な恐怖政治と強権の発動を余儀なくされることとなる。
なぜなら、彼らの支配体制には、常に一つの「致命的な綻び」が存在し続けていたからだ。
豊臣秀頼の生存伝説である。
◇
大坂を脱出した秀頼、淀殿、真田信繁、明石全登らを乗せた漆黒の軍船は、幕府の水軍による決死の追撃を振り切り、黒潮に乗って南へと下った。
薩摩の島津家が、表向きは幕府に恭順しながらも、裏では密かに彼らの逃走を支援し、水と兵糧を与えたという説が濃厚である。島津もまた、関ヶ原から連なる徳川への深い遺恨を抱えていたからだ。
そして、豊臣の残党が辿り着いた先は、日の本から遠く離れた南洋――呂宋、あるいは暹羅の地であったと言われている。
当時の東南アジアには、すでに多くの日本人町が形成されており、戦国の世を生き抜いた屈強な牢人や傭兵たちが、独自の武力と勢力を築きつつあった。
そこに、「天下人の血を引く貴公子」と、「日本一の兵」、そして「一万の鉄砲を統率した冷徹な軍師」が合流したのである。
秀頼は、もはや大坂城の奥深くで淀殿に守られるだけの、ひ弱な君主ではなかった。
己を逃がすために、数万の敵陣の中で自らを肉の壁とし、笑って散っていった宇喜多秀家の凄絶な背中を、彼はその両の瞳に深く焼き付けていたのだ。
「備前が遺してくれたこの命、決して無駄にはせぬ」
異国の地にあって、秀頼は南蛮の交易を取り込み、真田信繁を総大将とする強力な傭兵団を組織した。
彼らの軍船に翻ったのは、かつての千成瓢箪でも、五三の桐でもない。異国の強烈な太陽の下で、黄金の糸で刺繍された『児』の字の陣旗――かつて彼らを地獄の底から救い出した、あの狂犬の旗印であったという。
彼らはやがて「黄金の艦隊」と恐れられ、南洋の海域で莫大な富と武力を蓄えていった。
いつの日か、再び日の本へ帰り、徳川の天下をひっくり返すために。
◇
一方、海を隔てた日本の徳川幕府は、この「海の向こうの豊臣」という巨大な恐怖に、延々と苛まれ続けることになった。
史実において、幕府はキリスト教の禁教と大名の統制を目的として、大船建造の禁や鎖国令(海禁政策)を敷き、長きにわたる閉鎖的な泰平の世を築き上げた。
しかし、この歪んだ歴史においては、幕府は「鎖国」という選択を取ることができなかった。
海を閉ざし、船を壊してしまえば、いつ南洋から「豊臣の黄金の艦隊」が攻め寄せてくるか分からないからだ。さらに、西国の外様大名(島津や毛利)が密かに海を渡り、豊臣と結託する可能性を、幕府は極度に恐れたのである。
結果として、幕府は諸大名を牽制するため、自らも西洋技術を取り入れた強力な軍船を建造し、常に大規模な水軍を維持するという「過剰な武装化」の道を歩むこととなる。
各大名にも海防の義務が課せられ、火縄銃の技術も、大坂夏の陣で宇喜多秀家が見せた「連続射撃の機構」や「可動式防壁」の理を取り入れ、独自の異常な進化を遂げていった。
天下は統一されたものの、それは「いつか海の向こうからやってくる復讐者」に備えるための、絶えず張り詰めた糸のような、重武装の泰平であった。
そして、この絶えず外洋に目を向け、軍事技術の研鑽を怠らなかった日本という島国は、のちに西洋列強がアジアの海へ進出してきた際、彼らにとって「容易には手出しのできない、恐るべき重武装国家」として立ち塞がることとなるのである。
すべては、大坂の泥の中で歴史の因果を物理的にへし折った、たった一人の狂犬の執念がもたらした、あまりにも巨大な波紋であった。
◇
そして、その因果の震源地となった絶海の孤島、八丈島。
大坂の陣の後、幕府は真っ先にこの島へ討伐の大軍を派遣した。宇喜多秀家の血を引く者たちを根絶やしにし、反逆の芽を完全に摘み取るためである。
だが、島に上陸した幕府の役人たちが見たものは、静寂に包まれた粗末な小屋と、そこにある六畳一間の荒れ果てた土間だけであった。
宇喜多の息子である孫九郎(秀高)をはじめ、残された一族の姿は、忽然と島から消え失せていたのだ。
彼らがどこへ行ったのか、正確な記録は残されていない。
加賀の前田家が密かに船を回して匿ったとも、あるいは南洋へと逃れた豊臣の艦隊が迎えに来たとも言われている。
ただ一つ確かなのは、幕府はこの八丈島を「大逆人を産み落とした呪われた島」として極度に恐れ、その後、長きにわたってこの島に流罪人を送ることを忌み嫌ったということだ。
島民たちの間では、嵐の夜になると、海の方角から「ズシン、ズシン」という地鳴りのような巨大な足音と、途切れることのない鉄砲の音が聞こえてくるという怪談が、いつまでも語り継がれた。
『――備前様が、まだ老狸の首を探して海を歩いておられるのだ』と。
狂気と復讐に己の人間性を捧げ、歴史の分水嶺に立ってその流れを強引に捻じ曲げた男、宇喜多秀家。
幕府の公式な記録からはその存在を徹底的に抹消されながらも、彼の遺した「圧倒的な個の暴力が、天下の理を覆すことができる」という鮮烈な記憶は、抑圧された民衆や牢人たちの中に、決して消えることのない反逆の火種として残り続けた。
英雄か、それともただの悪鬼か。
それを断じる者は、もはやどこにもいない。
ただ、南の海を渡る風の中には、いつの時代も、あの狂おしくも美しい、黄金の陣羽織の残影が揺らめいているような気がしてならないのだ。
完結までお付き合いいただき、本当にありがとうございました!
絶海の孤島から復讐のためだけに舞い戻り、己の肉体と現代知識を武器に歴史の因果を物理的にへし折った宇喜多秀家の物語、これにて全編完結となります。
天下人の大義名分すら「知ったことか」と笑い飛ばし、ただ太閤秀吉への狂信と恩義だけで駆け抜けた彼の生き様を、少しでも楽しんでいただけたなら、作者としてこれ以上の喜びはありません。
最後まで走り抜けることができたのは、間違いなく、ここまで読んでくださった皆様の存在があったからです。
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また新たな物語でお会いできることを楽しみにしております。
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