第17話:大坂入城、慟哭と熱狂
第17話です。
十四年の歳月と流刑の地という絶対的な枷を物理的にへし折り、ついに大坂城へと帰還した宇喜多秀家。
死んだはずの西軍副大将、そして太閤秀吉の寵愛を受けた「豊臣の五大老」の生還は、包囲された大坂城に異常な熱狂をもたらします。しかし、迎え入れる者たちの歓喜と悲哀に対し、狂犬が返すのはあまりにも冷酷で無機質な「死の論理」でした。
慶長十九年、冬。
和泉国から摂津国へと北上する夜道は、異様な熱気と焦燥に包まれていた。
俺たちの一団が歩みを進めるごとに、地平線の彼方に浮かび上がる大坂の夜空は、血を流したように赤く染まっていった。徳川家康が全国の諸大名に動員をかけ、大坂城を取り囲むように布陣させた二十万もの大軍勢が焚く、星の数ほどの篝火である。
対する大坂城には、徳川の世に不満を持つ牢人や、かつての西軍の生き残りなど、およそ十万の兵が集結しているという。
「……見えてまいりました、閣下。あれが、我が軍勢の入るべき門にございます」
先導する明石全登が、前方を指差した。
巨大な堀と、天を衝くような漆黒の石垣。太閤秀吉様が築き上げた天下の巨城、大坂城の南に位置する平野口である。
そこには、真田左衛門佐信繁が急造したという巨大な土造りの出丸――「真田丸」の威容が、まるで徳川の大軍勢を嘲笑うかのように、鋭く突き出していた。
俺たちは、松明の火も持たず、夜陰に紛れて平野口の城門へと接近した。
「誰だッ! 止まれ! それ以上近づかば、鉄砲の餌食にするぞ!」
城門の上から、警戒に当たる牢人兵の鋭い誰何の声が飛ぶ。
無理もない。すでに大坂城は徳川の軍勢に幾重にも取り囲まれており、いつ総攻撃が始まってもおかしくない極限の緊張状態にあるのだ。
全登が、一歩前に進み出た。
「発砲を待て! 我らは怪しい者ではない! 城内に詰める真田左衛門佐殿に取り次ぎを願う!」
「真田様だと? 貴様ら、どこから湧いて出た! 名を名乗れ!」
「我が主君は、長きにわたり遠の島へ流され、今この刻、太閤殿下の御恩に報いるため地獄の底より舞い戻られたお方!」
全登は、背後の暗闇から俺が進み出るのと同時に、声の限りに咆哮した。
「旧豊臣政権、五大老が一人! 備前中納言、宇喜多秀家公であらせられるッ!!」
刹那、城門の上の空気が、完全に凍りついた。
牢人兵たちが、己の耳を疑うように顔を見合わせる気配が伝わってくる。
「ば、馬鹿な……。備前中納言様は、八丈島という絶海の孤島に流され、とうの昔に病で果てられたはず……。徳川の細作(間者)か!?」
「細作が、これほど堂々と城門を叩くか!」
俺は、十四年ぶりに取り戻した愛刀の柄に手を掛け、ゆっくりと顔を上げた。
雲間から差し込んだ冬の冷たい月光が、俺の顔と、黄金の糸で刺繍された『児』の字の陣旗をくっきりと照らし出す。
「……開けろ」
俺の低く、地鳴りのような声が、城壁を震わせた。
「俺は、あの老狸の首を刎ねるために帰ってきた。……無駄な時間を取らせるな」
俺の全身から放たれる、十四年間の泥水と狂気の発酵によって極限まで高められた純度百パーセントの殺気が、城壁の上の兵たちの本能を物理的に殴りつけた。
彼らは理解したのだ。目の前にいる巨漢が、決して名を騙る偽物などではなく、関ヶ原の泥濘で何万という血を啜った本物の「化け物」であることを。
「お、開門ェッ! 開門しろォッ!! 備前中納言様のご帰還だァァァッ!!」
悲鳴のような歓喜の絶叫と共に、大坂城の重い城門が、地響きを立てて開かれ始めた。
◇
大坂城、本丸大広間。
豊臣家の栄華を象徴する、金箔と極彩色の障壁画で飾られた絢爛豪華な広間は、怒号と悲観的な意見が飛び交う、白熱した軍議の最中であった。
上座には、立派な体躯に成長した豊臣秀頼様と、太閤殿下の側室であり豊臣家の実質的な主導権を握る淀殿。
下座には、大野治長をはじめとする豊臣の譜代衆と、大坂城に集結した名だたる牢人衆の将たち――真田信繁、後藤又兵衛、長宗我部盛親、毛利勝永らが、真っ向から対立していた。
「だからこそ、城に籠りて徳川の疲弊を待つのが上策と申しておる! 野戦に出て、二十万の大軍を相手にまともにぶつかれば、我らはひとたまりもないわ!」
大野治長が、顔を真っ赤にして唾を飛ばす。
「籠城など愚の骨頂! 堀を囲まれ、兵糧を絶たれればいずれ干上がるのは明白! ここは打って出て、家康の首を直接狙う以外に活路はござらん!」
後藤又兵衛が、床几を蹴り飛ばさんばかりの勢いで怒鳴り返す。
「や、やめよ! 両者とも控えよ!」
秀頼様が制止の声を上げるが、張り詰めた極限の緊張状態にある将たちの熱りは冷めない。淀殿もまた、迫り来る徳川二十万という絶望的な兵力差を前に、青ざめた顔で震えていた。
誰が主導権を握るのか。どう戦うのか。全てがバラバラで、豊臣軍は戦う前からすでに崩壊の危機にあった。
その時である。
――ドンッ!
大広間の重い襖が、乱暴に開け放たれた。
「何事だッ! 今は軍議の最中であるぞ!」
大野治長が振り返り、怒声を浴びせる。
だが、そこに立っていた異形の姿に、大広間の全員が息を呑み、言葉を失った。
八丈島で狂ったように鍛え上げられた異常な筋肉の鎧。幾重にも刻まれた無数の刀傷。海を渡る際に浴びた徳川水軍の返り血と、硝煙の臭い。
それは、誇り高き大名というよりも、地獄の釜の底から這い出してきた修羅そのものの風体であった。
「な、なんだ貴様は……。その汚らわしい姿で、秀頼様と淀殿の御前に出るとは……!」
重臣たちが刀に手を掛けようとしたその瞬間。
俺は、血の染み付いた足袋のまま、ずかずかと大広間の中央へと進み出た。
俺の全身から放たれる絶対的な死の気配と、十四年間発酵させ続けた純度百パーセントの殺気が、彼らの言葉と動きを物理的に封じ込めた。
「……本当に、貴方様なのですか。あの見目麗しかった備前宰相殿が、そのような……」
静寂の中、震える声で呟いたのは淀殿だった。
彼女の目から、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちている。
俺は淀殿の御前に進み出ると、音を立てて膝をつき、深く一礼した。
「淀の方様。……長きにわたり、豊臣の重荷を背負わせ、申し訳ございませぬ」
その極めて低く重い声と、纏っているボロボロの黄金の陣羽織に宿る亡き秀吉の面影に、淀殿は両手で顔を覆い、声を上げて泣き崩れた。
「あぁ……秀家。秀家、よくぞ、よくぞ戻ってきてくれました……ッ!」
「もはや語る言葉は不要。お泣きになる必要もございません」
俺はゆっくりと立ち上がり、絶望と混乱に沈む大坂城の重臣たちを、そして真田信繁や後藤又兵衛といった歴戦の将たちをぐるりと見渡した。
「籠城だの野戦だのと、喚き散らして何になる」
俺は腰の打刀の鍔を鳴らし、地鳴りのような、大気を震わせる咆哮を大広間に響き渡らせた。
「面を上げよ、豊臣の男たち! とくと見よ!」
血と泥に塗れた黄金の陣羽織を大きく翻し、俺は歴史の理を叩き壊すための名乗りを上げる。
「我こそは五大老が一人、宇喜多秀家なり!! 太閤殿下より天下の政を託されしこの俺が戻った以上、家康の好きにはさせんッ!」
その絶対的な力と権威を伴った一言が、大坂城を覆っていた死の空気と内輪揉めを、瞬時に爆発的な熱狂へと塗り替えた。
「五大老の帰還ぞ! これで我らは勝てる!」
「備前様のご武威があれば、徳川の陣など容易く食い破れるわ!」
「太閤殿下の大恩に報いるため、我らも備前様と共に死のうぞ!」
誰もが、俺という存在に「豊臣の忠臣としての美しき大義」を見出し、己の命を散らすための最高の舞台が整ったと熱狂しているのだ。
だが。
俺は、その熱狂の渦の中心で、一片の氷のように冷たく、ただ無表情のまま彼らを見下ろしていた。
「……勘違いをするな」
俺の口から放たれた極めて低く、無機質なその一言が、広間の狂熱を刃物のように断ち切った。
歓喜に沸いていた牢人たちの声が止まり、淀殿が涙に濡れた顔を上げる。
「俺は、お前たちと美しい討ち死にをするために、絶海の孤島から十四年もの泥水を啜って帰ってきたわけではない」
「ここは『死地』だ。それも、名誉ある忠臣として名を残すための舞台などではない。外を囲む徳川二十万の兵を効率よく挽き肉に変え、あの狸親父の首ただ一つを物理的に掻き切るための、巨大な『解体所』に過ぎん」
広間の空気が、恐怖と困惑に凍りついた。
武士としての誉れや、豊臣家への忠義に涙していた彼らの美学を、俺は真正面から泥靴で踏みにじったのだ。
「備前殿……そ、それは、どういう……」
「大義名分など、もはや何の役にも立たないということだ、淀殿」
俺は冷酷に言い放った。
「徳川二十万を相手に、個人の武勇や忠義の心で勝てるなどという甘い幻想は、今すぐこの場で捨てろ。……俺が持ち込んだのは、そのような精神論ではない。純粋な『鉄と鉛の機構』だ」
俺は振り返り、広間の入り口に控えていた明石全登に顎でしゃくった。
全登が深く頷き、一人の牢人に命じて、重い木箱を広間へと運び込ませる。
「開けろ」
箱の蓋が蹴り飛ばされ、中から大量の油紙に包まれた種子島(火縄銃)と、大粒の鉛玉、そして南蛮渡りの上質な硝石が姿を現した。
「……な、これは……」
「全登が、十四年間大坂の地下で集め続けた一万丁の種子島の一部だ。……真田左衛門佐」
俺の呼びかけに、下座に座っていた小柄だが眼光の鋭い男が、音もなく立ち上がった。
「はっ。ここに」
「お前が南に築いたという『真田丸』。……そこに、俺が用意したこの鉄砲と、児島党の生き残りが指導した『途切れることのない連続射撃の理』を完全に組み込む。真田丸を、単なる防御陣地ではなく、徳川の軍勢を誘い込み、三方から鉛の雨で粉砕する『巨大な死の絡繰』として運用しろ」
真田信繁の瞳の奥に、猛禽類のような凄まじい光が灯った。
彼だけは、俺の持つ「武士の誉れを完全に無視した、冷徹な殺戮の論理」を、瞬時に理解したのだ。
「……御意に。なるほど、備前殿の御考え、恐ろしいほどに理にかなっております。我が真田の戦術と、備前殿の圧倒的な火力が合わされば、徳川二十万といえども、真田丸の堀は文字通り血の池地獄となりましょう」
信繁が、腹の底から楽しそうに、獰猛な笑みを浮かべた。
だが、他の将たちはまだ俺の冷酷な言葉を飲み込めずにいた。豪傑として名高い後藤又兵衛が、眉をひそめて立ち上がる。
「お待ちくだされ、備前殿! 鉄砲の数で敵を削るのは良いとしよう。だが、我ら武士の誇りは、やはり槍を合わせ、敵将の首を直接討ち取ることにある! 大将たる者が、そのような卑小な絡繰りに頼り切って、何が豊臣の戦ぞ!」
俺は、又兵衛の怒声に対して、一切の感情を動かさなかった。
ただ、ゆっくりと歩み寄り、彼を見下ろした。
俺の巨体と、全身から漂う血と臓物の臭いに、歴戦の勇士である又兵衛でさえ、一瞬息を呑んでたじろいだ。
「……誇り、か。関ヶ原で、俺はその誇りとやらを信じた西軍の馬鹿どもが、どのように崩壊し、無様に逃げ惑い、徳川の槍の餌食になったかをこの目で見た」
俺の言葉は、氷の刃となって大広間を切り裂いた。
「いいか、又兵衛。そしてここにいる全ての者たちよ。お前たちがどう死のうが、俺の知ったことではない。だが、俺がここに来た以上、お前たちの命は全て、俺が家康を殺すための『歯車』として扱わせてもらう。名乗りも要らん。一騎討ちも要らん。ただ、俺の定めた理に従い、無機質に引き金を引き、敵を肉塊に変えろ」
俺は、秀頼様と淀殿へと振り返った。
「秀頼様。俺は、太閤殿下からいただいたこの命、全てを懸けて家康の首を獲ります。……ですが、それは豊臣家を守るためというよりも、俺自身の、あの老狸に対する怨念を晴らすための、極めて利己的な復讐に過ぎません」
俺は、十四年ぶりに、かつての主君の忘れ形見の前に、深々と片膝をついた。
「俺は、戦国の誇りも、武士の誉れも、すでに絶海の底に捨ててきました。……これより始まるのは、天下を焼き尽くす、史上最悪の虐殺です。その覚悟がおありなら、この狂犬の鎖を、どうか解き放ってください」
大広間は、完全な静寂に包まれた。
淀殿は青ざめ、将たちは俺の放つ底知れぬ狂気と、一切の感情を排除した殺意の前に、己の甘い幻想が完全に打ち砕かれたことを悟った。
もはや、大坂の陣は「豊臣家を守るための美しい戦い」ではない。
宇喜多秀家という一人の狂信者が、徳川家康を道連れに地獄の底へと落ちるための、巨大な道連れの儀式なのだ。
秀頼様が、ごくりと喉を鳴らし、そして、震える声で告げた。
「……許す。備前よ、そなたの好きにせよ。あの狸を、必ずや討ち果たしてみせよ」
「……御意に」
俺は立ち上がり、背後の真田信繁や全登たちを一瞥した。
「聞いたな。……これより、軍議などという無駄な茶番は終わりだ。各々、持ち場に戻り、死の絡繰の最終点検を行え。……明日、徳川の先鋒が平野口に現れた瞬間が、我らの地獄の蓋が開く時だ」
俺の口元に、ついに歓喜の哄笑が漏れた。
天下の覇者・徳川二十万と、絶海から蘇った豊臣の狂犬。
因果の全てを精算する大坂冬の陣の火蓋が、今、無慈悲に切って落とされようとしていた。
「我こそは五大老が一人、宇喜多秀家なり!!」
この小説はこの一文を書きたかったので作った小説です。




