閑話:父という名の、豊臣の亡霊
閑話その3です。
第三章へ入る前に、八丈島に共に流されていた「息子」の視点を挟みます。
史実においても秀家と共に流罪となった嫡男・孫九郎(後の秀高)。彼は、この絶海の孤島で「父親」が人間から「豊臣の狂犬」へと変貌していく十四年間を、一番近くで目撃していました。
今後の戦いには同行せず、島に残ることになる息子の目から見た、恐ろしくも哀しい父親の背中を描きます。
私の父、宇喜多秀家は、もはや人間ではない。
豊臣という名の巨大な呪いに取り憑かれ、徳川家康の喉笛を噛み千切るためだけにこの世に留まり続ける、血塗られた亡霊である。
慶長十九年、晩秋。
吹き荒れる嵐が外の木々を薙ぎ倒す中、私は六畳一間の隣に増築された、さらに小さな三畳の土間で、ひたすらに耳を塞ぎ、震えていた。
少し離れた代官所の方角から、雨風の音に混じって、断末魔の悲鳴と肉を断ち切る鈍い音が聞こえてきたからだ。
父が、動いたのだ。
幕府の役人たちを皆殺しにし、この八丈島という絶海の檻を、ついに内側から物理的に破壊したのである。
「……孫九郎」
唐突に、背後の戸が開き、凄まじい血の匂いと冷たい雨風が三畳の空間に吹き込んだ。
私は弾かれたように振り返った。
そこに立っていたのは、返り血で赤黒く染まり、右手に抜き身の打刀を提げた、私の父――かつての備前中納言、宇喜多秀家であった。
「ち、父上……ッ。その、お姿は……」
私は腰を抜かし、後ずさった。
齢四十半ばを迎えようとしているはずの父の肉体は、衰えるどころか、関ヶ原の折に見た時よりもさらに巨大に、異常なまでの筋肉の鎧を纏っていた。
嵐の暗闇の中で爛々と輝くその双眸には、もはや父親としての温もりや、人間としての情愛など欠片もない。ただ、大坂の空の向こうにいる老狸の首ただ一つを見据える、純度百パーセントの狂気だけが宿っていた。
「……終わったぞ。この島の目障りな監視の目は、全て潰した。裏の入り江には、次郎吉たちが用意した軍船が帆を張って待っている」
父は、血の滴る刀を無造作に鞘に納め、私を見下ろした。
「私はこれより、海を渡り、大坂へ入る。……老狸の天下を、この手で完全にひっくり返すためにな」
私は、息を呑んだ。
十四年前。関ヶ原での凄惨な敗走の末、島津家の庇護を経て、私たちはこの島へ流された。
私は、死罪を免れただけでも御仏の慈悲だと受け入れ、この絶海の孤島で静かに土を耕し、宇喜多の血を絶やさぬことだけを考えて生きていくつもりだった。それが、敗者の辿るべき当然の末路だと思っていたからだ。
だが、父は違った。
この十四年間、父はただの一日たりとも、己の敗北を受け入れたことなどなかった。
昼間は監視役の目を欺くために病人を装いながら、夜になれば狂ったように巨岩を担いで肉体を苛め抜き、前田家から密かに送られてくる母上(豪姫)の黄金を使って、島の庄屋や海賊衆を完全に己の手足として洗脳してしまった。
隣の小屋から聞こえてくる、毎夜の異様な素振りの風切り音。
時折見せる、島民たちを這いつくばらせるほどの絶対的な殺気の波動。
私は、一番近くにいながら、父親がゆっくりと「人間以外の何か」に変態していく過程を、ただ恐れおののきながら見ていることしかできなかったのだ。
「父上……。大坂へ向かわれるというのなら、私も、私もお供いたします!」
私は震える足に鞭を打ち、立ち上がって叫んだ。
「私も、宇喜多の血を引く者! 共に大坂城へ入り、徳川の軍勢と……」
「ならん」
父の短く、絶対的な拒絶の声が、私の言葉を物理的に断ち切った。
「お前は、この島に残れ」
「な、なぜですか!? 私とて武士です、父上が死地に赴くというのに、この島で一人ぬくぬくと生き長らえよと仰るのですか!」
「そうだ」
父は、一歩だけ私に近づき、血に塗れた巨大な掌を、私の肩に置いた。
恐ろしいほどに重く、そして冷たい手だった。
「孫九郎。よく聞け。……これから私が大坂で成すことは、武士の誉れでも、美しい忠義でもない。ただの、血に塗れた怨念の晴らし合いだ。何万という命を巻き込み、人間を効率のいい肉の盾として使い潰す、極限の修羅道だ。……お前のような、まともな心を持った人間が踏み入っていい領域ではない」
父の瞳の奥に、ほんの一瞬だけ、昔の大坂城で見たような「ひ弱で優しい、本来の父親」の影が過ったような気がした。
だが、それはすぐに分厚い狂気の氷の下へと沈んでいった。
「私は、秀吉様との約束を果たすために、己の人間性をとうの昔に殺した。関ヶ原の泥の中で、児島党の若者たちを死なせた時に、私の魂はすでに地獄の底にある。……だが、お前は違う」
父は、私の肩を掴む手に、わずかに力を込めた。
「お前は生きろ。この島で、前田からの仕送りを受けながら、何十年でも、何百年でも、宇喜多の血を絶やさずに生き長らえろ。……私が大坂で家康の首を獲ろうが、あるいは無様に討ち死にしようが、お前は決して島を出るな」
「父上……それは、あまりにも……」
「これは、宇喜多秀家としての最後の命令だ」
父は私から手を離し、背を向けた。
嵐の雨風が吹き込む戸口に立つその背中は、あまりにも巨大で、あまりにも孤独だった。
「天下が徳川の世になろうとも、あるいは豊臣の世に戻ろうとも。お前がこの島で命を繋ぎ、宇喜多の血を残し続けることが、私や母上にとっての、ただ一つの『光』なのだ。……暗闇の泥を啜るのは、私一人で十分だ」
その背中を見て、私は悟った。
この人は、もう帰ってこない。
勝敗など関係ない。家康の首を獲るためだけに、己の存在の全てを大坂の炎の中にくべに行くのだ。
そして、私を島に残すのは、自分と共に地獄へ道連れにしないための、この狂気に塗れた父親なりの、不器用で、どうしようもなく深い愛情なのだと。
「……御意に、ございます」
私は、堪えきれずに溢れ出した涙を拭おうともせず、土間に深く手をつき、頭を垂れた。
「この孫九郎、父上のご命令に従い、この八丈島にて、必ずや宇喜多の命脈を繋いでみせます。……どうか、どうかご武運を。あの老狸の首を、必ずやその手で……ッ!」
「ああ。……世話をかけたな、孫九郎」
振り返ることなく、父は短くそう言い残し、嵐の闇夜へと完全にその姿を消した。
私は、三畳の土間に一人取り残され、遠ざかっていく父の足音と、やがて島の裏側から出航していくであろう黒い軍船の気配を感じながら、いつまでも、いつまでも声を殺して泣き続けた。
夜明け。
嵐が過ぎ去った島の海は、信じられないほどに静かだった。
代官所の惨状に気づいた島民たちが騒ぎ始める中、私は一人、海岸の切り立った崖の上に立ち、はるか西方、大坂の方角へと向かって進んでいく、一隻の異形の黒い船の帆影を見つめていた。
私の父は、大坂へ向かった。
いいや、違う。あれはもう、私の父ではない。
豊臣の世を奪った者たちに、絶対的な死と物理的な破壊をもたらすためだけに顕現した、災厄の獣だ。
「……行け、狂犬」
私は、冷たい潮風に吹かれながら、誇り高く、そして寂しげに呟いた。
「この世の全ての泥と血を啜り、あの狸の天下を、思う存分喰らい尽くしてこい」
これが、私が最後に見た、父・宇喜多秀家の姿であった。
のちに大坂の陣において、突如として海から現れた「宇喜多の亡霊」が徳川の大軍勢を相手にどのような凄惨な地獄を顕現させたのか。
それを私が知るのは、少し後のことである。
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