第13話:妻からの文、遠き戦火の匂い
第13話です。
絶海の孤島での過酷な流人生活の中、妻・豪姫から届けられた一通の文。
一見すると夫を案じる優しげな手紙から、主人公は徳川家康が豊臣家を真綿で首を絞めるように追い詰めていく「史実の足音」を冷徹に読み解きます。
六畳一間の暗闇の中で、静かに、そして確実に戦火の匂いを嗅ぎ取る狂犬の思考をお楽しみください。
慶長十九年、春。
俺が八丈島という絶海の孤島へ流されてから、およそ八年の歳月が経過していた。
吹き荒れる春の嵐がようやく収まり、黒潮のうねりがいくらか穏やかさを取り戻した新月の夜。
俺の監視役であり、今や完全に俺の「手足」として機能している島の庄屋・次郎吉が、六畳一間の小屋の戸を音もなく叩いた。
「……備前様。前田家からの『荷』が、海賊衆の手引きで無事に裏の入り江に届きやした」
次郎吉は、波音に紛れさせるような低い声で囁き、厳重に油紙で包まれた白木の箱を土間に置いた。
幕府の役人の目を完全に掻いくぐり、一年に一度だけ、加賀百万石からこの孤島へと届けられる密命の箱である。
「大儀であった。周囲に怪しい気配はないな」
「はっ。役人どもは皆、嵐の後の宴で悪酔いし、とうに高いびきをかいて眠りこけておりやす」
「よかろう。下がれ」
次郎吉が闇に消えた後、俺は六畳の畳の上で、油の匂いが染み付いた古びた行灯に火を灯した。
微かな光が、俺の筋張った腕と、無数の刀傷が刻まれた分厚い胸板を妖しく照らし出す。この八年間、島で手に入るあらゆる重量物を持ち上げ、狂ったように肉体を酷使し続けた結果、初老を迎えようとする俺の身体は、関ヶ原の時よりもさらに凶悪な、鋼の繊維の塊と化していた。
俺は白木の箱の封を切り、中身を検分した。
底の方には、密貿易の資金となる前田家の極印が打たれた眩い黄金。その上には、島では決して手に入らない上質な真綿の着物や、干し柿、昆布といった日持ちのする高級な食料が詰められている。
だが、俺の目を最も惹きつけたのは、それらの品々の上にそっと置かれた、一通の折り畳まれた和紙であった。
妻・豪姫からの文である。
俺は血の滲んだ分厚い指先で、その薄く繊細な和紙を広げた。
微かに、金沢の冷たく澄んだ空気と、彼女が好んでいた香の匂いが、潮の臭いに満ちた六畳間に広がったような気がした。
『――遠き海の果てにおわす旦那様へ。加賀の地は未だ雪深く、梅の蕾も固く閉ざされたままにございます。旦那様におかれましては、潮風に身を削られ、さぞかし不自由な日々をお過ごしのことと、毎日御仏に祈らぬ夜はございませぬ』
流麗な仮名文字で綴られた文面は、遠く離れた夫を案じる、貞淑な妻の悲痛な情愛に満ちていた。
幕府の検閲を恐れ、表向きはどこを読んでも「哀れな流人への慰め」にしかならない、完璧な偽装の文章である。
だが、俺と彼女の間には、そのような表面上の言葉など必要ない。
俺は行灯の火を文に近づけ、その行間から、豪姫が本当に伝えようとしている「天下の情勢」を、冷徹な理知を通し、一つ残らず解読し始めた。
『――先日、大坂の方角より吹き荒れた強き風が、加賀の空をも覆い隠すほどにございました。かの地では、亡き太閤殿下の大願でありました方広寺の大仏殿が、いよいよ見事な姿を現したと風の噂に聞いております。それはそれは立派な釣鐘も鋳造されたとのこと。亡き殿下も、さぞや草葉の陰でお喜びのことでございましょう』
俺の口角が、ゆっくりと、獰猛な弧を描いて吊り上がった。
「……来たか。いよいよ、あの老狸が牙を剥く刻が」
方広寺の大仏と、巨大な釣鐘の鋳造。
歴史を知らぬ者からすれば、豊臣家が太閤秀吉の菩提を弔うために行っている、単なる巨大な宗教事業に過ぎない。
だが、俺にはその真の恐ろしさが痛いほどに理解できた。
これは、徳川家康が数年の歳月をかけて周到に張り巡らせた、豊臣の金蔵を空にさせるための「真綿の首絞め」の総仕上げなのだ。
家康は、大坂城に蓄えられた莫大な金銀財宝が、いずれ牢人たちを雇い入れ、徳川への反乱の資金となることを恐れていた。
ゆえに、「太閤殿下の供養」という、豊臣家が決して断れない大義名分を盾に取り、寺社の造営や巨大建築を次々と強要したのである。淀殿や秀頼様は、その見え透いた罠に気づきながらも、豊臣の威光を天下に示すため、見栄を張ってこれに乗らざるを得なかった。
『――しかし、その釣鐘に刻まれた銘文について、江戸の空から冷たい雨が降り注いでいるとも聞き及びます。美しい文字の羅列が、なぜか人の心に暗い影を落とすこともあるのですね。旦那様、どうかお身体を冷やさぬよう……』
「……『国家安康、君臣豊楽』か」
俺は、豪姫の綴った行間から、あの忌まわしい歴史の転換点を正確に読み取った。
釣鐘に刻まれた「国家安康(家康の文字を切り裂き、呪詛している)」という銘文。
家康が御用学者である林羅山たちを使ってでっち上げた、あまりにも理不尽で、あまりにも暴力的な「言いがかり」。
戦国時代において、大義名分というものは常に勝者の都合で書き換えられる。家康はついに、豊臣家を物理的に地上から消し去るための、最後の「開戦の口実」を手に入れたのだ。
俺は文を折り畳み、懐に深く仕舞い込んだ。
胸の奥底で、ドクン、ドクンと、八年間眠らせていた途方もない狂気と殺意が、激しく脈打ち始めるのを感じた。
「……見事な盤面だ、家康。加藤清正、浅野幸長、前田利長。豊臣恩顧の有力な武将たちを、寿命や病と称して次々とこの世から消し去り、大坂城を完全に孤立させた上で、逃げ場のない言いがかりで一気にすり潰す。……お前という男の、その執念深く、陰湿で、完璧なまでの天下簒奪の機構には、反吐が出るほどの賛辞を贈ろう」
俺は六畳一間の立ち上がり、愛用している木刀――海岸で拾い、自らの手で削り出した、鉄の棒のように重い流木を手に取った。
「だがな、老狸。お前のその完璧な盤面には、一つだけ、致命的な誤算が残されている」
ビュォォォォォンッ!!
俺の腕が振るわれると同時に、六畳の空気が物理的に切り裂かれ、恐ろしい風鳴りが小屋の壁を震わせた。
「俺だ。……お前が殺し損ね、こんな果ての島で朽ち果てると高を括った、豊臣の狂犬だ」
史実において、宇喜多秀家は大坂の陣に参戦していない。八丈島で五十年という途方もない年月を生き長らえ、静かに寿命を全うしたとされている。
だからこそ、家康の頭の中にある「未来の予測図」に、俺という存在は一切計算されていない。
関ヶ原で小早川秀秋の軍勢を正面から破砕し、本陣にまで肉薄してきたあの狂気の軍団が、再び大坂の地へ蘇るなどとは、あの老練な狸でさえ夢にも思っていないはずだ。
「次郎吉!」
俺の低く鋭い声に、外で待機していた次郎吉が慌てて戸を開け、転がり込んできた。
「は、はいッ! 備前様!」
「裏の入り江の『船』は、いつ動かせる」
俺の放つ尋常ではない熱気と威圧感に、次郎吉は顔を青ざめさせながらも、必死に声を張り上げた。
「ほ、骨組みは完全に仕上がっておりやす! あとは帆を張り、大筒を載せれば、いかなる嵐の海でも黒潮を断ち切って本土へ渡れる、無敵の船にござんす!……月を跨げば、いつでも出立できやす!」
「明石全登が集めた、大坂の地下の鉄砲と弾薬は」
「堺の商人から手紙が届いておりやす。……一万丁の種子島と、山をも吹き飛ばす量の硝石が、すでに大坂城の足元で、備前様の号令を今か今かと待っていると!」
俺は流木を下ろし、ニヤリと、暗闇の中で悪魔のように笑った。
慶長十九年。
歴史の歯車が、いよいよ大坂冬の陣に向けて、凄まじい軋みを上げながら回転を始めた。
豊臣家が滅亡の淵に立たされる、その絶望の淵。
だが、俺にとってそれは、八年間の屈辱と泥を洗い流し、老狸の喉笛を噛み千切るための、待ちに待った死の祝祭の幕開けに他ならない。
「……仕上げの時だ」
俺は、六畳一間の粗末な天井を見上げた。
その向こうには、大坂の空がある。秀吉様が俺に与えてくれた、あの黄金の世の残照がある。
「次郎吉。海賊衆の頭目を呼べ。……俺たちはこれより、徳川の敷いた海の関所を全て物理的に粉砕し、本土へ上陸する。大坂城の炎が燃え上がる前に、俺が、豊臣の亡霊としてこの世に蘇るのだ」
吹き荒れる八丈島の波音が、まるで俺の反逆を祝福するかのように、一際高く、激しく咆哮した。
絶海に設えられた六畳の墓標は、今この瞬間、天下を焼き尽くすための巨大な火薬庫へと完全にその姿を変えたのである。
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