第12話:狂気は海の底に沈まず
第12話です。
表向きは病に伏せ、死を待つばかりの惨めな流人。
しかし、その六畳一間の裏側で、主人公は現代の知識と底知れぬ狂気を武器に、海賊や島民を支配し、巨大な密貿易の網を構築していきます。
絶海の孤島が、徳川を滅ぼすための「要塞」へと変貌していく過程をお楽しみください。
絶海の孤島・八丈島に流されてから、さらに幾月かの時が流れた。
「……ゲホッ、ゴホッ……」
隙間風が容赦なく吹き込む六畳一間の薄暗い小屋の中で、俺は背を丸め、ひどく掠れた咳を吐き出した。
擦り切れた粗末な麻の着物を羽織り、落ち窪んだ眼窩と伸び放題の無精髭。その姿は、かつて五十七万石を領し、天下の趨勢を左右した大名の面影など微塵も残っていない、ただ惨めに死を待つだけの哀れな罪人のそれであった。
「どうやら、いよいよ手遅れのようだな、備前殿」
俺の様子を冷ややかに見下ろしているのは、江戸幕府からこの島の監視役として派遣されてきた代官の男だった。
彼は鼻を覆うように扇子を当て、六畳の空間に充満するカビと磯の臭いに顔をしかめている。
「島に流されてよりこの方、ろくな物も食えず、風土病にまで冒されるとは。……かつて太閤殿下に寵愛された貴殿も、この絶海の孤島にあっては、ただの脆弱な肉の塊に過ぎんというわけだ」
「……お、お笑い、くだされ……」
俺は、わざと声を震わせ、畳に額をこすりつけるようにして平伏した。
「内府(家康)様に……刃を向けた報い……。我が命、もはや風前の灯火にござる……」
「ふん。内府様はとうに征夷大将軍となられ、天下は徳川の御代よ。お前のような過去の亡霊など、もはや誰も気にかけてはおらん。……せいぜい、この六畳の狭い檻の中で、己の罪を悔いながら朽ち果てることだ」
代官は満足げに鼻を鳴らすと、足音を荒立てて小屋を出て行った。
外から、戸に重い錠が掛けられる音が響く。
遠ざかっていく代官と護衛の足音。それが波の音にかき消され、完全に聞こえなくなった瞬間――。
俺の目から、弱々しい病人の光が完全に消え去った。
「……馬鹿な男だ。人間を表面上の見てくれでしか判断できんから、安い役人で終わるのだ」
俺はゆっくりと身を起こし、首の骨をボキリと鳴らした。
纏っていた粗末な着物を脱ぎ捨てる。
その下から現れたのは、病に冒された脆弱な肉体などではない。この島の過酷な環境下で、夜な夜な限界まで酷使し、巨岩を持ち上げ、大木を振り抜くことで鍛え抜かれた、鋼の線維のような筋肉の鎧だった。
関ヶ原で受けた無数の刀傷が、赤黒い刺青のように全身に刻み込まれている。
飢えや病など、最初から存在しない。
俺は、監視役の代官の目を欺くためだけに、「死にかけの流人」という完璧な芝居を打っていたのだ。
幕府の役人というものは、江戸への報告書さえ体裁よく書ければそれで満足する生き物だ。流人が弱り果て、反逆の意志など微塵もないと書類に書き記すことができれば、それ以上深く詮索しようとはしない。現代の官僚機構にも通じる、組織特有の「怠慢」である。
俺はその盲点を突き、表向きはこの六畳一間を「死の淵にある檻」と偽装しながら、裏では全く別の巨大な盤面を動かしていた。
◇
深夜。
新月の闇が島をすっぽりと包み込む頃。
俺は六畳の小屋の床板を外し、自らの手で掘り進めた隠し通路を抜けて、島の裏側にある切り立った断崖の洞窟へと足を運んでいた。
荒れ狂う黒潮が岩肌を打ち据える轟音の中、洞窟の奥には松明の火が妖しく揺らめいている。
そこには、俺の忠実な「手足」となった島の庄屋・次郎吉と、数名の屈強な荒くれ者たちが待っていた。
「……お待ちしておりやした、備前様」
次郎吉が、平伏して俺を出迎える。
彼の隣に立つ男たちは、潮焼けした顔に無数の傷を持ち、腰には反りの強い太刀を差していた。彼らは本土の法に縛られない、海賊衆の残党――黒潮に乗って密貿易を行う、海の狼たちである。
「お前が、宇喜多の殿様かい」
海賊の頭目らしき隻眼の男が、無遠慮な視線を俺に向けた。
「次郎吉から話は聞いてるがね。本土から見捨てられた流人が、俺たち海の男を使って、途方もねえ商いをしたいって言うじゃねえか。……だが、先立つ物がなけりゃ、俺たちの船は動かせねえぜ?」
「金ならある」
俺は洞窟の奥へ歩み寄り、そこに積まれていた木箱の一つを蹴り開けた。
松明の光を受け、中から眩いばかりの黄金の輝きが溢れ出した。
前田家特有の極印が打たれた、純度の高い大判小判の山である。
「な、なんだと……ッ!? なぜ、流人の分際でこれほどの金銀を……!」
海賊の頭目が、目玉を飛び出さんばかりに見開いて息を呑んだ。
「俺の妻は、加賀百万石・前田利家の娘だ。あいつは、幕府の目を盗んで一年に一度、この島へ密かに黄金を沈めた樽を流し着かせている」
そう。豪姫だ。
あいつは俺の意図を完璧に理解し、前田家の莫大な財力を裏帳簿で操作し、この八丈島への「兵站」を維持し続けてくれている。俺とあいつの間に、言葉のやり取りはない。だが、この黄金の重みこそが、共に地獄を歩むという彼女の凄絶な愛の証であった。
「いいか、海の狼ども。俺が求めているのは、本土の贅沢品でも食糧でもない。この黄金を使い、薩摩の島津領へ赴き、南蛮渡りの『硝石』と『鉛』、そして良質な『鉄』をありったけ買い付けてこい」
「硝石だと……? 鉄砲の火薬の原料じゃねえか。そんなもの、幕府が厳しく目を光らせている禁制品だぜ!」
「だからこそ、お前たち裏の者を使うのだ」
俺は、現代の経済と物流の知識――戦国時代には存在しない「需要と供給の非対称性」を利用した、絶対的な利益の構造を彼らに提示した。
「薩摩の島津もまた、関ヶ原で西軍についた外様だ。表向きは徳川に従順だが、腹の底では幕府への怨念を煮えたぎらせている。俺が前田の黄金で硝石を買い叩くと知れば、奴らは喜んで幕府の目を盗み、横流しに手を貸すだろう」
俺は、黄金の詰まった箱の上にどっかと腰を下ろし、海賊たちを睥睨した。
「お前たちには、運んだ硝石と鉛の量に応じ、本土の相場の三倍の運上金をくれてやる。加賀の黄金、薩摩の怨念、そして海賊の強欲。この三つを、江戸から遠く離れたこの八丈島を中継地として結びつける。……幕府の役人どもは、まさか死にかけの流人がいる六畳一間の真下で、これほど巨大な『銭と兵器の血流』が渦巻いているとは夢にも思わん」
海賊たちは、俺の描いた冷徹で完璧な密貿易の構造に、完全に言葉を失っていた。
彼らは命知らずの悪党だが、同時に利益に聡い商人でもある。俺の提案が、いかに莫大な富を彼らにもたらすか、一瞬で理解したのだ。
「……だが、殿様」
隻眼の頭目が、ゴクリと唾を飲み込んで尋ねた。
「あんた、それほど大量の火薬と鉛をこの島に集めて、一体どうするつもりだ? ここは絶海の孤島だ。いくら武器を集めようと、本土へ攻め込む軍船がなけりゃ……」
「造るに決まっているだろう」
俺の即答に、洞窟の空気が凍りついた。
「次郎吉。島の裏側に隠してある入江の『作業』は、どこまで進んでいる」
「は、ははッ! 殿様からご教示いただいた、南蛮船の骨組みを取り入れた『竜骨』の組み上げが終わりやした。本土の関船とは比べ物にならねえ、波を切り裂く恐ろしい船になりやすぜ」
「重畳。……幕府の役人が巡回に来る昼間は、徹底的に偽装網を被せて隠しておけ」
海賊たちは、震え上がった。
彼らはようやく理解したのだ。目の前にいる男が、単なる流人でも、狂人でもないことを。
遠い未来、必ず訪れるであろう「徳川との決戦」の日を見据え、この島全体を一つの巨大な「要塞」であり「軍国」として密かに再構築している、途方もない反逆者であることを。
「……あんた、本気で、あの家康公の首を狙ってるってのか。こんな果ての島から……」
頭目の震える声に、俺は冷酷な笑みで応えた。
「天下の安寧など知ったことか。俺は、あの狸が築き上げた盤面を、物理的な暴力で全て破壊する。……お前たちは、そのための極上の『歯車』だ。俺に牙を剥けば、前田の黄金ごと海の底へ沈める。だが、俺の手足として働くなら、いずれお前たちに、徳川の天下がひっくり返る極上の光景を見せてやる」
俺は立ち上がり、洞窟の奥にうず高く積まれた、すでに搬入されている無数の木箱を撫でた。
中には、明石全登が要求した規格に合わせた、極上の硝石と鉛がぎっしりと詰まっている。
「待っていろ、家康。……俺の狂気は、海の底になど沈まない」
荒れ狂う黒潮の波音が、俺の腹の底にある殺意と共鳴するように、洞窟の中で激しく咆哮した。
六畳一間の檻の中から、豊臣の狂犬は、冷徹な知性と黄金の鎖を使って、天下を焼き尽くすための牙を確実に研ぎ澄ませていた。
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