第11話:波音と六畳一間
第11話です。
ここから第二章「絶海、六畳の墓標」が開幕します。
敗走、潜伏、そして捕縛を経て、死罪を免れた主人公がついに辿り着いたのは、本土から遠く離れた絶海の孤島・八丈島。
世間から「死んだも同然」と見なされる流人となった男が、粗末な小屋の中で静かに、そして恐るべき執念で牙を研ぎ始める姿を描きます。
慶長十一年。
関ヶ原の敗戦から数年の歳月が流れていた。
伊吹山中での敗走後、俺は薩摩の島津家を頼って潜伏し、その後、徳川家康の前に引きずり出された。
西軍の総大将として天下を二分する戦端を開き、あまつさえ小早川秀秋を討ち取り、徳川本陣にまで肉薄した俺の罪状は、本来であれば市中引き回しの上の斬首、あるいは磔が妥当であっただろう。家康の腹底には、俺という盤面外の狂気に対する拭い去れない恐怖と憎悪が渦巻いていたはずだ。
だが、家康は俺を殺せなかった。
俺の背後には、妻・豪姫の実家である加賀百万石の前田家と、俺を匿っていた薩摩の島津家という、徳川政権にとっても無視できない巨大な外様大名の影があったからだ。彼らを完全に敵に回すことを避けた老狸は、苦渋の決断として俺の死罪を免じ、生涯本土の土を踏むことを許さぬ「遠島(流罪)」という処分を下した。
そうして俺は、黒潮の荒波を越え、この絶海の孤島――八丈島へと辿り着いたのである。
「……ここが、お前のこれからの住処だ。備前中納言殿」
護送を担ってきた徳川の役人が、嘲笑を隠しきれないねっとりとした声で言った。
彼らが指差した先、吹きすさぶ潮風に晒された丘の中腹に、今にも崩れ落ちそうな粗末な茅葺きの小屋が建っていた。
壁は薄い板を打ち付けただけの隙間だらけのもので、屋根の茅は潮風に吹かれて無惨に毛羽立っている。かつて五十七万石の大名として、大坂城の絢爛豪華な御殿で太閤殿下の隣に座っていた男への当てつけとしては、これ以上ないほど惨めな舞台装置であった。
「中へ入れ。……逃げようなどと無駄な真似は考えるなよ。この島から本土へ生きて渡れる者など、一人もおりはせんのだからな」
役人の冷笑を背に受けながら、俺は無言のまま小屋の戸を開けた。
蝶番が錆びつき、ギィと鼓膜を不快に撫でる音を立てる。
小屋の中には、かまどすらない。土間を上がった先にあるのは、潮の匂いと強烈なカビの悪臭が染み付いた、六畳一間の空間だけであった。
六畳一間。
かつて俺が座っていた大坂城の広間とは比べるべくもない、己の四肢を伸ばせば端から端まで届いてしまいそうな、あまりにも狭く、息が詰まるような牢獄。
畳の表面はささくれ立ち、床下からは冷たい風が容赦なく吹き上がってくる。雨が降れば、間違いなくあちこちから雨漏りがするだろう。
「どうだ、備前殿。五十七万石の当主様には、いささか手狭かもしれんが……罪人にはお似合いの広さであろう?」
背後で、役人が意地悪く笑った。
彼らは期待しているのだ。かつての栄華を知る誇り高き戦国大名が、この六畳一間の惨めな現実に打ちのめされ、絶望に泣き崩れ、やがて正気を失って発狂していく姿を。
徳川家康という男は、俺の肉体を殺せなかった代わりに、この過酷な環境と「落差」という名の拷問によって、俺の精神を完全に殺そうとしているのである。
だが。
「……悪くない」
俺の口からこぼれ出たのは、嘆きでも怨嗟でもなく、極めて冷静な、感情の欠落した呟きだった。
俺は泥で汚れた足袋のまま六畳の畳の上に上がり、その中央にどっかとあぐらをかいて座った。
「これなら、座ったまま全ての道具に手が届く。風通しが良いのも、武器に湿気を溜め込まないためには好都合だ。……何より、俺の思考を邪魔する余分な装飾が一つもない」
俺はぐるりと六畳一間の空間を見渡し、満足げに頷いた。
役人たちの顔から、ヘラヘラとした嘲笑が消え失せた。
「な……にを、強がっている。お前はもう、大名ではないのだぞ! ここで、虫けらのように惨めに老いさらばえて死んでいく流人なのだ!」
「帰れ」
俺は、視線すら向けずに短く言い放った。
「お前たちの役目は、俺をこの六畳一間に運ぶことだろう。……作業が終わったのなら、とっととあの狸親父の元へ帰って報告しろ。宇喜多秀家は、大人しく六畳の檻に入ったとな」
役人たちは、俺の背中から立ち上る得体の知れない気迫に完全に呑まれ、逃げるように小屋から去っていった。
戸が閉まり、六畳一間の空間に、俺一人だけが残された。
遠くから、島に打ち付ける黒潮の暴力的な波の音が、地鳴りのように響いてくる。
絶望? 悲嘆?
そんなものが、俺の心に湧き上がるはずがなかった。
この六畳一間は、俺にとって墓標ではない。
徳川家康の喉笛を噛み千切り、大坂の空を紅蓮に染め上げるその日まで、自らの狂気を純度百パーセントにまで濃縮し、発酵させるための「繭」なのだ。
◇
流人としての生活が始まった。
与えられる食糧は、島で採れるわずかな粟や稗、そして時折恵まれる海藻と小魚の干物程度だ。到底、健康な成人男性が体を維持できる代物ではない。
だが、俺は自らの肉体が飢えと寒さで衰えていくことを、断じて許さなかった。
夜明け前。
島の役人がまだ微睡んでいる冷たい暗闇の中で、俺は六畳一間の空間を最大限に利用し、己の肉体を限界まで苛め抜いていた。
「……九百九十八。……九百九十九。……千」
狭い畳の上で、海岸で拾ってきた重い流木を両手で握りしめ、延々と素振りを繰り返す。
栄養が足りない分は、島に自生する野草を噛み砕き、海水を薄めて飲み、内臓に無理やり活力を叩き込んで補った。
関ヶ原で受けた全身の刀傷が痛む。右脇腹の古傷は、雨の日は立っていることすら困難なほどの激痛を伴う。だが、その痛みが走るたびに、俺は桃配山で見た家康のあの安堵した冷笑を思い出し、己の魂に強烈な憎悪の薪をくべた。
俺は知っている。
慶長十九年。今からおよそ八年後、徳川家康は必ず、大坂城にいる豊臣秀頼様を完全に滅ぼすための牙を剥く。方広寺鐘銘事件という下劣ないいがかりをつけて、数十万の大軍で大坂城を包囲する「大坂の陣」が勃発することを。
俺は、それまでにこの島を抜け出し、大坂へ帰還しなければならない。
そのためには、初老を迎えようとする俺の肉体が、関ヶ原の時と同じ、いや、それ以上に研ぎ澄まされた「殺人兵器」のままであり続ける必要があるのだ。
汗が滝のように流れ落ち、六畳の畳に黒い染みを作っていく。
木刀の風切り音が、狭い空間に恐ろしいほどの緊迫感を生み出していた。
「……備前、様。お食事を、お持ちいたしました」
戸の外から、おずおずとした声が響いた。
島の庄屋であり、俺の監視を任されている次郎吉という男だった。
「入れ」
俺は流木を下ろし、呼吸を一つで整え、六畳の中央にあぐらをかいた。
戸が開き、次郎吉が粗末な盆に乗せた粟の粥を運んできた。彼の目には、かつての大名に対する哀れみと、得体の知れない流人への警戒が入り混じっている。
「今日は、海が荒れておりまして……魚は手に入りませなんだ。申し訳、ごぜぇません」
「構わん。置いておけ」
次郎吉は盆を置き、そそくさと退室しようとした。
この島の者たちは、幕府から俺を厳重に監視し、決して厚遇せぬよう申し付かっている。彼らにとって俺は、関われば厄災を招く疫病神のような存在だ。
「次郎吉」
俺の低く、芯のある声が、次郎吉の足を床に縫い付けた。
「は、はいッ」
「お前は、この島の暮らしに満足しているか」
俺は、粟の粥に視線を落としたまま、静かに問いかけた。
「ま、満足と申されましても……。あっしらは代々、この風と波に耐えて生きるしか術がねぇ土塊でごぜぇますから。お上(幕府)に年貢を納め、ただ細々と息を繋ぐだけで……」
「そうか」
俺はゆっくりと顔を上げ、次郎吉の目を真っ直ぐに見据えた。
「ならば、俺がお前たちを豊かにしてやる」
次郎吉が、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で俺を見た。
「備前様、なにを……。いくらかつての大名様とはいえ、今のあなたは本土へ戻ることもできねぇ、一介の罪人。しかもこの六畳一間から一歩も出ることを許されぬお立場。そのような方に、どうして……」
「俺を誰だと思っている」
俺の目が、わずかに細められた。
その瞬間、六畳一間の空間に、目に見えない絶対的な重圧が膨れ上がった。
小早川秀秋の首を刎ね、福島正則を蹂躙し、己の家臣を幾人も惨殺してきた、純度百パーセントの「死の匂い」。関ヶ原の泥と血を吸い込んだ俺の魂が放つ、人を人とも思わぬ冷徹な狂気のオーラが、次郎吉という平凡な村人の精神を物理的に押し潰したのだ。
「ひ、ひぃッ……!」
次郎吉は、目に見えない巨大な手に首を絞められたかのように喉を鳴らし、畳の上にへたり込んだ。ガタガタと全身が震え、俺から視線を外すことすらできなくなっている。
「俺は、宇喜多秀家だ。この六畳一間であろうと、大坂城の御殿であろうと、俺が座る場所が陣の要となる。……お前たちは、何も考えるな。幕府の役人の前では、今まで通り俺を哀れな罪人として扱え。だが、裏では俺の言う通りに動け」
俺は、這いつくばる次郎吉の耳元に、悪魔のように囁いた。
「遠からず、金沢の前田家から、俺を支援する密船がこの島に寄港する。その船を利用し、薩摩や海賊衆を巻き込んで、この島を『巨大な密貿易の拠点』に変える。島の裏側には、誰の目にも触れぬ軍船を造る。……お前たちは、その手足となれ。幕府の監視の目を欺き、俺が八年後に本土へ帰還するための、巨大な要塞をこの島に築き上げるのだ」
次郎吉は、あまりのスケールの大きさと、それをこの六畳一間の流人が本気で成し遂げようとしている狂気に触れ、完全に己の常識を破壊された。
もはや、抵抗する意志など微塵も残っていなかった。
目の前にいるのは、哀れな敗残兵などではない。
いつか必ず天下を火の海に変えるであろう、途方もない怪物だ。
次郎吉は、畳に額を擦り付けるようにして、深く、深く平伏した。
「……ははぁッ! この次郎吉、島民を束ね、備前様の手足となって働かせていただきやす……ッ!」
俺は、平伏する次郎吉を見下ろしながら、冷たく粥をすすった。
暴力は使っていない。ただ、圧倒的な精神の圧力だけで、俺は島の庄屋を完全に洗脳し、己の「歯車」へと組み込んだ。
これでいい。
関ヶ原の敗戦で全てを失った俺にとって、この八丈島での日々は、ゼロから再び狂信の軍隊を創り上げるための、静かで熱い造国の始まりなのだ。
外では、黒潮の荒波が、島の岩肌を容赦なく叩き続けている。
俺は六畳一間の暗がりの中で、遠く離れた大坂の空を想い、ただ一人、獰猛な笑みを浮かべた。
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