4.
「また、おそくまでパソコンでしょう?」
架奏恭一郎は指を軽く曲げてくちびるにあて、くすくすくすと笑った。
「ええと、ええ、まあ」
「ダメですよ、ちゃんと夜は寝ないと」
「はい」
架奏恭一郎は漆黒の瞳を細めて、ほほ笑んだ。
天川忍が視線をあわせて会話のできる、ただひとりの人。
とても優しい人だ。
まるで闇のよう。人の罪もあやまちも、そっと覆い隠して包みこんでくれる。
「理事長、ぼく、理事長にお話があったんです」
「わたしもです。
昼食、まだですよね。
忍くん、つきあってもらえませんか」
理事長室に、カフェテリアからふたり分の食事がデリバリーされた。
BLTにローストビーフのサンドウィッチ、ふわふわに柔らかいポテトサラダとさっぱりしたオニオンスープ。
カモミールティとレオニダスのチョコレートまでついている。
まだ授業中である。
クラスメイトの顔を思い浮かべると後ろめたさも感じるけれど、やはり理事長とふたりきりで食事できることが嬉しい。
文化祭でメイド喫茶をやるかもしれないと愚痴をいうと、
「それは楽しみですね、芙弥也くんもたまにはいいこと言いますね」
「理事長まで、そんなこと言うんですか」
「私もぜったいに行きます。
頑張ってください」
心底嬉しそうに言う。
大好きな理事長にそう言われてしまうと、嫌だけどやるしかないのかな、と思ってしまう。
会話をしていると本当に、この人は子どもが好きなのだな、といつも感じる。
忍のことも、忍以外の生徒のことも、生徒でなくても無条件に子どもが好きで、子どもの笑顔も可能性も未来も見護ろうとする意志をつねに感じる。
その一方で無力な子どもが犠牲となる事件が巷で起きるたび、忍ですら危なっかしいと感じるほど、無防備に傷ついていた。
食事をすませ、チョコレートを齧りながら藤枝紫朗のことをどう切り出そうか考えていた。
理事長から話してくれないかな、と虫のいい期待もあるけれど、架奏恭一郎は笑みをたたえたまま、じっと忍が話しだすのを待っている。
忍から話しだすべきと思っているのだったら、この人は一時間でも二時間でも、じっと待ち続ける。
それが分かっているから、忍はコシのない髪を弄びながらおずおずと話しだした。
「あのう、転校生が来たようで、学年が一つ下なのですけれど、寮でぼくとおなじ部屋だと言われて。
そのう、変ですよね、ぼくはずっとひとり部屋にするって理事長、前に言ってくれましたよね」
架奏恭一郎はソファーに深くもたれた。
「忍くんから見て、紫朗くんはどんな子に見えましたか」
その眼差しと口調で、理事長が同室にすると決めたと寮監が言っていたのは、真実だったのだと悟った。
「ええと、カッコいいと言われているみたいです」
「忍くん自身は?」
「カッコいいんじゃないかと思いますけど」
正直なところ、よく分からない。
ひと晩一緒にいたけれど、忍は自分のことで精一杯で、藤枝紫朗のことまで気にしていられなかった。
「そうだ、花をもらいました。
白い花」
花ですか、と架奏恭一郎はびっくりしたように言った。
「花束とか、そんな買ったような立派なのじゃなくて、そう、雑草。
雑草のような花」
「雑草? ペンペン草? そういえばペンペン草の花言葉は『あなたに全てを捧げます』だとか。
さすが紫朗くん、気障ですねえ。
というか余裕があるんですね、そんな状況じゃないと思うのですけれど」
「ペンペン草じゃないし……、ええと、そんなに意味はなさそうですけれど。
押しつけられた、というか嫌がらせかも」
「嫌がらせで花を贈ったりはしないでしょう。
そういえば、クレマティスの花言葉、知っていますか」
忍は胸元のエンブレムを見た。
黒の地に、金糸と銀糸でクレマティスの花と蔦の曲線が優美に描かれている。
正門の鉄柵にもこのエンブレムが装飾されているし、プリント類や文房具品、学校のいたるところで目にする。
けれども、深く気にしたことはなかった。
忍は首を振った。
「心の美しさ、高潔。
そして精神的な愛」
「精神的な愛」
思わず、忍はオウム返しに返した。
精神的な愛とは何だろう。
家族愛、友情愛といったものだろうか。
たとえば理事長が生徒たちに注ぐ感情を、精神的な愛というのだろうか。
「紫朗くんはものすごく辛い経験をしているのに、自立しようと気丈に振る舞っています。
でも、彼は今のまま生きようとするなら、心を失くすでしょう。
わたしは紫朗くんには忍くんが、忍くんには紫朗くんが必要だと思います。
だから、忍くんがずっとひとり部屋でいることを望んでいるのを知っていましたが、それでもあえて、同室にしたのです」
忍は指の色が白くなるほど硬く、手を組み合わせた。
忍が誰かに救われることも、誰かを救うことも、出来るとは思えない。
理事長はじっと忍を見つめていた。
吸い込まれそうな、美しい黒い瞳。
その瞳の前に、「嫌だ」とは言うことはできなかった。
「ぼくにできるでしょうか」
「わたしはそう思います」
「また何かあったら、相談に来てもいいですか」
架奏恭一郎は漆黒の髪を流して、微笑した。
「何もなくても、おしゃべりしに来てください。
忍くんならいつでも歓迎します」
理事長室を出て、忍は深呼吸を何度かした。
すっかり目論見が狂ってしまった。
藤枝紫朗と、理由はよくはわからないけれど仲良くやらなきゃいけないし、部屋も片付けなきゃいけない。
すでに昼休みになっていたようで、廊下の窓からは、生徒たちが校庭で走り回っているのが見える。
ぼんやりと見下ろしていると、渡り廊下を中学一年生の一団が歩いていた。
中心に、藤枝紫朗がいてにぎやかに笑っている。
半日で、もう、クラスの中心になったらしい。
いまだにクラスメイトの大半と挨拶を交わすことすらできない忍とは、すごい違いだ。
これだけ違う二人が、ほんとうにうまくやっていけるのだろうか。
藤枝紫朗が視線を上げた。
忍に気づいたようだ。一瞬、険しい視線で忍を睨みあげる。
すぐに笑顔に戻って、周りの生徒たちと朗らかにじゃれあった。
忍は心臓の上で、拳を握った。
ばくばくと、音を立ててなっている。
そう言えば、昨夜も、人なつっこい笑顔のすぐあとに、ぞっとするほど冷たい視線を向けてきた。
なんでこう極端に表情が変わるのだろう。
どっちが彼の本心で、どっちが偽りの表情なのだろう。
軽快な足音が慌ただしく近づいてきた。
藤枝紫朗が現れる。
階段を一気にのぼりあげたらしい。すこし髪が乱れていたが、端正な紫朗の顔立ちを損ないはしていない。
クレマティスの制服がよく似合っている。
まるでどこかの貴族の少年のようだ。
「アンタ、あの人にいったいなにをチクったんだ」
憎悪燃える目で、藤枝紫朗は忍を真正面から睨みつけた。




