3.
翌朝は気持ち良いほどの秋晴れの、青空が高く澄んだ日だった。
カーテンで仕切られた向こうで、藤枝紫朗はかなり早い時間に部屋を出ていき、忍はほっとしながら身支度を終えて校舎に向かった。
チャイムが鳴って、稲穂ひさし先生が「おはよう」とにこやかに教室に入ってきた。
新卒で昨年に忍たちの担任になったまだ若い先生だけど、すでにこの一年半で髪は白髪が交じり、すべてを達観したように落ちつきはらい、ベテランのように見える先生だ。
日直が起立、礼、と号令をかける。
先生は出席簿をひらいて、はたと動きを止めた。
「麻井くんは?」
出席番号一番の、麻井芙弥也がいない。
窓側。
いちばん前の席がぽっかりと空いている。
教室中にイヤな沈黙が落ちる。
いたらいたで大変な生徒だが、いなければ、やはり担任としても、クラスメイトとしても心配ではある。
「今日は起きていたよね」
「うん、今日は起きてた」
「文化祭がどうとか言って、やたら張り切っていたけど」
がやがやとクラスメイト達が騒ぐ中、バンと勢いよく引き戸がひらいて、麻井芙弥也が教室に飛び込んできた。
「大変っ」
と小さな体を弾ませ、ほおを赤く染めて興奮している。
「大変だって、大変なんだ、大変」
両手を広げて、大きな声で騒いでいる。
「麻井くん、もうホームルーム始まっているから席について」
にこやかな声と顔で、稲穂先生が言った。
ここで、うっかりと「なにが大変なの」と聞いたらそれこそ大変なことなる。
麻井芙弥也のペースに巻き込まれてはいけない。
入学式以来、このクラスでは麻井芙弥也対策がつねに課題だった。
麻井芙弥也はつぶらな鳶色の瞳をぱちくりした。
「そこに張り紙してあるでしょう」
淡々と先生が言う。
麻井芙弥也の席の前の壁には、「授業中は私語禁止」「授業中は勝手に歩かない」「発言は挙手して指されてから」「授業中はその授業の勉強と関係ない話はしない」「授業中にお菓子を食べない」「授業中にクラスメイトにお菓子をあげない」などの張り紙がべたべたと貼られている。
麻井芙弥也は張り紙を真剣に読んで、こっくりとうなずき、席についた。
とても素直なコだ。
だから、なんだかんだ言っても、どれだけ迷惑をかけられても、先生もクラスメイトも麻井芙弥也のことを嫌いになることはできなかった。
「ええと、じゃあ、みんないるね。
それで、文化祭の出し物をこのクラスは決めていないのだけれど、そろそろ計画書を委員会に出さないといけないから。
なにかやりたいこととかある人いる?」
「はいっ」
いきおいよく麻井芙弥也が手を挙げた。
先生は困った顔で、他に誰か挙手しないか、してくれないか、目を泳がせて訴えている。
「はい、はい、はい」
麻井芙弥也は小さな体で、めいっぱい腕をのばして主張する。
ものすごーく気まじめな顔。
ここまでされると、なんだか気の毒になって誰も麻井芙弥也に対抗して挙手できない。
稲穂先生が根負けした。
「じゃあ、麻井くん」
「大変なんだっ」
麻井芙弥也はまってましたとばかり、がたんと立ちあがって言った。
「転校生なんだ、1年下、すっごくカッコよくて、天川とおなじ部屋なんだって」
クラスにどよめきが起きた。
「本当?」
忍の前の席の浅葉檸檬が振り返った。
忍は答えられず、両手で顔を覆った。
今日中にも、理事長と話をして藤枝紫朗には出て行ってもらおうと思っていた。
なるべく人に知られる前に、穏便に済ませたかったのに。
「ひどいんだ、親友のぼくに何も教えてくれないんだもの」
麻井が声を張り上げた。
親友……。
親友だったんだ。
昨年から同じクラスではあったけど、はじめて知った。
「麻井くん、ええとね、文化祭の話をしたいのだけど」
稲穂先生が麻井芙弥也の発言を遮った。
サラサラの猫っ毛をゆらして、麻井は首を振った。
「これ、文化祭の話。
だいじな話」
麻井はぐるりと教室を見まわした。
「ぼくね、親友の天川のために一生懸命考えたんだ。
天川ってすっごくいいヤツなのに、いつもひとりでパソコンなんかいじって、すごく可哀想。
だからね、文化祭には天川がみんなと仲良くなれるようなのがいいって、考えていたの。
なのに天川は転校生のこと、親友のぼくになにも教えてくれないから、ぼくすごく傷ついたんだ。
でも、ぼく決めた。
やっぱり天川は親友だし、天川のためにやってあげたいって」
忍の背筋に冷や汗が流れた。
すごく嫌な予感がする。
たぶん、途方もなく、ひどいことが起きる気がするけど、麻井芙弥也の暴走が始まると、先生ですら止められない。
麻井芙弥也は両手をひろげて、高らかに宣言した。
「メイド喫茶やろう!」
は? とギョッとしたのは、浅葉檸檬と天川忍だけ。
ほかの生徒は、へー、いいんじゃない、面白そう、麻井くんにしてはまともだね、と言っている。
先生ですら、うん、いいんじゃない、このクラスにはぴったりだね、と笑顔で頷いている。
忍は浅葉とおもわず顔を見合わせた。
早く、止めないと。
取り返しのつかないことになりそうだ。
天川忍はおずおずと手を挙げた。
クラス中の視線が忍に集まる。
すごく緊張して、のどがカラカラになる。
コンと咳をして、小さな声で忍は言った。
「そのう、麻井くん、なんでそれがぼくと関係あるの」
「天川がメイドやるに決まってるじゃない。
絶対、似合うもん。
だいじょうぶ、親友のぼくも一緒にやってあげる。
おかえりなさい、ご主人さまぁ、もえもえビーム、っとか。
おそろいのメイド服着ようね。
超ミニスカートでフリルたっぷりの」
「え……」
忍は頭が真っ白になった。
へなへなと体の力が抜ける。
そのまま採決がとられると、浅葉と忍以外の全員が賛成で、メイド喫茶をやることに決定した。
忍はくらりとめまいを起こし、立ち上がれなくなり、そのまま医務室につれていかれた。
医務室のベッドはひんやりと清潔だった。
窓からは澄んだ秋の空気が流れ込んでいる。
昨夜はカーテンで仕切られているとはいえ、藤枝紫朗とおなじ部屋でひとばんじゅう気を張り詰めていた。
ベッドも使えなかったから、ずっと机に向かったまま、寝ずにPCをいじってしまった。
ベッドに横たわった瞬間、忍は気絶するように、爆睡してしまった。
――忍くん、貧血で倒れたんですって?
睡眠不足? また、一晩じゅうパソコンをいじっていたのかしら。
柔らかい声が、しきりのカーテン越しに聴こえ、忍は目を覚ました。
カーテンにシルエットがふたり分、浮んでいる。
(理事長だ)
ふっと心が温かくなる。
――そうだ、理事長にいろいろ話をしないと。
忍がベッドに体をおこすと、
「あ、気づいたようですね。
忍くん、いいですか」
カーテンがざあっと開いた。
漆黒のスーツに、長い黒髪、優しい微笑を浮かべた聖クレマティス学園の理事長、架奏恭一郎が立っていた。




