28.
「藤枝くん……?」
忍は目をこすった。
藤枝紫朗がここにいるわけがない。
もう始業式が始まっている。
それに紫朗はもうこの寮にはこないはず。
「よかった、間に合って」
藤枝紫朗は白い歯を見せて笑うと、つかつかと室内に入って来て、忍の前で片膝をついた。
「間に合う、って?」
紫朗は答えずに、掬いあげるようにして忍を見上げた。
顔つきが変わっている。
尖った子どもっぽさが消えて、逞しさとゆとりが出てきている。
肩幅も広くなっていた。
男らしくなった。
でも、まだ少年らしいはりつめた肌と、生命力みなぎる眼をしていた。
「クラスメイトを殴ったんだって?
すごい騒ぎになっている」
「え、そうなの」
「そりゃあクレマティスのアイドルだもん」
紫朗は忍の右手をとると、指を一本一本、丁寧になぞって確認した。
紫朗の指先が皮膚を撫でていく。
体の芯が震える。
なにかを言いたいのに、声が出せない。
藤枝紫朗にこれ以上、甘えてはいけないのに、その手が振りほどけない。
紫朗はコントラストのはっきりした眼で忍を見上げて視線を絡め取ったまま、忍の手にくちびるをつけた。
「この華奢な指が折れてないか、気になって」
「そんなことあるわけないじゃない。
そんなにか弱くないよ」
「知っている」
紫朗は笑うと、立ちあがってぐるりと部屋を見わたした。
夏休み中、せっせと仕事に集中できたおかげというか成果で、室内は学期中以上に洗濯モノが散乱していた。
「うーん、想像以上?
引っ越し大変そう。
どっから手をつけるかな」
「引っ越し?」
「来るんでしょう、f寮に」
忍はぽかんと口を開いて、紫朗を見上げた。
開いた窓から、爽やかな秋の風が流れ込んでいる。
窓の外はすがすがしい秋晴れ。
浅葉檸檬のことも、クラスのことも、なにもかもが吹っ飛ぶ。
「そりゃあ、ぼくは行きたいよ。
散々そう言ったじゃない。
でも、藤枝くんが邪魔するんじゃない」
「当たり前だろ、アンタを狒狒ジジイどもの好きになんかさせられるかっての」
忍は手を口にあて、首をかしげた。
頭の中をクエスチョンマークが飛び交っている。
「オレ、頑張ったんだから」
紫朗は忍にぴたりと体をつけて、ベッドに並んで座った。
「褒めて」
とひたいを忍の肩につけて甘える。
「う、うん。エライ、エライ」
良くわからないまま、とりあえず紫朗の頭を、いい子いい子と撫でる。
紫朗は心底嬉しそうに、目を細めてほおを紅潮させた。
コントラストのはっきりした、いつも強い意志の力をはっきり放つ瞳が、しっとり潤んで忍を見つめた。
「一緒にいられる方法、いくつも考えた。
アンタが綺麗なままで居られて、オレはオレで居られる方法を探した。
だから、オレたち売り手側の価値を、馬鹿みたいに吊り上げることにしたんだ」
「価値を吊り上げる、の?
それで一緒にいられるの?」
「そ。
主導権はこっちにある。
客はものすごく限定してメンバー制。客からの指名はあっても、判断するのは売り手側。
断ることもできる。
こちら側の情報は基本的に、一切公開しない。
他にも色々と」
「そんなんでやっていけるの」
「やっていけるようにしたんだって。
ちゃんと表の世界で、いち中学生としてすごい話題になるように、人気が出るように仕向けて。
だから人をひき連れて校外を出回ったり、目立つようにして、オレの名と顔をとにかく売りまくった。
べらぼうな条件ですら、それでもオレが欲しいって、客が殺到するようにつくったんだ。
だからアンタがf寮に来ても、アンタの顔は客に知られないし、アンタが了解しない限り客はとらなくていい。
これで、一緒に暮らせる」
忍は茫然とした。
嬉しいという感情をすっ飛ばして、ただ、もう、信じられない。
そんな都合のいい、夢みたいな話はあるのだろうか。
もしかしたら、これは夢じゃないのだろうか。
「唯一心配だったのは、アンタの気が変わったり他に好きな人ができたらどうしよう、ってこと。
毎日不安で焦っていたんだ」
「そんなこと、絶対ない。ありえない」
紫朗は口角をひいた。
両手で忍の頭の上から肩、背中、腕、指先、忍の存在そのものを確かめるかのように、丁寧になぞっていく。
くすぐったいような、もどかしいような、なんともいえない気分になる。
「なにしているの」
「触りだめ」
「ってなに」
「f寮は寮生の自由恋愛禁止だから。
こんな風に自由に触れられなくなる。
だから今のうちに、触っておこうと思って」
自由恋愛禁止。
自由に触れられない。
その言葉が、鋭い棘となって心を刺した。
「葵がさ、口やかましくて、色々ルールを作ってんだよ。
まあ色々もめたけど、全体的なことを考えるとこれは葵の言い分に理があるし、仕方なかった。
それじゃあ、嫌?」
忍は首を振った。
「じゃあ、ぼくも」
瑞々しくはりつめた紫朗のほおに触れる。
硬い黒髪に指を絡める。
もう、こうして触れることはできなくなる。
近くにいて、おなじ寮で一緒に生活して、目の前にいるのに触れられなくなる。
もしかしたら。
記憶と思い出だけの今よりも、辛くなるかもしれない。
それでも、紫朗が選択した。
忍とともに居られる為に頑張ってくれた。
だったら、その道に進むことを躊躇いたくはない。
「いい男になったね」
たくましくなった鎖骨をなぞりながら言った。
藤枝紫朗が吃驚した顔をする。
つーっと、鼻血が流れた。
「え?」
うわああっと、紫朗は慌てて鼻血を拭い、耳まで真っ赤になって頭を抱えた。
「い、言わないで。
誰にも、ぜったいに。とくに葵には」
「言わないけど、横になる?」
紫朗はちょっと拗ねた顔をしたが、おとなしく忍の太ももに頭をのせて、横たわった。
両腕で顔を覆って、はああっと重い息を吐く。
「強くなりたいのに。
カッコよく決めたかったのに。
みっともない……」
忍は紫朗の髪を撫でた。
「カッコいいよ、世の中で一番。
それに凄いや。
無理難題片付けて、ちゃんとぼくを迎えに来てくれるんだもん。
藤枝くんはやっぱりすごいよ」
「ストップ」
コントラストのはっきりした眼が、忍を見上げる。
「それ以上言われると、また、鼻血が出そう」
忍は声をたてて笑った。
こんな風に笑えるのはずいぶんと久しぶりだ。
「笑うなよ、傷つくなあ」
紫朗がちょっと子どもっぽい、むくれた顔をした。
「ゴメン、ゴメン。
つい嬉しくて。はしゃぎすぎ?」
紫朗はにっこりと笑って、体を起こした。
「行こっか」
「ウン」
差し出された、逞しい手を握る。
もう、こうして触れることはできなくても。
それでも一緒に居たい。
忍の「好き」と紫朗の「好き」は微妙に食い違っている。
いつか、忍は紫朗の前から姿を消さなくてはいけない。
一緒にいればいるだけ、辛くなるかもしれない。
それでも紫朗の用意してくれた道を進みたい。
別れの時が来るまで。
たとえ、触れることができなくても。
残り1話です。
次作は12月1日21時より掲載いたします。




