29.
「遅い」
苛々と爪を噛みながら、葵信吾がロビーで右へ左へ行ったり来たりしている。
忍はソファーに座ってクッションを抱えたまま、目を動かして右へ左へとみた。
「葵、座りなよ。
香紀だって理事長なんだからさ、しょうがないだろ」
忍の横で、ソファーにもたれてうとうとしているBJが言った。
睡魔に勝てず、なんどもこっくりと落ちかけている。
「なにがしょうがないんだ。
アイツはまだ子どもなんだ、もう寝る時間だぞ。
職員連中、香紀をこき使いやがって」
「そんなこと、ないと思うけど」
BJはふわあああと大きなあくびをした。
目をこすりながら立ちあがった。
「もう限界。先に寝る。
お休み」
「ああ」
忍は思わず時計をみた。
まだ九時である。
忍からしてみれば、ようやく一日が始まる時間だ。
「あー、BJは朝型だから。
じいさんみたいだけど、気にしないで」
「うん」
自動ドアの開く音がした。
「香紀」
葵信吾は長い黒髪を揺らして振り返る。
入ってきたのは藤枝紫朗だった。
にっこりと笑うと、つかつかと葵を無視して横を通り過ぎ、忍のまえで上体をかがめる。
「ただいま」
「おかえり」
「ご飯は」
「まだ。
藤枝くんを待ってた」
だと思った、と紫朗ははしゃいだ声で言った。
「じゃ、食事にしよう」
「うん」
ふたりでいちゃいちゃと食堂へ行こうとすると、
「ちょっと待て」
こめかみを痙攣させながら、葵信吾が紫朗を睨みつけた。
紫朗はあからさまにむっとしてあごを突き出し、葵を睨み返す。
空中で火花が散る。
「言っとくけど、なーんにもルールに違反することしてないぜ。
オレ、清廉潔白」
紫朗の先制攻撃。
「帰ってくるの早すぎだろーが。
お前、手を抜いたな」
ふふん、と紫朗は鼻で笑った。
「手を抜く? このオレが?
誰に向かって言ってんだ。
ちゃーんと満足させてきたって。
そういう葵こそ、なんでこの時間にいるんだ、おかしいじゃないか」
「香紀が色々テンパっているから。
側にいてやろうと思ったんだよ」
「ドタキャンしたっての?
それってアリ?」
「香紀は大事なスポンサーだろ」
ちょ、ちょっと藤枝くん、と忍は紫朗の袖をつかんだが、藤枝紫朗はふり払った。
ぺろりとくちびるを舐めて、嗤う。
「オレだったら、ドタキャンなんかせずに、ちゃんとこの時間に帰ってくるけど?」
きいっと、葵信吾は両肩を吊り上げた。
「要は葵が二流ってことじゃん」
うわあと忍が体をすくめたとき、ドアが開く音がした。
「香紀」
葵信吾が振り返ると、こんどは架奏香紀が立っていた。
ボロボロの姿である。
埃だらけ、煤だらけ、クモの巣までついている。
ガシャンガシャンと耳障りな松葉づえの音を立てて、中に入ってきた。
げっそりと疲れ切っている。
「香紀、大丈夫?」
葵が手を貸してソファーに座らせた。
汚れた銀の髪をすとんと垂らして、香紀はうつむいた。
「ずっと探してたけど、みつからなくて」
「探してたって、浅葉檸檬を?」
香紀はこっくりうなずいた。
「倉庫とか車庫とか、屋根裏部屋とか全部見てきた。
けど、いない」
「浅葉くん、そんなところにいるかなあ」
思わず言ってしまった。
子どものかくれんぼじゃあるまいし、あの浅葉檸檬がそんなところに隠れているはずがない。
そもそも、一生けん命らしいのは分かったが、自ら探して回るなんて理事長がすることではない。
あまりにも的外れだ。
苛々する。
香紀は忍に気づいてびくりと飛び上がると、
「な、な、な、なんで、コイツ、ここにいるの」
と金切り声をあげた。
「なぜって、今日からf寮に入ることになったから」
「香紀、知らない。聞いてない」
「でも、紫朗が決めちゃったし」
藤枝紫朗はコントラストのはっきりした眼で空を睨み、その眼を忍に流した。
「嫌われる心当たりは」
「うーん、あるかも」
忍が香紀とのやり取りをひそひそと話すと、
「あー、それ、しゃーねーな。
香紀、ファザコンだし」
紫朗は面倒くさそうに髪を掻いた。
「香紀、ファザコンじゃない。
ファザコンじゃないの」
キンキン声で、香紀がわめいた。
慣れているようで、葵も紫朗も顔をしかめて、耳を塞いでいる。
こんなので大丈夫なのだろうか。
浅葉檸檬を見つけることができるのだろうか。
前の理事長だったらもっと素早く、生徒のために動いていた、とどうしても思ってしまう。
エメラルドグリーンの瞳が、きっと忍を睨みあげた。
「香紀だってできるんだから。
香紀だってちゃんと、麻井をとり返すことできたのに」
「そうだったのかもしれない。
でも、これはゲームじゃないんだ。
できるかもしれない、父親に負けたくない、なんてことで任せたくはないよ。
大事な友だちなんだ」
「大事な、友だち……?」
香紀は深緑の瞳をぱちくりさせた。
「警察には言ったの。
浅葉くんの家族はなんて?」
「え、ええ、と。
家には稲穂先生が電話しててつながらないって。
警察に連絡する前に家族に断った方がイイって、弁護士が」
「遅くない?
いま、この瞬間、浅葉くんは助けを必要としているかもしれないのに。
心細い思いしているかもしれないのに。
理事長だって言うなら、自分で探しまわるより先にすること、たくさんあるじゃない。
お願い、理事長――前の理事長に浅葉くんのこと伝えて」
香紀はぎゅっとくちびるを噛みしめた。
口惜しそうに、ぼろぼろと涙をこぼす。
「分かった……」
ガシャンと耳障りな音で香紀は立ちあがった。
あわてて葵が手を貸して、エレベータに乗って部屋に戻って行く。
ふうっと、紫朗は息を吐いて、じゅうたんに両膝をついた。
ひたいをぎゅっと拭う。
「冷や冷やさせないでよ。
さすがに香紀を怒らせたら、もう、どうにもできないんだから」
「ゴメン」
「まあ、それが忍のいいところだけど」
ファーストネームを呼ばれて、どきんと鼓動が止まる。
に、と紫朗が笑った。
「f寮は年功序列なしだから。
オレが決めたんだけど、葵もそーゆーとこはしこらないんだよね。
なんだかんだいって、葵はすごいよ」
「そう思っているんだ。
さっきは藤枝くんがすごい突っかかるから、ぼくだって冷や冷やしちゃった」
「紫朗」
「え」
「言ったでしょ、年功序列なしって。
葵も香紀も、紫朗って呼んでる。
言って」
「し、紫朗……?」
口にしてみて、すごく気恥ずかしくなって、顔を上げられない。
「うん」
にっこりと紫朗は返事をして立ちあがった。
「忍、食事にしよう。
つくってあげる」
「作るの? 紫朗が」
「作るというかあっためるだけ。
シェフが色々用意してってくれるんだ。
教えるからこっち来て」
忍は紫朗の背を追って、食堂へ入る。
浅葉檸檬はいまごろ、ちゃんと食べていられるのだろうか、と、ふと思う。
元気で居てほしい、と思いたいのに、なぜか昏い予感が胸にわだかまっている。
「忍?」
紫朗が振り返って、怪訝な顔をする。
「なんでもない」
忍は笑顔を作った。
ずいぶんと忍はきつく言ってしまったけど、新理事長は生徒思いだし、一生懸命なようだった。
すごく傷ついていたようだけど、あの様子なら生徒の為に私情を捨てて父親に連絡してくれそうだ。
だったらたぶん大丈夫。
前の理事長だったら、なんでも解決してくれる。
忍はそう自分に言い聞かせ、紫朗がはしゃぎながら食事の準備をするのを手伝った。
紫朗の端麗な横顔を見ながら、忍と紫朗をひきあわせてくれた理事長に、今さらながら感謝をする。
そう、あの理事長だもの。
絶対に。
浅葉檸檬も取り戻してくれるはず。
忍は昏い予感をふり払って、紫朗と一緒にテーブルにつき、短い祈りをささげた。
この世のありとあらゆるものへ感謝する。
紫朗の人生の幸せを願う。
たぶん、ぼくは幸せなのだから。
この先何があろうと、ひとりで生きていける。




