23.
理事長室の応接セットに、架奏恭一郎と向かい合って座った。
藤枝紫朗がクレマティスにやってきた昨年の秋、ここでふたりで昼食をとったことを懐かしく思い出す。
理事長室はこじんまりとした部屋で、年代物のしっかりとした、机やクローゼット、本棚、応接セットがほどよい空間を保って、配置されている。
左右の窓からは、学校内の全景と正門から寮までのなだらかな上り坂がみえる。
架奏恭一郎は優しい微笑で、いつも、このふたつの窓から生徒たちを見守っていた。
飴いろの、落ち着いた室内は架奏恭一郎によく似合う。
あの銀髪の少年も、ここでおちつくようになるのだろうか。よくわからない。
もうこうして理事長とふたりで会話することも、できなくなる。
そう思うと、とてつもなく寂しくなる。
「理事長が交代されるなんて、びっくりしました。
すごく寂しいです」
架奏恭一郎は微笑した。
「忍くんにそう言ってもらえると嬉しいです。
でも、私より香紀が理事長になる方が生徒の為になると思っています。
香紀はこれからずっと学校にいますし、やはり学校に居られる時間が短い私より、生徒のこともよく見れるでしょう」
「そうでしょうか」
思わず忍は言ってしまった。
さすがの恭一郎も複雑な顔で、黙りこむ。
このひとは新しい理事長の父親でもあった。
「ご、ごめんなさい。
そのう、新しい理事長がどうというのではなくて、みんな理事長のことが好きなんです。
理事長が学校にいないと寂しいし、不安で」
「そう言ってもらえるのは嬉しいですけど。
まあ、香紀もまだまだ子どもですから、いろいろ勉強しなくてはいけませんし。
忍くんも宜しくお願いしますね」
気まずい沈黙がおちた。
忍はジャケットの上から、腕をこすった。
口がすべって、余計なことを言ってしまった。
最近、なにもかも、うまく回っていない。
自分がものすごくダメな、世の中で価値のない人間のような気がしてくる。
「それで、麻井くんのことですけど。転校したって本当なのでしょうか」
ようよう忍が切り出すと、架奏恭一郎はうなずいた。
忍はあの日、図書室で起きたことをいっきに話した。
薄々予想はしていたのだろう、理事長はとくに驚いた風はなく、じっと忍の話を聞いている。
「麻井くん……、麻井くん、なにも悪くないんです。
ぼく、ずっと本当のこと知っていたのに、麻井くんに口止めされて黙っていました。
浅葉くんにも忠告されていたのに、ふかく考えていませんでした。
こんなことになったの、すべてぼくのせいです」
「忍くんのせいではありませんよ」
「でも……。
麻井くんはいま、どこで何をしているのでしょうか。元気なのですか」
架奏恭一郎は両手をひじ掛けに置き、漆黒の瞳でじっと忍をみつめた。
闇の色の瞳。
どんな過ちも過去も覆い隠し包みこんでくれる、優しい瞳。
やはりこの人がいたから、忍はこのクレマティス学園に来たのだし、そうして忍の家族は救われた。
この理事長の代わりは、他の誰でもできない、と思う。
「元気ではありません」
恭一郎の言葉に、忍は思わず息を呑んだ。
「正直なところ、わたしもどうしていいのか分からず迷っています。
前に、わたしはある少年を守ろうとして、手を出すたびにその子の人生を狂わせてしまいました。
最後にわたしが最も信頼している人にもう手を出すなと怒られ、その子も自分で自分の身を守れると自立をしていきました。
芙弥也くんのこともどうすればいいのか、わたしには分からないのです」
忍は思わず恭一郎の顔をみつめた。
「ぼく……。
ぼくは、理事長は何でも知っていて、なにも迷わずに、いつでも生徒たちの為になる、正しいやり方を知っているのだと思っているのですけど」
恭一郎は寂しげに笑った。
「本当にそんな万能な、神様のような存在だとしたらどんなにいいか。
わたしにはなにも分かりません。
正しい答えも分からないし、ただ見守るしかできないのですよ。
失望しました?」
忍は首を振った。
「だって、理事長はぼくを救ってくれたじゃないですか」
「それが本当に正しかったのでしょうか。
結果として、忍くんは家族と離れてしまったではないですか。
どんな状況であっても、家族と共に居た方が良かったのかもしれない。
わたしはいつも迷ってばかりですよ」
「ぼくは救われました。
それに、見守ってくれているだけで、いいんです。みんな理事長のことが好きなんです」
架奏恭一郎は驚いたように身を反らして、息を呑んだ。
いきなり、くっくと笑いだす。
「忍くんにはかないません。
ほんとうに忍くんはいい子ですね。
だからみんな忍くんのことが好きなのですよ」
「ぼく……、ぼく、どうなのでしょう。
麻井くんのこともなにもできなかったし。
時々、ぼくなんか生まれていなければ良かったんじゃないかと思います」
「忍くん?」
架奏恭一郎は哀しげに瞳を閉じた。
広げた手で顔を覆い、じっと考え込んでいる。
忍は汗ばんだ両手をこすり合わせ、固く握りしめた。
一秒一秒が長い。
「わたしは……、やはり、わたしは芙弥也くんの人生に直接、関わることはできません。
ただひとつ、理事長としての最後の仕事として、芙弥也くんをとり返してきます。
あとは生徒たち、みんながそれぞれ向き合っていくのに任せます。
その先のことは、芙弥也くんを攻撃した生徒たち、忍くん、芙弥也くん自身がどう生きていこうとするかに、任せましょう」
忍は頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼を言わなくてはいけないのは私の方です。
芙弥也くんも名づけ子のひとりですから、ずっと気にはなっていました。
ただ自分ではどうしていいのか決断できずにいました。
このまま香紀に託して行こうとも思っていたのですが。
忍くんのおかげで決心が出来たのですよ」
「理事長、また会えるでしょうか」
架奏恭一郎は微笑んだ。
「忍くんが必要としてくれればいつでも。
贔屓しちゃいけませんけど、でも、忍くんと話すのは本当に私、楽しいんです」
忍は理事長になんどもまた会いたいと約束をさせて、理事長室から出た。
麻井芙弥也がクレマティスに戻ってくる。
理事長が取り返してくれると言ったら、必ずしてくれるはずだ。
忍はずい分と気が楽になった。
芙弥也が戻ってきたら、前よりもずっと仲良くしよう。
あのとりとめのないおしゃべりも、ずっと付き合おう。
また一緒に図書室に行こう、いや、それは芙弥也が嫌がるかもしれない。
そうしたらなにか他のことをふたりでやってもいい。
家のこととか、お互いのこと、もうすこし会話もしよう。
ちゃんと話しあって理解をしよう。
なんだかんだ言っていたけど、やはり忍は麻井芙弥也が好きだった。
迷惑でもあったけれど、あの賑やかさや無邪気さがないとさみしい。
もう少し、芙弥也がみなとうまく折り合っていけるよう、忍も努力をしよう。
将来に向けてこころが広がっていく。
だが。
戻ってきたのは、前の麻井芙弥也とは別人、一言もしゃべらない、世界と壁を作り、繭に閉じこもったような少年だった。




