24.
はじめ、それが麻井芙弥也だとは分からなかった。
忍だけじゃない、他の誰もが認識できなかった。
その少年は空っぽだった麻井芙弥也の席に、いきなり現れて座った。
髪はぼさぼさ。
分厚い眼鏡をかけて、サイズの合っていないダボダボの制服を着て、この世界にまるでただ独りで存在しているかのように教室に入って来て、麻井芙弥也の席に座った。
すぐに本を取り出して読みだす。
周囲がガヤガヤと騒いだり、話しかけても反応しない。
まるきり聴こえていないようだ。
本を読む姿勢。
視線の進め方。
ページをめくる指先。
麻井芙弥也だった。
忍は息を呑んだ。
「麻井くん?」
教室が静まり返った。
その少年は皆が知っている麻井芙弥也ではない。
こんな静かで、無口な少年ではない。
それとも、これは麻井芙弥也流のおふざけのひとつなのだろうか。
「麻井くん? 麻井くんだよね、元気だった?
ずっと心配してたんだ」
忍は芙弥也の机に手をかけ、勢い込んで話しかけた。
麻井芙弥也は反応しなかった。
ただ視線を走らせ、ページをめくる。
その紙の音だけが、静まり返った教室に響く。
聴こえてないのか。
聴いていないのか。
「麻井くん……」
忍の腕を、浅葉檸檬が握った。
ほおっておけと言う風に、あごをしゃくる。
始業の鐘が鳴って、稲穂先生が教室に入ってきた。なにも説明をせずに、出席をとりはじめる。
麻井芙弥也の名を読んだ。
少年は返事をしなかった。
それでも先生はなにも言わずに浅葉、天川、と読み上げていく。
稲穂先生だけではない、その後の、授業でも教師は麻井芙弥也の発言を求めなかった。
芙弥也は授業中もただひたすら、持参してきた本を読んでいた。
そのことを注意する教師もいなかった。
この時点で、麻井芙弥也は完全に世間から心を閉ざしてしまったことを、クラス皆が身をもって知った。
自分自身の無責任な失言と、一方的な糾弾の結果を、皆が突きつけられているようだった。
ただし、このクラスに芙弥也が戻ってきたことだけは間違いなく、名簿や出席番号票、すべて修正がされていた。
それだけでも忍は充分だと思った。
同じクラスに戻してくれた。
やり直せるチャンスを与えてもらえた。
それで充分。
この理事長の信頼に、応えたい。
昼休みに、忍は芙弥也を昼食に誘った。
だが無反応だった。
ただただ本を読み続けている。
「ほっときなよ、ひとりで居たいんだろ」
つっけんどに浅葉檸檬が言った。
檸檬に誘われるまま、ふたりでカフェに入る。
サンドウィッチセットをテイクアウトして、校庭わきの木陰で広げた。
忍はどんな形であれ芙弥也が帰ってきてくれて、ようやく後ろめたさなく檸檬と会話ができた。
「当人は幸せなんだろ、もう天川もあまり構うなよ」
浅葉檸檬はストローを強く噛みながらコーラをすすり、辛辣に言った。
「幸せ? あれが? どうして」
「だって、あの制服。
見ただろう」
「うん、全然合ってない。
どうしちゃったんだろ」
浅葉檸檬は呆れた顔をした。
「だからさ、田儀先輩の制服なんだろう。
自分の為に死んだ好きな人の服を着て、その人の本を読んで、その人の世界だけで生きていけるんだからいいんじゃないの。
もうほっとけよ」
「でも……。
まえの麻井くんとは別人じゃない」
「そう?
まったく変わってない気がするけど。
一方的で、自分勝手。
まわりことなんて何も見てやしない。
まるで赤ん坊。何も変わってないよ」
浅葉檸檬はサンドウィッチのハムが噛み切れないとヒステリーを起こし、食べかけのサンドウィッチを投げやりに紙袋に戻して、ぐしゃぐしゃに丸めた。
「食べないの?
お腹すいちゃうよ」
「天川なんかした?」
校庭では早めに昼食を終えた生徒たちがサッカーボールをけったり、鬼ごっこをしたり、走り回っている。
天気の良い、穏やかな春の午後だった。
忍は口に含んだパンを、いっきに飲み下した。
「なにかって?」
ようよう言う。
「だから。
なんでいきなり麻井が戻ってきたんだよ。
転校したはずだったろ。
それでみんな忘れかけていたのに。
なんでわざわざ麻井なんかを呼びもどすんだよ」
忍は食べるのをやめ、浅葉檸檬に向き直った。
檸檬の真意が分からない。
麻井芙弥也が戻ってきたのが嫌なのだろうか。
もともと檸檬が、芙弥也や忍のことを気にしてくれてたじゃないか。
「たしかに。
ぼく、理事長に全て言ったよ。
麻井くんとの約束も破った。
そのことはいつか、ちゃんと、麻井くんに説明して謝る。
理事長も麻井くんのこと気にしていたから、麻井くんを取り戻してくれた。
あとはぼくたちが、自分と向き合って」
「なんでそんな余計なことしたんだっ」
忍を遮って、檸檬はいきなり叫んだ。
「みんな怖がっている。
いまの麻井を見て、忘れたい過去をつきつけられて、不安定になっている。
なんで今さらそんなことしたんだ?」
「ぼくは……。
ぼくはどんな状態であれ、麻井くんが戻ってきてくれてうれしい。
麻井くんにも元に戻ってほしい。
みんなもいつかは分かってくれると思う」
浅葉檸檬は立ちあがった。
苛々とした眼で、忍を見下ろす。
「ああ、よくわかった。
自分だけ綺麗で、優しいアイドルで、皆に好かれるいいコでいれればいいんだろ。
そのために周りが傷ついたってぜんぜん平気なんだ。
いいよね、人気者は。
天川が言えば理事長だって動くんだし」
「浅葉くん、もともと浅葉くんがぼくに忠告してくれたんじゃない。
先生に話をしろって」
「全然意味が違う。
ぼくはできるだけ波風を起こしたくないんだ。
あの時は極力騒ぎを鎮めたかったから、そう言った。
いまはもう、麻井のことはなかったことに、麻井なんていなかったことにしたいんだよ」
忍は視線を落として、地面の雑草をもてあそんだ。
ひだまりにペンペン草が生えていた。
花言葉は「あなたにすべてを捧げます」だった。
こんなか細い草に、そんな熱烈な意味がこめられているのが面白い。
胸ポケットのエンブレムに触れた。
クレマティスの花言葉は「心の美しさ、高潔。そして精神的な愛」
いま、どう考え、どう行動するのがそれにふさわしいのだろう。
忍は立ちあがって制服をはたいた。
真正面から、檸檬の視線を受け止める。
「そんなのおかしいよ。
麻井くんはクラスメイトだよ。麻井くんをいなかったことになんて、できるわけがない。みんな覚えているじゃない。覚えているから、後ろめたいんじゃない。
ぼくたち、ちゃんと向き合うべきなんだ」
「綺麗事だ」
浅葉檸檬はぎゅっとくちびるを噛むと、忌々しげに忍を強く睨んで、くるりと背を向けて去った。
忍は両手を固く組み合わせた。
いつかは檸檬も分かってくれるはず。
麻井芙弥也ももとに戻ってくれるはず。
それまで。
ぜったいに自分は逃げ出さない。




