18.
天川忍は図書室から逃げ出した。
人のいない方、人のいない方へと、人気を避けて逃げていく。
構内にはほとんど人気がなく、だれも忍を見ていないのに、だれかから見られている気がして、なんども後ろを振り返って確認する。
忍自身が犯罪者にでもなったよう。
ぐるぐるとさまざまなことが、脳裏を巡っている。
(麻井くん)
(麻井くんて)
――すごい嘘つき。
目の前で人が死んだ、しかも付き合っていたらしい上級生が自殺したのに、あんなに落ちつきはらっているなんて。
「天川は嘘つけないでしょ」というくらいだから、本人は嘘をつきとおせる自信があるんだ。
忍の性格のことも、ちゃんと把握していたなんて。
いつもはあんなに傍若無人に振る舞っていたくせに。
ぜんぶ分かってやっていたの?
麻井芙弥也の透き通るような笑顔、艶やかな鳶色の瞳が、脳裏につきささっている。
あんなに綺麗だったとも、気づかなかった。
いったい。
いったい、あのコは誰なのだろう。
あの賑やかで、いつも迷惑をかけてばかりの問題児は、誰だったのだろう。
気づくと構内の外れ、人気のまったくないf寮の前に立っていた。
立派な建物だ。
鉄筋の四階建てのマンションのようなつくり。
入口はオートロックで、マンションのようなつくりだ。
外側からは、中がまったく見えないようになっている。
自動ドアが開いて藤枝紫朗が中から出てきた。
忍を見て、ぎゅっと眉根を寄せる。
久しぶりに、紫朗の顔を見た。
胸がぎゅうっと縮こまる。
忘れようとしても、忘れられない感情。
心臓を針で刺されたように、痛い。
「f寮には近づくな、って言ったはずだ」
険しい声で、紫朗が言った。
忍はうなずこうとしたが、震えてうなずけなかった。
コートも着ずに、図書室からここまで、逃げ続けてきた。
全身が凍えている。
ぶるぶると発作のように震えた。
「っか、かく、隠れ、隠れさせて」
紫朗が不思議そうな顔をする。
「なにがあった」
「し、死んで、死んだ、と思う。
図書室の窓から、ぼく、嘘つけないからって、いま、だれにも会えない、頼まれて」
藤枝紫朗は鋭い視線を周囲に巡らせると、いきなり忍の肩を抱いた。
ひさしぶりの紫朗の熱い体に触れ、血液がどくどくと巡り出す。
引きずるようにしてf寮の中に入れる。
オートロックキーを生体認証で開くと、自動ドアが開いた。
目の前には壁があって、すぐには中が見えないようになっている。
中は温かかった。
床に、忍はへたりこんだ。
全身の力が抜ける。
コートもマフラーも鞄もそのまま床にばらまいた。
藤枝紫朗は床に片膝をつき、両手で忍の手をくるむように握った。
強い、コントラストのはっきりした眼で、まっすぐに忍を見る。
「なにがあった」
「と、図書室で」
「うん」
「上級生が、……窓から、そのう、飛び降りた」
藤枝紫朗が訝しげな顔をした時。
「関係者以外は立ち入り禁止。
それとも入寮を決めた?」
揶揄するような声で、葵信吾が現れた。
BJこと番場純も一緒だ。
紫朗が立ちあがった。
きっと葵をねめつける。
「緊急避難だ」
「ふうん」
片手を腰にあて、意味深な眼で葵は睨み返す。
「図書室で上級生が自殺したらしい」
「だれ?」
紫朗が忍に視線を向けた。
たぶんすぐにみなに知られるから、これは言ってもいいだろう。
「名前は知らないけど……有名な人。
高校三年生で、推薦入学で医学部に合格したって最近よく聞くんだけど」
「田儀東弥」
葵は呟くと、「見に行ってくる」と身をひるがえした。
コートを手に戻ってきて、出て行く。
「オレも」
BJがついて行こうとすると、
「BJは残って。
そのふたり、見張っていて」
「見張られるようなことは何もしない」
紫朗が怒鳴ると、葵はひらりと手を振って出て行った。
忍は手の甲で、ひたいを拭った。
すぐに紫朗に甘えそうになる。
いまさら紫朗に頼れる筋合いは、どこにもない。
「ごめん。迷惑かけて。
すぐに出て行くから」
「いや、オレももう出なきゃいけない。
落ちつくまで、ここで休んでいろ。
BJ、頼んでもいい?」
「まかせてぇ~」
BJが能天気な声で言うと、紫朗はマフラーの端を肩にかけなおして去って行った。
知らない先輩と、こんなへんな場所でふたりきりになってしまった。
どうしよう。
妙に気が落ちつかない。
「あのう、中に入りなよ。
って、そこまでしかダメだけど」
BJはにこにこと言って、床に散らかった忍の荷物をまとめた。
中が見えないようになっているついたてを回ると、広いラウンジとなっていた。
暖色系の、居心地の良さそうなソファーや椅子が、数十人分はある。
新聞や雑誌、テレビもある。
「どこでも好きなとこ、座って。
飲み物、ホットミルク、ロイヤルミルクティ、カプチーノ、ココア、なにがいい?
ほかにももっとあるけど」
「あのう、ええと、じゃあミルクティ」
忍はやわらかなソファーに腰を下ろした。
非常に座り心地がいい。
天井も高くて、ものすごい贅沢なつくりになっている。
普通の寮とはまったく設備が違う。
すぐにBJがクリームのたっぷり乗ったミルクティを持って戻ってきた。
ブランディの香りがする。
胃に、温かい液体が染みていく。
「この寮、何人いるんですか」
「いまはまだ、三人。本当は」
といいかけて、BJは余計なこと言えないンだ、と肩をすくめた。
忍の向かいに座って、にこにこと忍を眺めている。
余計なことはなにも聞いてこない。
悪い人じゃないんだろうな、と思う。
そうじゃなければ、紫朗が忍とふたりきりにしないはずだ。
そう、紫朗はこの人のことを、信頼しているはずだ。
そう気づくと、とたんに気が楽になった。
この暖色系の空間は、はじめての場所とは思えないほど、居心地がよかった。
「すごい立派なんですね、びっくりしました」
「でしょ。
葵も紫朗も、根がお坊ちゃまだから贅沢なのかなあ、でも、それでいてケチだから、もー大変。
しかもびみょーにふたりとも数字に弱いし。
でもプライド高いからそれ認めなくて、計算とか合わないんで、毎晩怒鳴りあいの大喧嘩」
うわあ、と忍は身をすくめた。
あのふたりが本気で怒鳴りあっている場所なんて、居たくはない。
「大変ですね」
「ウン、面白いよ」
「面白い?」
聞き間違いかと思って尋ね返した。
BJは足を深く組んでソファーにもたれると、
「ふたりとも顔つきが変わっていくから。
そうだね、とくに紫朗は、クレマティスに来た当初はすごいピリピリしていたというか、警戒していたじゃない。
いまは日に日に男っぽくなっていくと言うか、顔つきに責任感が出てきたというか。
いい男になるよね。
なんかその過程を見ているんだな、と思うと、楽しいし嬉しいなあ。
わくわくする。
葵もどんどん綺麗になっていくしね、ウン」
「へえ」
言われてみれば、藤枝紫朗の顔つきが変わっているかもしれない。
たしかに出会った時には、もっと作ったような笑顔や、鋭い顔をしていた。
いまはどこかしら、頼りになるような、男っぽさが出てきている。
BJは目を細めた。
「守るものが出来たからかな。
いいよね、キミたちの関係」
BJの声は柔らかくて、落ち着いている。
でも、内容がすっとぶので、いまひとつ話についていけない。
どういう意味、と聞いた方がいいのか、流した方がいいのか、迷っていると、葵信也が帰ってきた。
よほど寒かったのか、ぶるりと身震いして手で腕をこすっている。
「すごい騒ぎ、って、あれ、こっちまで入れちゃったの。
紫朗は?」
「もうとっくに出ていったよ」
葵がソファーに座ると、BJがすぐにアールグレーを淹れてきた。
やはりこのふたり、すごく仲がよさそうだし、呼吸もぴたりと合っている。
「サンキュ。
いちおう、警察とかレスキュー隊とか呼んだみたいだけど、ほら、図書室の裏手って崖じゃない。
もう日が落ちるし、たぶん、今日中の捜索は無理だし、おそらくあの高さなら即死だろうって。
麻井芙弥也がなんかやったんだって?」
「え?」
忍はびっくりとして葵の顔を見た。
ふざけたり、冗談を言っている様子ではない。
「何人か閲覧室に生徒がいたらしくて、直前に麻井と田儀東弥が話していたのを見ている。
口論になって、田儀が飛び降りたとか、麻井が突き落としたとか」
「麻井くんはそんなことしないよ、してない」
葵は手のひらを忍に向けた。
「そんなの、見りゃわかる。
麻井のあの体格や性格で出来るわけがない。
でも、田儀ってちょいクセがある優等生で、そこそこファンとかいたんだよな。
そのあたりやっかまれたかな?」
葵はあごに手をやりながら、考え込んだ。
「ねえ、麻井芙弥也ってエヴァ・リンの息子?」
いきなりBJが言った。




