17.
三学期になると、学園内は静かになった。
山奥だけあって、地面には昼も霜がおりたまま。
体の芯まできいんと染み透る冷気に、外を歩く生徒はぐんと減る。
昼休みに校庭で遊ぶ生徒も数えるほど。
放課後、屋外で活動していた体育会系のクラブは室内に活動を切り替えたり、休みに入ったりした。
高校三年生は大学受験が始まり、学校をはなれて東京などでウイークリーマンションやホテル暮らしをしている。
「天川ぁ、図書棟行こ」
終業後。
もこもこにコートを着込んで、ベレー帽をちょこんと頭にのせた麻井芙弥也が、にこにこしながら誘いに来た。
「うん」
と立ちあがって、忍もコートをきっちりと着て、マフラーを巻いた。
クレマティス学園の図書室はかなり変わっている。
理事長の趣味で、古い洋館を移転してきた赤煉瓦の建物丸ごとが、図書室となっていた。
理事長のコレクションである、革表紙の貴重な洋書も鍵もかけずに並んでいて、生徒が自由に読めるようになっている。
洋館丸ごと図書室なので、麻井芙弥也は図書室ではなく、図書棟なのだと言い張るが、ふつうの生徒は図書室と呼ぶし、他の校舎から離れた上、山道の上に建つので、もったいないほど利用者は少ない。
藤枝紫朗がf寮に移動してから、忍は時間を持て余していた。
もともと友人らしき友人はいなかったし、クラブ活動もしていない。
今さら、クラブに入る気にもなれず、本でも読もうかと図書室へ行ってみた。
そこで麻井芙弥也とばったり遭遇した。
入学以来、図書室に日参していると言う。
麻井芙弥也を図書室に置いておいて大丈夫なのか、他の人に迷惑をかけていないのか、かなりびっくりして、司書の先生にも確認したが、大人しくて礼儀正しい、本の扱いも丁寧でものすごくいい生徒だと言われた。
実際、読書している麻井芙弥也の姿は、教室とは別人だった。
背筋をまっすぐにのばし、両手で本を持って、いちページ、いちページ、きちんと読み進めていく。
読んでいる本も、西欧の著名な古典小説が多い。
それらをきらきらと頬を輝かせて、真剣に読んでいる。
忍が図書室通いをはじめたと知ると、嬉しそうに放課後一緒に行こうと声をかけてくるが、図書室内でとりとめもなく話し続けることはしない。
洋館の扉を開くと、もわっとするあったかい空気にじんわりと包まれる。
「あったかーい」
「あったかいね」
防寒着を脱ぎながら、カウンター内に居る司書の先生に挨拶をして、二階の閲覧室に上がる。
数名の生徒が、点在して本を読んだり、勉強をしたりしている。
忍は今日は勉強をするつもりだったので、数学の問題集を広げた。
図書室で勉強をするのは邪道だと芙弥也は言うが、そもそも入学以来、忍たちのクラスの勉強が異常に遅れているのは、芙弥也のせいである。
これじゃあダメだとほとんどの生徒が危機感を抱き、自主的に勉強をしたり、頭の良い浅葉檸檬が放課後や夜、勉強を教えたりして、なんとか他のクラスに追いついていけているのだ。
横にならんで座った麻井芙弥也は、ちょっと不満そうに、くちびるを突き出して下目で忍の問題集をみた。
ダルタニャン物語をいつもの姿勢で広げるが、すぐに閉じて、背をまるめてあごを机に乗せ、忍の問題集をじいっと見ている。
「ぼくも勉強しようかな」
とぼそりといった。
シャープペンシルの芯をカチカチと出していた忍は、思わず手を止めた。
「どうしたの、いきなり」
「大学受験の時、困るじゃない」
「大学……」
麻井芙弥也らしからぬ単語だ。
どうしたんだろう、いきなり。
またどこかで、誰かから、なにかを聞かされて、なにか激しい思い込みをしているのだろうか。
どうして、と聞こうとした時、不意に麻井芙弥也がくびを捻じ曲げて振り返った。
そこに高校三年生の生徒が立っていた。
長身の、眼鏡をかけた、すこし神経質そうで、いかにも頭の良さそうな生徒だ。
「先輩、合格おめでとうございます」
快活に麻井芙弥也が言った。
「凄いですね、第一志望校、推薦で決まりって」
あ、と思った。
クレマティス学園にしてはずば抜けた秀才がいて、医者の息子で、有名な医学部に推薦で合格したと、たしかに噂になっていた。
へえ、この先輩なんだ、と思って眺めていると。
「大学には行かない。やめたんだ、やめることにした」
上級生は早口に言った。
奇妙に、焦った、苛ついた目で芙弥也を見下ろしている。
「なに言っているの、先輩。
だって実家の病院の後継ぎなんでしょう。ストレート合格で将来も決まっていて」
「やめる、やめてお前と一緒に居る。
どこにも行かない」
麻井芙弥也は困ったような、迷惑そうな顔をした。
「でも、だって。
そんなわけにいかないじゃない」
「お前が言ったじゃないか。
ずっと一緒に居たいって」
芙弥也はきゅっとくちびるを噛んで、視線を落とした。
鈍い忍にも、このふたりがつきあっているのだ、ということが分かった。
「もう、いい」
上級生は身をひるがえした。
まったく、ゆるぎない足取りで、まっすぐに窓に向かい、窓枠に昇る。
窓を全開にすると、冬場の冷気がどっと流れ込んできた。
閲覧室内に居た生徒が、悲鳴を上げて、顔を上げる。
最期に。
上級生は振り返った。
視線は真っ直ぐに麻井芙弥也に向かっている。
くちもとに、皮肉げな、どこか満足そうな笑いを浮かべ。
そのまま窓の外に身を投げた。
ほんの微かな落下音。
幻聴のような衝撃音が聞こえる。
麻井芙弥也は笑っていた。
透明な。
神々しいまでに透き通った笑みだった。
室内の生徒が悲鳴を上げる。
何人かが窓に駆け寄り、下を覗き込んでいる。
「天川、逃げて」
落ちついた顔で、麻井芙弥也が言った。
震えている忍の荷物をまとめて学生かばんに入れ、防寒着ごとにひとまとめにして、手の中に押しつける。
「今の話、誰にも言わないで。
先輩、誰にも知られたくないって言ってたから」
つややかな、美しい鳶色の瞳が、忍を映していた。
ああ、麻井くんて、すごく綺麗なコだったんだ、と場違いにも忍は考えていた。
「で、でも、麻井くんは」
「ぼくは大丈夫。
だから行って。
天川は嘘つけないでしょう」
麻井芙弥也は、大人びた笑顔で言った。




