12.
文化祭が過ぎると、山の空気は冷たく引き締まった。
日没も早くなり、期末試験もあるし、なんとはなしに気ぜわしくなってくる。
ほとんどの生徒は年末年始は帰省して、家族とすごすから、その準備も始めたり、家族と連絡をとったりしている。
忍は紫朗に頼まれて、掃除と引き換えに勉強を教えることになった。
決して勉強ができないわけではない。
基礎に戻って説明をすると、要領よく理解して行く。
はっきりしたことは言わないが、言葉の端々を繋ぎ合わせると、クレマティスに来るまで学校に通っていなかったらしい。
それでいながら、転校してきた早々あれだけすばやく周囲にとけこんでいたのだ。
本当に努力していたんだ。
それなのに、忍は自分のことばかりでずい分と冷たい態度をとっていた。
今さらながら酷いことをしたと思うし、紫朗のことがますます好きになる。
心底尊敬する。
藤枝紫朗は学園内で誰も知らない人がいないくらい人気者になり、部屋を空けたり外泊することも多くなった。
それでも朝食と夕食は忍と一緒にとるよう努力してくれる。
どうしても都合の悪い時には、先に連絡をくれる。
たぶん忍の卒業まではこの関係が続くだろう。
だから姉からすべて手続きが終了したと電話があった時も、ずいぶんと冷静に応対できた。
もうしょうがないことなのだ、と覚悟を決めた。
霜月の夕暮れ。
空気はすでに冷え切っている。
忍は厚手のコートを着て、ぐるぐる巻きにマフラーを巻いた。
「じゃあ、行ってくるから。
明日、昼ごろ帰ってくる」
「うん、美人の姉さんによろしく」
ベッドに寝転んで本を読んでいた紫朗は、顔を上げずに言った。
紫朗には兄弟三人で温泉で一泊して、食事をすると言っている。
最終のスクールバスの時間に合わせて、葛篭錦駅前で待ち合わせだ。
スクールバス乗り場に向かおうとするが、足が重くなる。
なんでだろう。
姉さんや兄さんに会いたいのに、体が言うことを聞かない。
のろのろと歩いていると、
「おや? 早く行かないとバスが出ちゃうよ」
すれ違いざまに言われた。
思わず振り返った。
甘い残り香が漂っている。
黒髪の流れる、華奢な後ろ姿だ。
一学年上の生徒、葵信吾。
独特の雰囲気をもった、非常に美人な先輩だ。
一時期よくちょっかいを出されたが、すこし、忍は苦手である。
なんだか妙な胸騒ぎがしてくる。
なんだろう?
ぼんやりと考えながらバス停についた。
まだバスは行っていない。
乗り込みかけて、足を止める。
「忘れ物?」
と運転手に聞かれた。
「これ終バスだよ、とりに行っておいで。
戻ってくるまで待っているから」
「ううん、違うんです。
乗るのやめます。ありがとうございます」
忍はなかば走るようにして部屋まで引き返した。
おおよそ、予期していた通り。
室内には葵信吾がいて、紫朗と話していた。
ベッドに腰かけ、やけに硬い表情の紫朗は忍をみて驚いた。
「天川先輩、バスは?」
回転椅子に座って、紫朗のつくえにほおづえをついていた葵信吾は形の良いくちびるから、ちろりと舌を見せた。
「口がすべっちゃったかな」
紫朗がすさまじい形相で、葵信吾を睨んだ。
「葵、なんども言っている。
コイツは関係ない。巻き込む気はない」
「分かってる、分かってるって。
本当に口がすべっただけ、まさか気づかれるとは思ってなかった」
奇妙な取り合わせだ。
この二人が一緒にいるのをいままで見たことがないし、紫朗から葵信吾の話を聞いたこともない。
学年も二学年違う。
「だって、ぼくは自分の予定を藤枝くん以外にしゃべっていないし、藤枝くんがぺらぺら他人にしゃべるとも思えないから」
忍はマフラーとコートをはずして、自分のベッドに腰を下ろした。
室内がピンと緊張している。
たぶん、際どい話だ。
他人の目に着く場所では話せないような。
じゃなければわざわざ忍の不在を狙って、計画的に会ったりしない。
でも、なぜこのふたりがそんな話をする必要がある?
「天川先輩、でも、お姉さんたちは」
「いいんだ。もう。
会わなくても。
会わない方がいいんだ」
紫朗に、というより、自分自身に言い聞かせるように言った。
そうきめてしまった方がすっきりする。
これきり別れる、否、捨てられるのに、どういう顔をして会えばいいのか、分からない。
なんと言っておカネを受け取ればいいのか、分からない。
それに、自分はひとりきりでもなんとかやっていける筈。
「会いに行けよ」
紫朗が立ちあがって怒鳴った。
「あんた、家族がいるんじゃないか。
生きているじゃないか、今、待っているんだろ。
行けよ、会いに行けよ」
「いいよ、もういいんだ。
どっちにしたって、これっきりなんだ。
ウチの家族、みんな海外に移住するんだ。
日本の家ももう売った。
おカネは全部ぼくにくれるって、きょう会うのはそのため。
でも、ぼくは」
「ああっ、苛々する」
紫朗はがっとクローゼットを開けると、自分のコートを取り出して着込んだ。
「葵、最後の件以外はぜんぶ条件を呑む。
それでどうだ」
葵信吾は両手の指先をつけ合わせて、ゆらゆらと椅子を揺らした。
「異存はない」
「じゃ、出てけ」
「冷たいなあ」
葵信吾は面白そうに言うと、忍をちらりとみてにっと笑い、優雅な身振りで出て行った。
「なにしてんだよ、行くぞ」
「え、だって、バス行っちゃったし。
もういいんだってば」
紫朗は携帯電話を取り出し、電話をかけた。
タクシーを一台、正門前まで呼んでいる。
こんなことをする生徒ははじめてみた。
茫然としている忍にコートを着せ、紫朗は正門前まで引きずって行った。
「ねえ、藤枝くん、その色々してくれる気持ちはありがたいんだけど、ぼくは本当に」
「いいから行くぞ」
忍ひとりじゃまた戻ってくると思ったか、紫朗はタクシーに一緒に乗り込んだ。
タクシーの後部座席で忍はうつむく。
本当は会いたくないと思っている自分の本心に気づいてしまった。
先ほど、バス乗り場に向かった時より、さらに気が重い。
藤枝紫朗が手をのばしてきた。
忍の手を強く握る。
紫朗にも聞きたいことはあった。
どんなつながりが葵信吾とあるのだろう。
駅前に着いた時には、すでに日は落ちていた。
スクールバスの乗降車口のベンチに、ふたりの人影がいるのがみえた。
通りすぎてから、タクシーを止めて降りる。
姉はまっすぐに顔を向けたまま、もうバスの来ないバス停をみつめていた。
傍らで兄がうなだれ、頭を抱えていた。
「ぼく、本当に会いたくないんだ」
もういちど、忍は言った。
その背を紫朗が押す。
「じゃあ、直接言えよ。
言えるときに」
はっと気がついた美紗子が立ちあがった。
ほおに涙が流れる。
やはり綺麗だな、と思う。
「来ないと思っていた」
「来たくなかった、本当は」
ベンチで頭を抱えていた兄がびくりと肩を震わせる。
「もう会いたくなかったし、おカネも欲しくない」
そうよね、とかすれた声で美紗子は呟いた。
「現実にはあなたを捨てるのに、今さら最後に仲の良い兄弟のふりをしようだなんて。
虫が良すぎたわね」
美紗子は書類封筒を忍の手に押しつけた。
「でも、これは受け取っておきなさい。
邪魔にはならないでしょう。
苓、行くわよ。
電車に乗り遅れたら、宿の夕食、間に合わないわよ」
「でも、姉さん」
「行くわよ」
ヒールの音を響かせて、美紗子が歩きだした。
苓はちらりと忍を見て、あわてて姉を追いかける。
「藤枝くん、あの子をお願い」
すれ違いざま、言う。
藤枝紫朗は腕組みをしたまま、美紗子と苓を睨みあげた。
「ふざけんなよ、オレは他人だ。
血のつながった家族はあんたたちだろ」
「そうよ。
私たちは自分のやりたいことのために、弟を見捨てるの。この負い目、一生背負って生きていく覚悟はした」
美紗子の背に、忍は叫んだ。
「そんな負い目、背負わないでよ。
ぼくのことなんて忘れちゃってよ。
だって、ぼくさえいなければみんな仲良くやっていけるんでしょう」
「忍は相変わらず馬鹿ね。
そんなこという弟を、どうやったら忘れることができるの。
一緒に居ても地獄、分かれても地獄。
ならばあなたに、私たちに未来への可能性を残したかっただけ。
ほら、苓、とっとと行くわよ。
今日は露天風呂で熱燗なんだから」
美紗子はじぶんより背の高い弟をどやしつけて、引きずって行く。
苓は幾度か振り返ったが、けっきょく何も言わず、姉に引きずられて去って行った。
忍は封筒を抱えたままベンチにへたりこんだ。
横に藤枝紫朗が座って、足を組む。
「悪かったな、おせっかいで」
「ううん。ありがとう。
いつも藤枝くんには助けられてばかりだね」
藤枝紫朗はかっと真っ赤になった。
「いや……、オレも助けられているし。
それにアンタってほっとけないし」
しばらくぼうっとしていたが、
「帰ろうか」
紫朗が立ちあがって、真っ直ぐに手を差し出す。
その手をとった。
「うん」
「せっかくだから歩いて帰らない?
色々話したいことがあるんだ」
藤枝紫朗はぎゅっと忍の手を握った。