11.
「そんなことないよ、部屋の片づけをしていた」
「ええっ、天川くんが」
寮監がびっくりして言った。
あわてて、しまったと言うように口をおさえて美紗子を横目でみた。
美紗子はくちびるをなか開きにして、はーん、と頷いた。
「相変わらず、ってとこかしら」
「そんなことない、同室の後輩がすごい几帳面で。
ちょっといろいろ言われて一緒に片づけていた」
へぇー、と美紗子はほとんど信用してない口ぶりで言い、くすっと笑った。
「良かった、元気そうで。
お昼まだでしょう、食べに行きましょう。外出届はこれだって、はい、ちゃっちゃと書いて、制服に着替えてきなさい。
変わった校則よね、外出には制服着用だなんて」
寮監から外出簿を奪うようにしてとって、忍に書かせると、ぱんぱんと手を叩いて、早く着替えなさい、とせかす。
三人兄弟の長女。
家族の中ではいちばん気が強くて、仕切り屋だ。
部屋に戻ると、ひとりで藤枝紫朗は衣類をたたんでいた。
「ごめん、姉さんが来たので一緒に食事してくる。部屋、帰ってきたら片付けるから」
「お姉さん? 美人? 美人だよな、天川先輩のお姉さんなら」
いきなり立ちあがって言う。
予想外につよい食いつきだ。
「うん、美人だと思うけど」
でも、年上か、いや、その方がしっかりしていていいかも、とあごに手を当て、なにやらぶつぶつ紫朗が言っている。
「お姉さんて高校生? どこの高校?」
「ううん、社会人。フルート奏者。
ヨーロッパで演奏活動している。
ちょっと年が離れているんだ、ひと回りくらい」
そうなんだ、そんなに年上か、とあからさまに紫朗はがっかりした。
それでも、忍が着替えて出て行こうとすると、顔を見るだけ、といいながらぴたりとついてくる。
いつも前向きで活動的だが、ここまで気合が入っている姿は初めてみる。
「あのう、藤枝くんて女好き?」
「男なら誰だってそうでしょ?
それに、オレ、はやく結婚したいから」
「結婚?」
びっくりして忍はオウム返しに返した。
まったく予想外の単語だった。
まだ中学生。
結婚のことなんて考えているコ、他にいるのだろうか。
「なんで?」
「家族が欲しい、というより息子を育てたい、育てなきゃいけないんだ。
父さんがオレを育てたように」
きり、とした横顔で、紫朗は言った。
へえ、すごいね、ともごもごと返しながらも、どんと気持ちが重くなった。
ロビーに戻ると、美紗子は寮監とにぎやかに話をしていた。
というより、一方的に日本の学校教育やら情操教育やらなんやらまくしたてていて、寮監はあいづちうつ間もない。
やだなあ、もう、恥ずかしいと思っていると、藤枝紫朗が口笛を吹いた。
「たしかに美人。
年上でもいいかも」
胸が痛い。
姉さんは美人で、褒められるのは悪い気はしないけど、藤枝紫朗が誰かを褒めるのはたとえ姉でも聞いていたくなかった。
忍たちに気づいた美紗子は、あ、と顔を向けた。
すかさず藤枝紫朗は頭を下げる。
この辺のそつなさは、紫朗らしい。
「天川先輩にはいつもお世話になっています。
一学年下の藤枝紫朗です」
「あのう、おなじ部屋の、後輩」
ぼそぼそと忍が紹介すると、美紗子は驚いた顔をした。
「あらっ、忍や苓よりよっぽどしっかりしている。
はじめまして。
忍がいつも迷惑かけているんじゃない? 末っ子だから甘えん坊で」
「いえ、天川先輩は学園中の人気者ですから。
学園祭でも、あ、そうだ写真」
うわわわわわ、と忍はあわてふためいた。
ポケットから写真をとり出そうとする紫朗の手をおさえこむ。
「なに?」
手を腰にあて、不満そうに美佐江は忍を睨みつける。
なんだか悪戯がばれたときのよう。
忍はなにも悪いことはしていないのだが。
「な、なんでもない」
「言いなさい」
「え……」
忍が身をすくめて言い淀んでいると、あっ、と美紗子が時計を見て驚いた。
「こんな時間。限定三十食なのよ、急がないとなくなっちゃうわ。
ほら、なに愚図愚図しているの。
あ、藤枝くん、このコのこと宜しくお願いします、じゃあ、またねー」
ネコの仔のように忍の襟首をつかむと、美紗子は早足で歩きはじめた。
「ちょ、ちょっと、姉さん、なに」
「蕎麦よ蕎麦。
いまだけ限定三十食セットがあるの。
信州蕎麦。もう、パリに居る時からずーっとネットで調べていたんだから。
食べ損ねたら、忍だって許さないからねっ」
駐車場でレンタカーに押し込められ、スピード違反している速度で車を運転していく。
右に左に振られていく運転に生きた心地がせず、シートベルトをしっかりとめ、てすりにすがりついた。
車で三十分ほど、古民家を改築した蕎麦屋についた。
趣のある、木のテーブルについて、広い庭を一望する。
天気が良い日で、さわやかな風が抜ける。
すごく居心地がいい。
「いいカンジ」
「でしょでしょ、忍と来るの、楽しみにしてたの。
更科、鴨なん、二人前ずつ、あとてんぷらの盛り合わせ、あ、発芽そばも」
注文を取りにきた店員もびっくりしている。数えて行くと六人前になる。
「誰が食べるの」
「わたしたちふたりに決まっているじゃない。
蕎麦なんて、腹にたまらないんだし、男の子ならそのくらい食べなさい」
無理だ、というと余計に食べさせられそうで、そばを一心不乱に食べることになった。
七割方は、美紗子が食べる。
この細い身体のどこに入るのだろうと思うのだけど、フルート奏者というのはものすごくカロリーを消費するらしい。
すべてを平らげて、美紗子はあー美味しかった、満足、とお茶をすすった。
食べ過ぎた忍はすでに気持ち悪くなりかけている。
はい、胃薬、と美紗子に薬を渡された。
薬を渡すくらいなら、腹八分目でやめさせてくれればいいのに、それは許せないらしい。
「それでね、忍、今回帰国したのは」
両手で茶碗をくるんで、美紗子が視線を落とした。
「日本の家が売れて。
その手続きのために私だけ帰国したの」
忍はうなずいた。
「みんな元気?」
「ええ、そうね、元気と言えば元気。
父さんも母さんも、毎日遅くまでボランティア活動をしている。
ひたすら働いている。
苓もいろいろ動きまわっているし。
それでね、みんなで話して、家を売ったお金はすべて忍に渡すことにしたの。
生前贈与という形にして、ちゃんと公正証書も作成して、苓やわたしも相続放棄のサインしたから」
忍は黙ってうなずいた。
こんな時、どういう風にすればいいのか分からない。
お礼を言うべきなのか。
文句を言うべきなのか。
別れたくないと、駄々をこねるべきなのか。
だから、いつも黙ってしまう。
美紗子はほおづえをついて、笑顔を見せた。
実の姉ながら、やはり、綺麗だな、と思う。
「やっぱり、一緒に暮らそっか。
兄弟三人で」
「だめだよ、姉さん、仕事があるじゃない。
この前、ソロコンサートしたんでしょ」
「ぜんぜーんダメ。ボロボロ。
すごい批評書かれちゃった、猿には木の棒を持たせておけとか何とか。
専業主婦になって忍に養ってもらおうかな」
忍は茶碗をみつめた。
そば茶の表面に歪んだ顔が映っている。
「でも、姉さん、負けないじゃない。
兄さんだって行きたかった大学に行けたんだし」
元々、父がドイツの神学校で教鞭をとる前から、姉も兄もヨーロッパの大学に留学していた。
忍が両親と離れて暮らすためには、兄も姉も人生を諦めて帰国するしかない。
それに演奏活動に打ち込みたい姉も、学業に打ち込みたい兄も、家族のサポートが必要。
兄弟三人で暮らすためには、姉や兄に犠牲になってもらわなければいけない。
それは忍自身、望んでいないし、その重さに耐えきれない。
「ぼく、大丈夫だと思うなあ。
学校、全寮制だし、みんないい人だし。
プログラミングの仕事もね、下請けの下請けの下請けくらいだけど、ちょっとずつ入ってきている。
だから、大丈夫だよ」
美紗子は顔を上に向けた。
ぐっと歯を食いしばって、ぎゅっと瞬きを何度もする。
「分かった。
私たちは会えなくなるわけじゃないしね。
来月には手続きとか全部終わるし、苓と一緒にくるから」
「兄さんも帰国するの」
美紗子は笑顔を作った。
「女ひとりじゃ不安だろって、言うの。
あの弱虫がよく言うわよね」
美紗子は持参してきた書類を出して、忍に署名させた。
今後の為、あちこちに口座を作り、現金だけでなく、国債や外貨、投資信託など分散させて資産運用をするようになっているらしい。
忍の、一生分の生活費。
贖罪の手切れ金。
受け取った方がいいのか、受け取らない方がいいのか、これもよく分からない。
でも、姉さんがやってくれていることだから、と、言われるままに署名をする。
一式の書類を記入して、店を出、車で学園の正門前まで送ってもらった。
「じゃあ、またね。
来月来るから」
車の窓から手を振って、美紗子は去っていった。
次に会う約束をして、家族と別れるのは初めてだった。
そして、おそらくこれが最後だ。
日本の家を売却したなら、もう、天川の家族は日本に戻る気はないということだ。
父親の経歴から言っても、数年もしたらドイツで永住権が認められるはず。
兄さんはずっと前から父さんの後を継いで、聖職者になるつもりだ。
姉さんはヨーロッパを中心に演奏活動をして、いつかは結婚するんだろうな、と漠然と思う。
おそらく、そんなに忍のことばかり構っていられない筈。
レンガで舗装された道を、一歩一歩、跳ねるように歩いてみた。
やはり、どんな感情を抱いていいのか、忍には分からなかった。
部屋に戻ると、愕然とするほど、きれいさっぱりとしていた。
なんだか妙にピカピカしているし、空間も広い。
床もあるし、ベッドの上にはモノがない。
「お帰り」
窓枠に腰をおろして、雑巾で窓拭きしていた藤枝紫朗が笑顔を見せた。
妙にほっとする。
心が温かくなる。
「なんか、部屋間違えたかと思っちゃった」
「ずいぶんさっぱりしたでしょ」
「うん、ありがとう、ごめんね」
藤枝紫朗は降りてくると、バケツで雑巾を漱いだ。
「お姉さん、ずいぶんにぎやかな人だね」
「うん。
家族の中でいちばんしっかりしている。そうじゃないとソリストは務まらないんだって」
「へえ」
紫朗は部屋のあちこちを指しながら、ここに洗濯モノ、PCはこことここ、メモ類はここ、と教えてくれる。
卒業までの数年間は藤枝紫朗と一緒なんだ、と今さらながらに気づき、心が温かくなった。
学園には理事長がいる。
クラスにはちょっと問題児だけど、にぎやかな麻井芙弥也もいるし、しっかり者で気の合う浅葉檸檬もいる。
先生も優しいし、たぶん、ぼくは大丈夫だ。
「夕飯に行く?」
「あ、蕎麦、食べすぎちゃって。六人前」
「えっ」
「あ、いや、ふたりでだけど」
「それでもすごい。蕎麦好きなんだ、知らなかった」
「ぼくじゃなくて姉さんが」
「じゃ、オレ一人で食べてくる」
紫朗はバケツを持って出て行こうとした。
その背に駆け寄る。
「一緒に行く。
食べないけど」
「了解」
藤枝紫朗は人なつっこい笑顔を見せた。
たぶん。
ぼくは大丈夫。
忍は自分にそっと言い聞かせた。




