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織田家に工房を売った男 ~戦国M&A 前日譚~  作者: 九条ケイ・ブラックウェル


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第二話 砂の名

夜が白み始めた頃、宗次(そうじ)は再び戸口へ出た。


判を押した請状(うけじょう)は、今しがた侍の懐に収まった。宗次の右手の親指には、爪印(つめいん)を押すために筆先で塗った墨が、黒く残っていた。


その手を戸板に添えて、宗次は侍に、源六(げんろく)の名を書付(かきつけ)に加えてもらえるよう、上役へ取り次いでほしいと頭を下げた。主家(しゅか)に直接召し抱えられている源六だけは、工房の者とは扱いが違う。昨夜は手に余ると言った侍が、今朝は、伝えはする、とだけ答えた。


山道を下りてくる足音が聞こえたのは、そのすぐ後のことだ。


***


あの日、社長室に戻ってきた真砂(まさご)は、室井(むろい)の言い分も聞いてやってくれ、とだけ言った。翌週の打ち合わせの場所は、川沿いの第二工場に変わった。伝えてきたのは社長秘書ではなく、室井の部下を名乗る若い技術者で、メールには工場の住所と入構手順だけが記され、理由は一行も添えられていなかった。


組立棟の扉をくぐると、油と鉄粉の匂いが鼻の奥に貼りついた。高い屋根の下を、天井クレーンが唸(うな)りを上げて横切っていく。床には黄色い線で通路が区切られ、その両側に、塗装を待つ灰色の機械が並んでいた。


黒澤が、迎えに出た技術者の後について奥へ進むにつれ、機械の音が一つずつ遠のき、代わりに、金属を擦る乾いた音が、一定の間隔で近づいてくる。


建屋(たてや)の一番奥、白いシートで三方を囲われた一角に、室井はいた。


床に据えられているのは、骨格だけが組まれた試作機の土台で、鋳物の灰色の肌が剥(む)き出しになっている。室井はその上に覆いかぶさるようにして、柄の長い刃物を腰で押していた。刃が鉄の表面を僅かに削り取るたびに、三日月形の細かな跡が一つ増える。


押して、引いて、また押す。削り跡は少しずつ向きを変えながら重なり合い、鉄の面に、魚の鱗(うろこ)に似た模様を広げていた。きさげです、と技術者が小声で言った。


室井は黒澤に気づいても手を止めなかった。やがて刃を置くと、赤い顔料を薄く塗った小さな定盤(じょうばん)を両手で持ち上げ、削ったばかりの面に静かに伏せた。面の平らさを確かめるための、基準になる鉄の板である。


前後に小さく滑らせてから外すと、鉄のところどころに赤い点が移っている。室井は親指と人差し指で小さな枠を作り、その中に入る赤の数を、唇だけを動かして数えた。


「先週の、うちとハルトマンを並べた比較表に、二十年目の数字はありますか」


顔を上げないまま、室井が言った。


「機種別に追っているのは、十年までです」


黒澤の答えに、室井は顎で奥の壁際を示した。塗装の褪(あ)せた一台が、そこに据えられている。前面の扉には擦り傷が重なり、銘板(めいばん)の端には、九州の自動車部品メーカーの名を記した札が針金で留められていた。


「納めて二十年です。先月、オーバーホールで戻ってきた。摺動面(しゅうどうめん)には、まだ手を入れていません」


室井は傍らの作業台の引き出しから、細い針のついた丸い計器と、磨き上げられた基準用の直定規(ちょくじょうぎ)を取り出し、その機械の前まで歩いた。直定規を機械のテーブルに据え、磁石の台座を本体の柱に吸いつけて、計器の測定子を定規の縁にそっと当てる。


ハンドルがゆっくりと回され、テーブルが定規を載せたまま端から端まで滑っていく間、黒澤は針を見ていた。振れは、最後まで目盛りの一つ分にも届かなかった。


案内してきた技術者が、薄いファイルを黒澤に差し出した。既存機の稼働台数と、納入先ごとの保守記録、修理に要した工数が、年ごとにまとめられている。表紙には、先週の会議の翌日の日付があった。室井が計器から目を上げた。


「保守の頻度。現場で積み上げてきた改良の履歴。それから、操作盤の配置です。経験の浅い工員が、初日から精度を出せるかどうか。うちの客は、そこで機械を選んできた」


室井が言い終えると、黒澤は鞄から先週の比較表を取り出し、ファイルを繰りながら、関わる項目に下線を引いていった。保守要員、既存機からの移行期間、操作系の扱い。線を引くたびに、余白に小さく試算を書き込む。ペン先が紙を擦る音を、室井は黙って聞いていた。


ファイルの納入先の頁(ページ)まで来て、ペンが止まった。三交代のラインを持つ工場の名が、二十年分の保守の日付とともに並んでいる。ハルトマン社が開示してきた納入先の一覧には、その一つも載っていなかった。


「この三項目は、いただいた資料で再計算させます。操作系と保守の基準を統合後の機械に引き継げば、既存の顧客の離反を抑えられます。その分は、統合後の利益に上乗せできます」


「機械の中身は」


「私どもの提案は変わりません。土台は、ハルトマンの方式に一本化します」


室井は台座ごと計器を外し、しばらく掌(てのひら)に載せていた。作業台の端に、ハルトマン社の英文カタログが一冊、付箋だらけになって置かれている。開いたままの頁には、電源を入れた直後から暖機運転なしで規定の精度に達するという試験結果の曲線が刷られ、その線を赤鉛筆が二重に囲っていた。


保全で止めたラインを、一分でも早く再開したい。三交代で工場を回す自動車メーカーが、次の設備更新で欲しがっている性能だ。発売の予定も、真砂機工の次世代機より一年早い。室井の鉛筆の跡は、その日付の横にも残っていた。シートの外では、クレーンの唸りがいつの間にか止んでいる。


「あと一年あれば、追いつけます」


黒澤は比較表を一枚めくり、用意してあった次の頁を、作業台のカタログの隣に置いた。三つの案が、同じ項目で縦に並んでいる。どの段にも、性能は一年で並ぶという前提が、そのまま書き込まれていた。


一段目は、買収を見送って自社の開発を続ける案だ。量産に入る頃には主な顧客の設備更新が一巡しており、ハルトマン社は別の買い手の下で、同じ顧客に売り込みをかけている。


二段目は、買収を進めながら自社の開発を一年残す案で、検証の人員が空かないまま一年が過ぎ、統合後の機械の投入がその分だけ後ろへずれる。三段目は買収そのものを一年待つ案だが、株主と合意した価格は年内の署名を条件にしており、別の買い手もまだ交渉から降りていない。


黒澤はそれ以上の言葉を添えず、紙から手を離した。


室井は頁を最後まで目で追うと、試作機の前へ歩いていき、刃物を取り上げた。腰で押し、引き、また押す。乾いた音が、先ほどと同じ間隔で建屋に戻ってくる。


一度だけ、刃が鉄の上で僅かに滑り、削り跡の列からはみ出した細い線が、灰色の肌に残った。室井はその線を見下ろしたまま、しばらく刃を動かさなかった。


***


山道を下りてきたのは、源六だった。顔も腕も、煤(すす)でまだらに黒くなっている。城で焚かれ続けた火の匂いを全身に纏(まと)い、肩で息をしながら、戸口に立つ侍と宗次とを見比べる。宗次が何か言いかけるより早く、源六は侍の脇を抜けて工房へ入り、行灯(あんどん)の前の書付を拾い上げた。


源六は字が読めない。それでも並んだ名を、端から一つずつ目で辿(たど)っていく。自分の名の形くらいは知っている。辿り終えた目が、列の終わりで止まった。その先には、昨夜書き足された一行がある。筵(むしろ)の上の職人たちは、誰も顔を上げなかった。源六の目が、書付から宗次の右手へ移った。


「俺に話す前に、判を押したのか」


宗次は答えなかった。墨の残る親指を、他の指でゆっくりと握り込み、その拳を体の脇へ下ろした。


源六は書付を元の場所へ置くと、柱の脇の棚へ歩み寄った。伏せてあった釜を両手で起こし、行灯の明かりに胴を向ける。肌には、米粒ほどの霰(あられ)が、隙間なく一面に浮いていた。鋳型に細い棒を当て、一粒ずつ押していった跡が、鉄にそのまま写っている。


源六はその粒を指の腹でなぞり、二本の櫂(かい)を交えた紋のところで、指を止めた。しばらくそうしてから、釜を元のように静かに伏せた。


柱に掛かった大きな柄杓(ひしゃく)には触れなかった。棚の端から細い棒を一本だけ取って懐に入れると、源六はもう誰の顔も見ずに戸口を出た。侍は燃えさしの松明(たいまつ)を下げたまま、黙ってその背を見送る。


源六は、下りてきた山道をそのまま登っていった。城のある峰の上には、薄明るくなった空に向かって、黒い煙が幾筋も立ちのぼっている。


徳松(とくまつ)が戸口へ駆け出しかけ、宗次の手がその肩を押さえた。


日が高くなってから、侍は帳面を抱えて戻ってきた。


工房の軒先には、二本の櫂を染め抜いたのれんが掛かっている。主家から賜(たまわ)り、宗次の師の代から一度も下ろしたことのないのれんだ。宗次は踏み台に上がってそれを外し、両手で丁寧に畳んだ。


「ここの名を、なんと書けばよい」


侍が帳面を開き、筆に墨を含ませる。


宗次は戸口の奥の、鋳型場(いがたば)の床へ目をやった。昨夜手を差し入れた砂の山は、差し込む日を受けて乾き始め、表面だけが微かに白んでいる。掌の皺(しわ)には、まだその細かな粒がいくつか残っていた。


「真砂」


侍の筆が、帳面に二つの字を書きつけた。


宗次は棚から源六の釜を下ろし、畳んだのれんでその胴を包んで、木の箱に納めた。蓋を閉める音は、思っていたよりも小さかった。


***


室井を残して組立棟を出ると、工場の正門へ向かう通路は、川の土手に沿って続いていた。


冬の水は浅く、流れの両岸には、灰色がかった細かな砂が広く乾いている。黒澤は土手の上で立ち止まり、スマートフォンで東京のチームに再計算の指示を送った。入れ違いに、短い報告が届く。ハルトマン社の技術責任者リヒターが、買収後も残るという確約をまだ出していない。


背後から、砂利を踏む足音が近づいてきた。真砂隆一(まさごりゅういち)は、作業用の上着を肩に引っかけていた。シートの外で、ずっと聞いていたらしい。


「うちの初代は、落城の時、職人を一人も欠かさず守った。そういう人の会社なんだよ、ここは」


真砂はそれだけ言うと、黒澤の返事を待たずに川面へ目をやった。風が土手を這い上がり、河原の砂を薄く巻き上げては、また落としていく。


黒澤は何も言わなかった。


お読みいただきありがとうございます。次の第三話で完結です。今夜二十時過ぎに投稿します。


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