第三話 組織図
取締役会を三日後に控えた夕方、黒澤は社長室で、真砂と二人きりになった。
低いテーブルの上には、比較表の最終版と、再計算を終えた統合計画が重ねてある。保守要員は、室井の部下が出してきた資料をもとに見直され、当初の試算より増えていた。既存機からの移行期間も延び、最初の数年の利益は小さくなっている。その代わりに、顧客の離反を抑えられる分が、後の年の利益に積み増されていた。
表紙には、未決の事項が一行だけ残っている。技術責任者リヒターの残留、とあった。
真砂は老眼鏡をかけ、一枚ごとに手を止めながらめくっていった。窓の外では、城山の石垣が夕日を受けて赤く染まり、やがてその色がゆっくりと引いていく。
最後の頁まで読み終えると、真砂は老眼鏡を外し、目頭を指で押さえた。
「先日、こちらでお待ちしている間に、あの書付の名前を数えました」
黒澤がそう言うと、真砂は壁の額へ目を向けた。
「数えたのか」
「十二人です。会社案内には、十三人とあります」
真砂はソファから立ち上がり、ガラスケースの前まで歩いていくと、その中の茶釜をしばらく見下ろしていた。黒ずんだ鉄の肌には、米粒ほどの霰が一面に浮き、胴の真ん中に、二本の櫂を交えた紋がある。
「わしが子供の頃、祖父も同じことを言っていた。十三人、一人も欠かさず、とな。祖父は、あの書付を読める人だったが、一度も数えたことはなかったと思う」
黒澤は額の下のパネルへ目を移した。
「名の後ろに、この地で鋳物を続けさせるという一行があります。あれは、工房を明け渡す取引の別紙です」
「初代が工房を売った、と言いたいのか」
「売って、十二人の仕事を残した。私にはそう読めます」
「一人、足りんのだな」
「あの書付で確かめられるのは、十二人までです」
「守れなかったとも、言えんだろう」
真砂はケースから目を離さないまま、静かにそう返した。
黒澤はテーブルの上の統合計画を真砂の席の方へ向け直し、取締役会に出す結論の頁を開いた。真砂は戻ってきて腰を下ろしたが、頁には目を落とさず、黒澤の顔を見た。
「結局は、あの会社に負けたと認めるために、何千億も払うということだな」
「あの会社に勝つ必要はありません」
「なんだと」
「あの会社が勝った時に、御社が儲かればいい」
真砂は口を開きかけて、閉じた。
老眼鏡をかけ直し、長い間、統合計画の工程表を見ていた。会議で二本並んでいた帯のうち、藍色のほうは買収が完了する日のところで切れ、その先は灰色の一本だけが伸びている。
量産開始の区切りは、三ヶ月の余裕を挟んで、顧客の設備更新の手前に置かれていた。灰色の帯の上には、操作系と保守と書かれた藍色の細い線が二本、重ねてある。
その下には、ハルトマン社の土台を使った機械を真砂機工の工場で生産し、真砂機工の営業網で世界に売ると記されている。真砂の指が、最後の行を押さえた。統合後の開発本部の長として、リヒターの名前がある。
「開発の長は、向こうに渡すんだな」
「リヒターが見るのは、その一行です」
真砂は統合計画を閉じた。
「リヒターには、君から話せ。室井には、明日、わしが話す。返事を持って、君も来てくれ」
***
その夜、黒澤は売り手の株主側に断りを入れたうえで、真砂機工の会議室を一つ借り、画面越しにリヒターと向かい合った。向こうは昼を過ぎたばかりで、背後の窓には、雪を載せた工場の屋根が見えている。
「買収後の開発を、買い手の都合で曲げられては困る」
リヒターは挨拶を省いてそう言った。自分たちの方式を、真砂の機械に継ぎ足す部品として扱われたくない。ライセンスの打診を断ったのも同じ理由で、もう一社の買い手は開発に口を出さないと約束しているという。
「私どもを信じていただく必要はありません」
黒澤は統合計画の最後の行を画面に映した。統合後の機械の土台にはハルトマン社の方式を採り、開発本部は一つにまとめて、その長にリヒターを置く。真砂側の次世代機の独自開発は、買収が完了する日に止める。
三日後の取締役会に諮り、いずれも、買収契約とあわせてハルトマン社と結ぶ合意書に書き込む。黒澤がそう続けると、リヒターは椅子の背から体を起こした。
「自分の開発を止めて、買った相手に預ける買い手が、どこにいる」
黒澤は次の資料に移った。室井の部下がまとめた稼働台数と保守記録から組み直した、顧客の移行計画である。顧客の名は伏せてあるが、並んでいるのは真砂機工が二十年にわたって保守に通ってきた工場で、ハルトマン社の機械はまだ一台も入っていない。
土台を捨てても真砂機工の手元に残り、もう一社の買い手は持っていない一覧だった。
「御社の機械が優れていることと、ここに並ぶ工場に入れることは、同じではありません」
リヒターが画面に顔を近づけ、工場ごとの台数と保守の年数を、上から順に目で追い始めた。操作系と保守の基準は真砂機工が出し、ハルトマン社には量産のための技術移管を求める。続けて映した工程表では、買収の完了から数えて、その移管に九ヶ月を見てあった。
「信用したわけではない。ただ、九ヶ月で移管は終わらない」
黒澤はペンを取った。
「何が足りませんか」
夜が明ける前に、修正の入った工程表が返ってきた。移管は九ヶ月から十二ヶ月に延び、試験の項目が二つ増えている。設備更新の手前に取ってあった三ヶ月の余裕は、それで消えた。先に送ってあった残留の条件書も戻り、空いていた年数の欄には、手書きで三年と入っていた。
***
翌朝は冷え込み、川沿いの土手の草には霜が白く残っていた。
組立棟の奥、白いシートに囲まれた一角で、室井は試作機の土台の前に立っていた。刃物は作業台に置かれ、手には何も持っていない。鋳物の灰色の肌には、鱗のような削り跡が広がり、その列からはみ出した細い一本の線が、先週のまま残っていた。
真砂は作業着の襟を立てて、シートの切れ目からその中へ入っていった。黒澤は切れ目のすぐ外で足を止めた。
真砂は室井の隣まで行くと、手袋を外し、剥き出しの掌を鉄の肌に置いた。指先が、はみ出した線の上で止まる。そのまましばらく、何かを確かめるように動かさなかった。
「室さん」
室井は答えなかった。真砂の手を見ていた。
「次の機械は、ハルトマンのやり方でいく。わしが決めた」
真砂はもう一方の手で、作業着の内ポケットから折った紙を出し、作業台の刃物の横に置いた。夜明け前に返ってきた工程表で、余白にはリヒターの書き込みがある。室井は紙に触れなかった。
黒澤の背後では、クレーンが変わらず唸りを上げ、塗装を待つ機械の上を横切っていく。室井は真砂の手から目を上げ、土台の端から端までを、ゆっくりと見渡した。四十年近く前、二人で初めて組んだ機械の話を、真砂は一度だけ黒澤にしたことがある。その時の機械の土台も、室井が削ったのだと言っていた。
真砂は、室井の顔をまっすぐに見ている。五年前、師と仰いだ上司を切り捨てた時、黒澤は面と向かっては何も告げなかった。黒澤の視線が、シートの切れ目から逸れる。
「操作系と保守の基準書は、三月までにまとめます」
室井の声は低く、少しも震えていなかった。
「その後のことは、自分で決めさせてください」
黒澤が目を戻すと、真砂は鉄の肌から手を離していた。何か言おうとして、言わなかった。
室井は作業台から、赤い顔料を薄く塗った定盤を取り、土台の面に伏せて、赤の移り方を確かめた。それから刃物を取り上げ、はみ出した線の周りから、少しずつ面を整えていく。何度か定盤を当て直すうちに、線は他の削り跡に紛れていった。
この土台が新しい機械になって、どこかの工場へ納められることはない。それでも室井は、もう一度定盤を当て、親指と人差し指で作った枠の中の赤を数えた。数え終えると、また刃物を取り上げた。
黒澤は立ったまま、その乾いた音を聞いていた。上着のポケットで、スマートフォンが短く震えた。東京のチームから、ハルトマン社の株主との最終的な署名の日取りを確かめる連絡が入っている。黒澤は、予定通り、とだけ打ち込んで送った。
顔を上げると、シートの切れ目の向こうで、真砂はまだ室井の背中を見ていた。黒澤は二人に軽く頭を下げ、組立棟の出口へ歩き出した。刃物の音は、扉を出るまで、同じ間隔でついてきた。
***
署名から四ヶ月。各国の当局の承認が揃うのを待って迎えた実行日に、最後の送金が確認されたのは、二十三時を少し回った頃である。半年がかりのディールは、それでクロージングした。
丸の内のオフィスの窓には、まだ明かりの残るビルが並び、その向こうの空だけが黒く沈んでいる。部下たちは小さく声を上げ、握手を交わした。
「お疲れ様でした」
黒澤がそれだけ言うと、部下たちは山のような書類の最終処理へ戻っていった。黒澤は隣のエグゼクティブ・ルームへ移った。
ほどなく、統合の準備を進めているチームから、一通のメールが届いた。添付されていたのは、統合後の体制を示す資料だ。黒澤はファイルを開いた。
一枚目には、グループの新しい組織図が描かれている。一番上に真砂隆一の名前があり、その下に、いくつもの部署が枝分かれして並ぶ。新しく作られた開発本部の長には、リヒターの名前が入っていた。真砂機工の古い開発本部は、枠ごと消えている。
後に続く人員配置表では、旧開発本部の技術者たちが振り分けられていた。何人かは新しい開発本部へ移り、残りは保守サービス部や製造部門の下に名前を並べている。
その先には、統合後の機械に関わる文書の一覧が続いていた。その中に、操作系と保守の基準書という項目がある。作成者の欄には、部署の名前だけが記されていた。
黒澤は人員配置表に戻り、もう一度、上から下まで目を通した。室井の名前は、どこにもなかった。
最後の頁には、統合にかかる費用の内訳が並んでいる。退任に伴う費用の欄にあるのは、最初の提案書に黒澤が置いた数値である。
黒澤は数値に修正がないことを確かめ、資料を閉じた。
本作は『戦国M&A~織田信長を救い、日本を買収する男~』の主人公・黒澤仁が、転生前に手がけた最後の案件を描く前日譚です。本編は、この取引が終わった夜から始まります。
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