第一話 書付
「命は助けると申した。それで不足か」
「不足にございます」
天正の初め。鷹峰城を載せた北の山から風が下りてくるたびに、乾いた破裂音が切れ切れに運ばれてくる。織田方の取次だという若い侍が、足元を泥で汚したまま工房の戸口に立ったのは、日が落ちてすぐのことである。
差し出された紙は二枚あった。一枚は、工房を明け渡すという請状である。これに宗次が名を書いて判を押せば、もう一枚の書付に載った者の命は助けるという。返事は夜明けまでと切られた。
「何が足りぬ」
侍は宗次の肩越しに、火を落とした炉と、土間に並んだ鍋や釜を見ていた。溶けた鉄の匂いがまだ居座るなかで、職人たちは筵の上に固まったまま、戸口の二人を窺っている。
宗次は炉ではなく、その者たちへ目をやった。
「この者らを散らして炉だけ残されても、明日から同じものは鋳られませぬ」
侍の目が細くなった。しばらく宗次の顔を見てから、松明を足元の土に突き立て、腰の矢立を抜く。宗次の手から取った書付を戸板に当て、名の後ろに一行を書き足しながら、侍は低く読み上げた。右の者ども、当所にて鋳物つかまつるべきこと。
戻された書付を、宗次は松明の火に寄せた。名は、見慣れない達者な手で書き連ねてある。仮名と僅かな漢字しか読めない宗次にも、自分の名と、共に砂を踏んできた者たちの名なら、字の形で分かる。
節くれ立った指の腹で、頭から一つずつ押さえていく。宗次、弥助、孫七、平次。遠くで、乾いた音がまた一つ鳴った。与一、吉蔵、才兵衛、久六。十二まで来たところで、指は、まだ墨の濡れている一行に行き当たった。
宗次が北の山を仰ぎ、何か言うより先に、侍は首を横に振った。
「城に上がっておる者までは、某の手に余る」
声は若いが、同じ問いに既に何度か答えた者の平らかさがあった。その肩越しに、谷の向こうの斜面が見える。点々と焚かれた篝火の間で、旗が一本、風にはためいた。黄の地に黒く描かれた銭の形が、火明かりに一瞬だけ浮かび上がり、また夕闇に沈む。
侍が松明を抜いて表の暗がりへ下がると、宗次は何も言わずに戸を閉め、行灯の前に座って、二枚の紙を並べた。
夜が更けても、職人たちは誰も横にならなかった。筵の上で膝を抱えている者もいれば、仕上げの済んだ鍋の縁を、意味もなく親指でなぞり続けている者もいる。皆の目は、棟梁の背に集まっていた。
侍は今も表にいる。戸板の隙間から、時折、松明の火が覗く。
宗次は顔を上げ、炉に一番近い柱を見た。溶けた鉄を汲む大きな柄杓が、掛けられたままになっている。この工房で、あの柄杓を片手で扱える者は一人しかいない。
その脇の棚には仕上げ前の釜が伏せてあり、胴には、二本の櫂を交えた紋が浮いていた。城の奥で使われる釜にしか、鋳込むことを許されない紋だ。三日前に城へ上がった兄弟子の源六は、まだ戻らない。その筵だけが、巻かれたまま壁に立てかけてある。
宗次は立ち上がると、奥の鋳型場で膝をつき、床に積んだ砂に手を差し入れた。川筋から運び上げ、何度もふるいにかけた細かな砂は、夜気を吸ってひやりと湿っている。
土を混ぜて練れば形を留め、その肌を鉄に渡し、砕けばまた砂に戻る。九つで弟子入りした日から、この砂の手触りだけは変わったことがない。指の間から、音もなくこぼれ落ちていく。
「棟梁」
一番年若い徳松が、かすれた声で呼んだ。宗次は答えず、砂のついた手を前掛けで拭うと、行灯の前に座り直して、請状を手元に置いた。こちらには、まだ誰の名もない。
宗次は、硯を引き寄せた。
***
「買収自体には、意味があります」
「なら、何が問題なんだ」
「御社の研究開発計画(R&D)を、そのまま残すことです」
真砂機工の役員会議室の窓には、城山が迫っている。駅前のタクシーの運転手が、織田に落とされた鷹峰城の跡だと、誇らしげに指さす山である。櫓も塀もとうに失われ、冬の低い日が、苔むした石垣の縁だけを白く照らしていた。会社案内によれば、この工作機械メーカーは、その城下の鋳物工房から始まったという。
長いテーブルに着いた役員十一人は、自社と買収先の次世代機を並べた比較表から顔を上げ、正面に立つ男を見ている。外資系投資銀行のM&Aバンカー、黒澤仁は、上座の社長から目を離さずに、手元のリモコンを押した。
スクリーンに、年を追って右へ伸びる二本の帯が現れた。藍色が真砂機工、灰色が、欧州の同業であるハルトマン社の次世代機で、どちらの帯にも、精度の検証、生産設備の準備、量産開始という同じ区切りが、同じ順に刻まれている。
黒澤は帯を順に指した。二つの機械は土台の設計が違い、片方で済ませた検証を、もう片方には持ち込めない。買収の後、ハルトマン社の機械を真砂機工の工場で量産に乗せるには、いま藍色の帯を担っている技術者たちが要る。藍色を残せば彼らの手は空かず、灰色の帯は、顧客の次の設備更新に間に合わなくなる。
ハルトマン社の株主と合意した買収価格は、それが間に合うことを根拠にしている。そこまで聞いて、上座の男が口を開いた。
「両方やればいい。どちらかは当たる」
社長の真砂隆一は、椅子に深くもたれたまま、六十を過ぎてなお日焼けの抜けない顔で、値踏みをするように黒澤を眺めている。ハルトマン社に中核技術のライセンス供与を断られた時、ならば会社ごと買うと言い出したのがこの男で、株主たちとの価格交渉でも、一度も先に目を逸らさなかった。
「両方を残すおつもりなら、この価格で買収すべきではありません」
黒澤はリモコンをテーブルに置いた。誰も声を出さなかった。空調の低い唸りだけが、天井の吹き出し口から降りてくる。
黒澤がこの部屋に通されるのは六度目になる。会議が長引けば、ここに並ぶ役員たちの人件費がいくら消えていくかを、頭の隅で勘定する。沈黙の間も、その勘定は止まらなかった。
役員たちの視線が少しずつ上座から外れ、テーブルの端の席へ流れていった。今日、この部屋に入って黒澤が最初に確かめたのも、その席だった。
そこには、濃紺の作業着の上にスーツの上着だけを羽織った男が座っている。開発担当常務の室井は、目の前の比較表をめくろうともせず、スクリーンの藍色の帯を見つめていた。
テーブルに置かれた右手の爪の際には、どれだけ洗っても落ちない油の色が細く残っている。その親指が、天板の縁を、ゆっくりと往復していた。継ぎ目の段差を、指先で確かめるような動きだった。
「室さん」
真砂が呼んだ。他の役員たちが常務と呼ぶ男を、この部屋で室さんと呼ぶのは社長だけだ。
室井は答えなかった。親指は天板の縁で止まり、そこから動かない。
真砂はしばらく室井の横顔を見ていたが、やがて黒澤に向き直り、腕時計に目を落とした。
「この件は、外に出すな。続きは来週だ」
役員たちが資料をまとめて席を立ち、椅子の脚が床を擦る音が重なった。黒澤が片付けを部下に任せようとした時、真砂の秘書が近づいてきて、社長室で少しお待ちいただけますか、と小声で告げた。
社長室は、会議室の隣にあった。
革張りのソファに腰を下ろすと、壁一枚隔てた向こうから、くぐもった男の声が二つ、低く聞こえてくる。言葉までは聞き取れない。片方の声が長く続き、もう片方はほとんど相槌を打たない。黒澤は聞くのをやめ、ネクタイの結び目を指一本分だけ緩めた。
部屋の奥の壁に、額が掛かっている。薄茶に褪せた紙に、墨の線が流れるように連なっていた。黒澤にはその一文字も読めない。
額の下には小さなガラスケースが据えられ、中には黒ずんだ鉄の茶釜が一つ置かれて、その脇に、来客向けに作られた真新しいパネルが立ててある。こちらは額の書付を活字に起こしたものらしく、人の名が、縦に、等間隔に並んでいた。
黒澤は席を立ち、ガラスケースへ歩み寄った。茶釜の胴には、二本の櫂を交えた紋が浮いていた。添えられた札には、伝・初代真砂宗次作、とある。黒澤はその紋を一瞥しただけで、目を活字の列へ戻した。
名の後ろに、一行だけ文がある。右の者ども、当所にて鋳物つかまつるべきこと。黒澤には見慣れた作りだった。事業を譲り受ける側が、引き継ぐ従業員の名を並べ、どこで働かせるかを書き添える。買収契約の別紙と変わらない。
列になった項目を見ると、数を照合せずにはいられない。人差し指を、ガラスに触れるか触れないかのところで、名の列に沿って下ろしていく。宗次、弥助、孫七、平次。壁の向こうの声が、いつの間にか途絶えている。与一、吉蔵、才兵衛、久六。
十二まで来たところで、指が、列の終わりで止まった。目を上げると、パネルの一番上に、会社案内で何度も目にした一文が掲げてある。
初代宗次は、総勢十三人の工房を、一人も欠かすことなく戦乱から守り抜いた。
一人、足りない。
お読みいただきありがとうございます。全三話で、第二話は明日(日曜)の正午過ぎ、第三話は同じ日の二十時過ぎに投稿します。
本作は、書籍『戦国M&A~織田信長を救い、日本を買収する男~』(PASH!ブックス)の前日譚です。
https://amzn.asia/d/05m94dia




