ゼロ距離ワンタン麺
境界線食堂の暖簾は、雨の匂いがする夜によく揺れる。
その日も、路地には細かい雨が降っていた。
傘を差すほどではない。
けれど、髪や肩に少しずつ染み込んでいくような雨だった。
店内には、まだ客が一人もいなかった。
客席の照明はやわらかく落とされ、カウンターの奥では水差しが静かに光っている。厨房からは、鶏ガラの出汁と湯気の匂いが流れていた。
店員は、窓際の席を拭いていた。
その時、からり、と戸が開いた。
入ってきた客は、傘を持っていなかった。
濡れているわけではない。
けれど、肩のあたりに誰かの雨をまとっているように見えた。
店員は布巾を置き、静かに頭を下げる。
「いらっしゃいませ」
客は軽く会釈し、窓際の席に座った。
年齢は二十代後半くらいだろうか。服装はきちんとしている。鞄も靴も汚れていない。
ただ、椅子に座った瞬間、客の影が少し遅れて座った。
店員は、それを見た。
影が、客の形をしていなかった。
誰か別の人の輪郭が混ざっている。
肩の線が二重になり、手元の影が少し大きい。まるで、ひとりで座っているのに、誰かを背負ったまま席に着いたようだった。
店員は水を置いた。
「ご注文はお決まりですか?」
客はメニューを開いたが、すぐには答えなかった。
「……軽いものってありますか」
「あります」
「でも、少し温かいものがいいです」
「はい」
「あと、できれば……」
客は言いかけて、口を閉じた。
「できれば?」
店員が尋ねると、客は困ったように笑った。
「自分のことだけ考えられるものがいいです」
店員は、少しだけ目を伏せた。
厨房の奥で、鍋がこぽりと鳴る。
「承知しました」
店員は厨房へ向かった。
厨房では、料理長が大きな鍋の前で立っていた。
鍋の中には、ワンタン麺があった。
いや、ワンタン麺になる予定のものがあった。
麺とスープとワンタンが、妙に近い距離で揺れている。
料理長は鍋を見ながら、少し困った顔をしていた。
「くっつきますねぇ」
店主は横から鍋を覗き込んだ。
「前よりはましだ」
「前はひとつの小麦粉大陸でしたからね」
「大陸を作るな」
「今日は群島くらいです」
「それも多い」
料理長はワンタンをそっと箸で持ち上げた。
ひとつ持ち上げると、隣のワンタンがついてくる。さらに麺もついてくる。ついでに青菜まで巻き込まれた。
料理長は笑った。
「仲良しですね」
店主は赤ペンを取り出した。
「それを仲良しと呼ぶな」
「では、距離感が近い」
「近すぎる」
店主は棚から透明な瓶を取った。
境界線オイル。
「一滴」
料理長は瓶を受け取る。
「二滴では?」
「一滴」
「ワンタンなので」
「理由になっていない」
「皮が繊細なので」
「だから一滴だ」
料理長は少しだけ口を尖らせ、それでも素直に一滴だけ鍋に落とした。
スープの表面に、小さな輪が広がる。
くっついていたワンタンが、少しだけ離れた。
バラバラにはならない。
同じスープの中で、ひとつずつの形を取り戻した。
店主はそれを確認してから言った。
「出せる」
料理長の顔が明るくなる。
「採用ですか?」
「客席次第だ」
「出た、店主の様子見」
「出せ」
「はい!」
店員は盆に丼を乗せ、客席へ戻った。
「お待たせいたしました」
客の前に置かれたのは、小ぶりの丼だった。
湯気の中に、麺がある。澄んだスープがある。青菜と刻みねぎが浮かび、その間に、薄い皮のワンタンがいくつか沈んでいた。
「ゼロ距離ワンタン麺です」
客は丼を見つめた。
「ゼロ距離……」
「はい」
「私、そんな感じですか」
「まだ判断していません」
店員はそう言って、れんげを置いた。
「ただ、今日のワンタンは、少し距離を取りながら召し上がるのがよいと思います」
客は小さく笑った。
「食べ方にも距離感があるんですね」
「あります」
客は箸を取った。
まず、ワンタンをひとつ持ち上げようとする。
すると隣のワンタンがついてきた。
「あ」
さらに麺も数本ついてくる。
客は慌てて箸を止めた。
「なんか、全部一緒に来ますね」
「はい」
「食べづらい」
「近すぎるものは、食べづらいです」
客は少しだけ黙った。
ワンタンをそっと丼に戻す。
スープが小さく揺れた。
「……そうですね」
店員は何も言わず、水を注ぎ足した。
客は今度、れんげでスープをすくった。
ひと口飲む。
温かい。
鶏の出汁が、身体の奥までゆっくり入っていく。
客の影が、ほんの少しだけ薄くなった。
「私、友達のことで来たのかもしれません」
客は丼を見たまま言った。
「友達」
「はい。最近ずっと落ち込んでいて。話を聞いてるんですけど、聞いてると、私まで苦しくなってきて」
「はい」
「放っておけないんです」
ワンタンが、丼の中で少し寄り合った。
「その人がつらいなら、私も何かしないといけない気がして。返事が遅いと心配になるし、元気がなさそうだと気になるし、何かあったら私のせいかもって」
客はそこで苦笑した。
「おかしいですよね」
店員は首を横に振らなかった。
「おかしい、とは少し違います」
「違いますか」
「近いのだと思います」
客は箸を握ったまま、丼を見つめた。
「近い」
「はい。近いこと自体は、悪いことではありません」
店員はワンタンを見た。
「ただ、近いことと、同じになることは違います」
客の指が止まった。
厨房では、料理長が小さく身を乗り出した。
「店員さん、今日はそこにいきましたね」
店主は鍋の火を弱めながら言った。
「ワンタンが破れる前でよかった」
客席では、客がもう一度ワンタンを持ち上げようとしていた。
今度は、ゆっくり。
くっついてきた隣のワンタンを、箸先でそっと離す。
皮は破れなかった。
「あ、離れた」
店員はうなずいた。
「無理に引っ張らなければ、離れます」
客はそのワンタンを口に運んだ。
薄い皮が、舌の上でほどける。
中の具は、やわらかかった。
思っていたよりも軽い味がした。
「でも、距離を取ったら冷たい人みたいになりませんか」
客が言った。
「私は友達なんです。だから、ちゃんと寄り添わないと」
「寄り添うことと、背負うことも違います」
店員は静かに言った。
客は、少しだけ眉を下げた。
「でも、背負わなかったら、その人が一人になってしまう気がして」
「同じスープにいることはできます」
店員は丼を見た。
「同じ具材になる必要はありません」
客は、れんげの中のスープを見た。
スープの中で、麺も、青菜も、ワンタンも、それぞれの形を保っている。
混ざっている。
けれど、同じものにはなっていない。
「同じスープ……」
「はい」
「そばにいる、ってことですか」
「そうです」
「でも、私が何とかしてあげないと」
その言葉が出た瞬間、ワンタンの皮が少し張りついた。
店員は、丼の端に小さな瓶を置いた。
透明な油が入っている。
「これは?」
「境界線オイルです」
客は少し警戒した顔をした。
「油ですか」
「ほんの一滴で大丈夫です」
「入れすぎたら?」
「離れすぎます」
「難しいですね」
「はい」
店員は否定しなかった。
「距離は、いつも少し難しいです」
客は瓶を手に取った。
小さく傾ける。
一滴。
スープに落ちた油が、丸く広がる。
くっつきかけていたワンタンの皮が、ふっと緩んだ。
客はそれをじっと見ていた。
「私、相手の気持ちと、自分の気持ちを混ぜてたのかもしれません」
「はい」
「友達が苦しいと、私も苦しくならないといけない気がしてました」
「苦しさを受け取ることと、同じ苦しさになることは違います」
客は小さく息を吐いた。
「じゃあ、私はどうしたらいいんですか」
「まず、自分の器を確認してください」
店員は言った。
「相手の器ではなく」
客は丼を見つめた。
「自分の器」
「はい。今、自分の丼に何が入っているか」
客は少し考えた。
「心配」
「はい」
「疲れ」
「はい」
「返信しなきゃっていう焦り」
「はい」
「あと……少し怒り」
店員は水差しを置く手を止めた。
「怒り」
客は気まずそうに笑った。
「友達のことは大事なんです。でも、ずっと聞いてるのがしんどい時もあって。私にも生活があるのに、って思うことがあります」
ワンタンが、少しだけきれいに浮いた。
皮の端が破れずに揺れている。
店員は言った。
「それも、お客様の器に入っているものです」
「怒ってもいいんですか」
「怒りを相手の丼に流し込まなければ」
客は少し笑った。
「さっきから丼で言われると、なんか逃げられませんね」
「食堂ですので」
客は、ふっと肩の力を抜いた。
影が、少しずつ客自身の形に戻っていく。
「私、今日帰ったら、少し返信を遅らせてもいいですかね」
「誰に聞いていますか」
客は言葉に詰まった。
それから、丼を見て、ゆっくり答えた。
「……自分に、ですかね」
「では、もう一度聞いてみてください」
客は箸を置いた。
少し目を閉じる。
「私は、今日、少し返信を遅らせてもいい?」
誰に向けた声でもない。
けれど、確かにその声は、客自身の器へ落ちた。
スープが静かに揺れる。
「……いい気がします」
店員はうなずいた。
「よい注文だと思います」
客は少し照れたように笑い、残りの麺を食べた。
ワンタンはもう、全部ついてくることはなかった。
ひとつずつ持ち上がり、ひとつずつ口へ運ばれる。
同じスープの中にありながら、それぞれの形を保っていた。
食べ終えるころには、客の影はひとり分の形になっていた。
少しだけ輪郭が薄いところはあったが、それは雨のせいかもしれない。
「ごちそうさまでした」
客は丼に手を合わせた。
「お代は、お題でしたよね」
「はい。本日のお題をお持ち帰りください」
店員は、小さな紙を差し出した。
そこには、こう書かれていた。
――近いことと、同じになることは違います。
客はその紙を読み、しばらく黙った。
「これ、忘れそうです」
「忘れたら、また食べに来てください」
客は少し驚いたあと、笑った。
「商売上手ですね」
「お代はお金ではありませんが」
「そうでした」
客は紙を鞄にしまった。
立ち上がる時、肩にまとわりついていた誰かの雨は、もうほとんど消えていた。
「帰ったら、今日は少し休むって送ります」
「はい」
「そのあと、返事は明日にします」
店員はうなずいた。
「それも、よい距離だと思います」
客は小さく頭を下げ、店を出ていった。
暖簾が揺れる。
路地の雨は、まだ細く降っていた。
けれど客の背中は、入ってきた時より少し軽く見えた。
厨房では、料理長が空の丼を覗き込んでいた。
「店主、ワンタンが破れませんでした」
「見ていた」
「境界線オイル、一滴で足りましたね」
「だから言った」
「二滴入れなくてよかったです」
店主は料理長を見た。
「今、自分で言ったな」
「記録に残さないでください」
店主は赤ペンを手に取った。
料理長が慌てて両手を振る。
「違います、今のは反省ではなく成長です!」
「なら記録しておけ」
「えっ」
「境界線オイル、一滴で足りる場合あり」
料理長は少し不満そうにしながらも、試作品置き場の札へ向かった。
小さく、丁寧に書き込む。
ゼロ距離ワンタン麺
試験提供:皮、破れず
境界線オイル:一滴で様子を見る
店主はそれを見て、何も書き足さなかった。
料理長はにやりと笑う。
「赤ペンなしですか?」
「今のところは」
「やった」
「ただし」
「出た」
店主は丼を片付けながら言った。
「次に“大盛り”と言ったら却下だ」
料理長は目を逸らした。
「……思ってません」
「今、思ったな」
「ワンタン麺は伸びしろが」
「伸ばすな。麺だけでいい」
厨房の奥で、鍋がこぽりと鳴った。
境界線食堂の客席には、空になった丼がひとつ。
そのスープの表面には、細い油の輪がまだ少しだけ残っていた。
それは、誰かを突き放す線ではなく、同じ場所にいながら自分の形を守るための輪だった。




