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境界線食堂  作者: 珠諳


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8/16

ゼロ距離ワンタン麺

境界線食堂の暖簾は、雨の匂いがする夜によく揺れる。


その日も、路地には細かい雨が降っていた。


傘を差すほどではない。

けれど、髪や肩に少しずつ染み込んでいくような雨だった。


店内には、まだ客が一人もいなかった。


客席の照明はやわらかく落とされ、カウンターの奥では水差しが静かに光っている。厨房からは、鶏ガラの出汁と湯気の匂いが流れていた。


店員は、窓際の席を拭いていた。


その時、からり、と戸が開いた。


入ってきた客は、傘を持っていなかった。


濡れているわけではない。


けれど、肩のあたりに誰かの雨をまとっているように見えた。


店員は布巾を置き、静かに頭を下げる。


「いらっしゃいませ」


客は軽く会釈し、窓際の席に座った。


年齢は二十代後半くらいだろうか。服装はきちんとしている。鞄も靴も汚れていない。


ただ、椅子に座った瞬間、客の影が少し遅れて座った。


店員は、それを見た。


影が、客の形をしていなかった。


誰か別の人の輪郭が混ざっている。


肩の線が二重になり、手元の影が少し大きい。まるで、ひとりで座っているのに、誰かを背負ったまま席に着いたようだった。


店員は水を置いた。


「ご注文はお決まりですか?」


客はメニューを開いたが、すぐには答えなかった。


「……軽いものってありますか」


「あります」


「でも、少し温かいものがいいです」


「はい」


「あと、できれば……」


客は言いかけて、口を閉じた。


「できれば?」


店員が尋ねると、客は困ったように笑った。


「自分のことだけ考えられるものがいいです」


店員は、少しだけ目を伏せた。


厨房の奥で、鍋がこぽりと鳴る。


「承知しました」


店員は厨房へ向かった。


厨房では、料理長が大きな鍋の前で立っていた。


鍋の中には、ワンタン麺があった。


いや、ワンタン麺になる予定のものがあった。


麺とスープとワンタンが、妙に近い距離で揺れている。


料理長は鍋を見ながら、少し困った顔をしていた。


「くっつきますねぇ」


店主は横から鍋を覗き込んだ。


「前よりはましだ」


「前はひとつの小麦粉大陸でしたからね」


「大陸を作るな」


「今日は群島くらいです」


「それも多い」


料理長はワンタンをそっと箸で持ち上げた。


ひとつ持ち上げると、隣のワンタンがついてくる。さらに麺もついてくる。ついでに青菜まで巻き込まれた。


料理長は笑った。


「仲良しですね」


店主は赤ペンを取り出した。


「それを仲良しと呼ぶな」


「では、距離感が近い」


「近すぎる」


店主は棚から透明な瓶を取った。


境界線オイル。


「一滴」


料理長は瓶を受け取る。


「二滴では?」


「一滴」


「ワンタンなので」


「理由になっていない」


「皮が繊細なので」


「だから一滴だ」


料理長は少しだけ口を尖らせ、それでも素直に一滴だけ鍋に落とした。


スープの表面に、小さな輪が広がる。


くっついていたワンタンが、少しだけ離れた。


バラバラにはならない。


同じスープの中で、ひとつずつの形を取り戻した。


店主はそれを確認してから言った。


「出せる」


料理長の顔が明るくなる。


「採用ですか?」


「客席次第だ」


「出た、店主の様子見」


「出せ」


「はい!」


店員は盆に丼を乗せ、客席へ戻った。


「お待たせいたしました」


客の前に置かれたのは、小ぶりの丼だった。


湯気の中に、麺がある。澄んだスープがある。青菜と刻みねぎが浮かび、その間に、薄い皮のワンタンがいくつか沈んでいた。


「ゼロ距離ワンタン麺です」


客は丼を見つめた。


「ゼロ距離……」


「はい」


「私、そんな感じですか」


「まだ判断していません」


店員はそう言って、れんげを置いた。


「ただ、今日のワンタンは、少し距離を取りながら召し上がるのがよいと思います」


客は小さく笑った。


「食べ方にも距離感があるんですね」


「あります」


客は箸を取った。


まず、ワンタンをひとつ持ち上げようとする。


すると隣のワンタンがついてきた。


「あ」


さらに麺も数本ついてくる。


客は慌てて箸を止めた。


「なんか、全部一緒に来ますね」


「はい」


「食べづらい」


「近すぎるものは、食べづらいです」


客は少しだけ黙った。


ワンタンをそっと丼に戻す。


スープが小さく揺れた。


「……そうですね」


店員は何も言わず、水を注ぎ足した。


客は今度、れんげでスープをすくった。


ひと口飲む。


温かい。


鶏の出汁が、身体の奥までゆっくり入っていく。


客の影が、ほんの少しだけ薄くなった。


「私、友達のことで来たのかもしれません」


客は丼を見たまま言った。


「友達」


「はい。最近ずっと落ち込んでいて。話を聞いてるんですけど、聞いてると、私まで苦しくなってきて」


「はい」


「放っておけないんです」


ワンタンが、丼の中で少し寄り合った。


「その人がつらいなら、私も何かしないといけない気がして。返事が遅いと心配になるし、元気がなさそうだと気になるし、何かあったら私のせいかもって」


客はそこで苦笑した。


「おかしいですよね」


店員は首を横に振らなかった。


「おかしい、とは少し違います」


「違いますか」


「近いのだと思います」


客は箸を握ったまま、丼を見つめた。


「近い」


「はい。近いこと自体は、悪いことではありません」


店員はワンタンを見た。


「ただ、近いことと、同じになることは違います」


客の指が止まった。


厨房では、料理長が小さく身を乗り出した。


「店員さん、今日はそこにいきましたね」


店主は鍋の火を弱めながら言った。


「ワンタンが破れる前でよかった」


客席では、客がもう一度ワンタンを持ち上げようとしていた。


今度は、ゆっくり。


くっついてきた隣のワンタンを、箸先でそっと離す。


皮は破れなかった。


「あ、離れた」


店員はうなずいた。


「無理に引っ張らなければ、離れます」


客はそのワンタンを口に運んだ。


薄い皮が、舌の上でほどける。


中の具は、やわらかかった。


思っていたよりも軽い味がした。


「でも、距離を取ったら冷たい人みたいになりませんか」


客が言った。


「私は友達なんです。だから、ちゃんと寄り添わないと」


「寄り添うことと、背負うことも違います」


店員は静かに言った。


客は、少しだけ眉を下げた。


「でも、背負わなかったら、その人が一人になってしまう気がして」


「同じスープにいることはできます」


店員は丼を見た。


「同じ具材になる必要はありません」


客は、れんげの中のスープを見た。


スープの中で、麺も、青菜も、ワンタンも、それぞれの形を保っている。


混ざっている。

けれど、同じものにはなっていない。


「同じスープ……」


「はい」


「そばにいる、ってことですか」


「そうです」


「でも、私が何とかしてあげないと」


その言葉が出た瞬間、ワンタンの皮が少し張りついた。


店員は、丼の端に小さな瓶を置いた。


透明な油が入っている。


「これは?」


「境界線オイルです」


客は少し警戒した顔をした。


「油ですか」


「ほんの一滴で大丈夫です」


「入れすぎたら?」


「離れすぎます」


「難しいですね」


「はい」


店員は否定しなかった。


「距離は、いつも少し難しいです」


客は瓶を手に取った。


小さく傾ける。


一滴。


スープに落ちた油が、丸く広がる。


くっつきかけていたワンタンの皮が、ふっと緩んだ。


客はそれをじっと見ていた。


「私、相手の気持ちと、自分の気持ちを混ぜてたのかもしれません」


「はい」


「友達が苦しいと、私も苦しくならないといけない気がしてました」


「苦しさを受け取ることと、同じ苦しさになることは違います」


客は小さく息を吐いた。


「じゃあ、私はどうしたらいいんですか」


「まず、自分の器を確認してください」


店員は言った。


「相手の器ではなく」


客は丼を見つめた。


「自分の器」


「はい。今、自分の丼に何が入っているか」


客は少し考えた。


「心配」


「はい」


「疲れ」


「はい」


「返信しなきゃっていう焦り」


「はい」


「あと……少し怒り」


店員は水差しを置く手を止めた。


「怒り」


客は気まずそうに笑った。


「友達のことは大事なんです。でも、ずっと聞いてるのがしんどい時もあって。私にも生活があるのに、って思うことがあります」


ワンタンが、少しだけきれいに浮いた。


皮の端が破れずに揺れている。


店員は言った。


「それも、お客様の器に入っているものです」


「怒ってもいいんですか」


「怒りを相手の丼に流し込まなければ」


客は少し笑った。


「さっきから丼で言われると、なんか逃げられませんね」


「食堂ですので」


客は、ふっと肩の力を抜いた。


影が、少しずつ客自身の形に戻っていく。


「私、今日帰ったら、少し返信を遅らせてもいいですかね」


「誰に聞いていますか」


客は言葉に詰まった。


それから、丼を見て、ゆっくり答えた。


「……自分に、ですかね」


「では、もう一度聞いてみてください」


客は箸を置いた。


少し目を閉じる。


「私は、今日、少し返信を遅らせてもいい?」


誰に向けた声でもない。


けれど、確かにその声は、客自身の器へ落ちた。


スープが静かに揺れる。


「……いい気がします」


店員はうなずいた。


「よい注文だと思います」


客は少し照れたように笑い、残りの麺を食べた。


ワンタンはもう、全部ついてくることはなかった。


ひとつずつ持ち上がり、ひとつずつ口へ運ばれる。


同じスープの中にありながら、それぞれの形を保っていた。


食べ終えるころには、客の影はひとり分の形になっていた。


少しだけ輪郭が薄いところはあったが、それは雨のせいかもしれない。


「ごちそうさまでした」


客は丼に手を合わせた。


「お代は、お題でしたよね」


「はい。本日のお題をお持ち帰りください」


店員は、小さな紙を差し出した。


そこには、こう書かれていた。


――近いことと、同じになることは違います。


客はその紙を読み、しばらく黙った。


「これ、忘れそうです」


「忘れたら、また食べに来てください」


客は少し驚いたあと、笑った。


「商売上手ですね」


「お代はお金ではありませんが」


「そうでした」


客は紙を鞄にしまった。


立ち上がる時、肩にまとわりついていた誰かの雨は、もうほとんど消えていた。


「帰ったら、今日は少し休むって送ります」


「はい」


「そのあと、返事は明日にします」


店員はうなずいた。


「それも、よい距離だと思います」


客は小さく頭を下げ、店を出ていった。


暖簾が揺れる。


路地の雨は、まだ細く降っていた。


けれど客の背中は、入ってきた時より少し軽く見えた。


厨房では、料理長が空の丼を覗き込んでいた。


「店主、ワンタンが破れませんでした」


「見ていた」


「境界線オイル、一滴で足りましたね」


「だから言った」


「二滴入れなくてよかったです」


店主は料理長を見た。


「今、自分で言ったな」


「記録に残さないでください」


店主は赤ペンを手に取った。


料理長が慌てて両手を振る。


「違います、今のは反省ではなく成長です!」


「なら記録しておけ」


「えっ」


「境界線オイル、一滴で足りる場合あり」


料理長は少し不満そうにしながらも、試作品置き場の札へ向かった。


小さく、丁寧に書き込む。


ゼロ距離ワンタン麺

試験提供:皮、破れず

境界線オイル:一滴で様子を見る


店主はそれを見て、何も書き足さなかった。


料理長はにやりと笑う。


「赤ペンなしですか?」


「今のところは」


「やった」


「ただし」


「出た」


店主は丼を片付けながら言った。


「次に“大盛り”と言ったら却下だ」


料理長は目を逸らした。


「……思ってません」


「今、思ったな」


「ワンタン麺は伸びしろが」


「伸ばすな。麺だけでいい」


厨房の奥で、鍋がこぽりと鳴った。


境界線食堂の客席には、空になった丼がひとつ。


そのスープの表面には、細い油の輪がまだ少しだけ残っていた。


それは、誰かを突き放す線ではなく、同じ場所にいながら自分の形を守るための輪だった。


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