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境界線食堂  作者: 珠諳


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察してほしい茶碗蒸し

境界線食堂は、昼と夜のあいだのような時間に、そっと暖簾を出す。


路地の奥にあるその店は、通りすがりの人間が必ず見つけられるわけではない。


腹が減っている者。

言葉を飲み込みすぎた者。

誰かに気づいてほしいのに、自分でも何に気づいてほしいのかわからなくなった者。


そういう客だけが、ふと店の灯りに目を留める。


その日、店内は静かだった。


客席には、まだ誰もいない。


磨かれたテーブルの上には、箸と水差しがきちんと並び、奥の厨房からは湯気と出汁の匂いが流れていた。


店員は、客席のグラスをひとつずつ確認していた。


厨房では、料理長が蒸し器の前で何かを仕込んでいる。


「今日は、蒸し物の気配がしますねぇ」


「気配で献立を決めるな」


店主は帳簿を閉じながら言った。


「でも、こういう日は蓋のある料理が合うんです。開ける前に、ちょっと考える時間があるでしょう?」


料理長はそう言って、蒸し器の蓋を軽く叩いた。


店主は厨房の入口から、その様子を眺める。


「銀杏は入れすぎるな」


「まだ何も言ってませんよ」


「お前は言う前に入れる」


「信用が薄い」


「実績が厚い」


料理長が何か言い返そうとした時、店の戸がからりと開いた。


店員が顔を上げる。


暖簾をくぐって入ってきた客は、席に案内されてからも、一度もメニューを開かなかった。


椅子に腰を下ろし、鞄を隣の椅子に置く。


それだけなら普通だった。


けれど、水を置かれても、客は「ありがとうございます」と言わなかった。


言わないだけなら、珍しくはない。


問題は、客の前に置かれた水のグラスが、少しずつ曇っていくことだった。


外側ではない。


内側から。


まるで、言われなかった言葉が水の中で湯気になっているように、グラスの内側に白い膜が張っていく。


店員は、それを見て静かに尋ねた。


「ご注文はお決まりですか?」


客は、視線を少し横へ逸らした。


「……別に」


「別に、ですか」


「なんでもいいです」


その言い方に、厨房の蒸し器が、かた、と鳴った。


店員はゆっくり瞬きをする。


「なんでもいい、は当店では少し扱いに注意が必要です」


客は小さく眉を寄せた。


「面倒くさい客だと思ってます?」


「まだ判断していません」


「……そうですか」


客の声は静かだった。


だが、テーブルの上に置かれた箸袋が、ほんの少しだけすねたように丸まった。


店員は厨房へ向かった。


厨房では、料理長がすでに蒸し器の前に立っていた。


「来ましたね」


「また先に作っていますね」


「蓋が震えてます。茶碗蒸し日和です」


店主は蒸し器の横で腕を組んでいた。


「言わなくてもわかってほしかった銀杏は抜け」


料理長は目を丸くした。


「えっ、主役なのに」


「主役にするな」


「でも、あれがないと察してほしい味が出ません」


「入れすぎると客が黙る」


「もう黙ってます」


「だから抜けと言っている」


料理長はしぶしぶ小さな器を横に避けた。


その中には、薄黄色の銀杏が三つ入っていた。


どれも丸くつやつやしていて、やけに存在感がある。


店主は目を細めた。


「こっちを見るように並べるな」


「並べ方の問題ですか?」


「銀杏に圧を出すな」


「銀杏の圧」


「お前もその顔をやめろ」


料理長は笑って、茶碗蒸しの器を並べた。


中には、なめらかな卵液が注がれている。出汁は薄め。本音の出汁をほんの少し。遠慮の塩はかなり控えめ。


具材は、鶏肉、椎茸、かまぼこ、三つ葉。


そして、銀杏の代わりに、小さく刻んだ「言葉の種」がひとつ。


店員が覗き込む。


「これは?」


料理長が得意げに言う。


「言葉にする前の、小さい粒です」


店主が続けた。


「食べると、少しだけ自分の注文が見える」


「便利ですね」


「便利ではない。見えるだけだ。言うかどうかは客が決める」


料理長は蒸し器の蓋を閉めた。


「仕上げに、境界線オイルを?」


「一滴」


「二滴では?」


「一滴」


「今日は蓋があるので」


「一滴だ」


「はい」


料理長は素直に一滴だけ垂らした。


珍しい。


店主が少しだけ警戒した。


「何か企んでいるな」


「企んでません」


「本当か」


「さっきの銀杏、ひとつだけ入れようかなとは思いました」


「入れるな」


「入れてません」


「考えるな」


「考えるのもだめですか」


「その顔で考えるな」


蒸し器の中で、茶碗蒸しが静かに固まっていく。


客席では、客がまだメニューを開かずに座っていた。


水のグラスは、さらに曇っている。


店員が戻ると、客は少しだけ顔を上げた。


「まだ何も頼んでませんけど」


「はい。ですので、確認用の小鉢をお持ちします」


「確認用?」


「察してほしい茶碗蒸しです」


客の表情が固まった。


「……変な名前ですね」


「よく言われます」


「私にぴったりってことですか?」


「まだ判断していません」


「さっきもそれ言いましたね」


「はい」


客は少しだけ気まずそうに視線を落とした。


そこへ、茶碗蒸しが運ばれてくる。


小さな器に蓋がされている。


蓋は、ほんのわずかに震えていた。


客は眉を寄せる。


「これ、動いてません?」


「中身が何かを待っています」


「怖いですね」


「蓋を開ける前に、ひとつ確認してください」


店員は静かに言った。


「本当に、なんでもいいですか?」


客はすぐに答えようとして、止まった。


「……なんでもいいです」


茶碗蒸しの蓋が、かた、と鳴った。


客の指が止まる。


店員は何も言わない。


客は、少しだけ唇を噛んだ。


「本当は、温かいものがいいです」


蓋の震えが少し弱くなった。


「あと、あんまり重くないもの」


さらに弱くなる。


「……できれば、急かされないもの」


蓋が静かになった。


店員はうなずいた。


「では、開けてください」


客はゆっくり蓋を取った。


ふわりと湯気が上がる。


中の茶碗蒸しは、やわらかく固まっていた。表面はつるりとしていて、匙を入れるのが少しもったいないほど静かだった。


客は小さな匙ですくい、口へ運ぶ。


熱すぎない。

冷たくもない。


出汁の味が、ゆっくり広がる。


客はしばらく黙っていた。


それから、小さく息を吐いた。


「……私、たぶん、怒ってたんです」


店員は水を注ぎ足した。


「誰かに?」


「たぶん。家族に」


「たぶん」


「言わなくても、わかってほしかったんです。疲れてることとか、手伝ってほしいこととか、放っておいてほしいこととか」


茶碗蒸しの中で、椎茸が少しだけ沈んだ。


客はもう一口食べる。


「でも、言ってないんですよね」


「はい」


店員はあっさり言った。


客は少しだけ笑った。


「そこ、慰めてくれないんですね」


「言っていないものは、届きにくいです」


「……ですよね」


厨房では、料理長が小さく身を乗り出していた。


「店員さん、今日は直球ですね」


「必要な距離だ」


店主が言う。


「やわらかすぎると、客がまた蓋をする」


客席では、客が茶碗蒸しを見つめていた。


「でも、言うのって怖いです。面倒だと思われそうで。怒ってると思われそうで。わがままだと思われそうで」


茶碗蒸しの表面が、少しだけ曇った。


店員は器の横に、小さな匙を置き直した。


「言い方を選ぶことはできます」


客は顔を上げる。


「選ぶ?」


「はい。ぶつけるのではなく、注文として伝えることはできます」


「注文……」


「“なんでわかってくれないの”ではなく、“今日は少し休みたいです”」


客の指が、匙に触れた。


「“手伝ってよ”ではなく、“これを一つお願いできますか”」


茶碗蒸しの曇りが薄くなる。


「“もういい”ではなく、“今は少し静かにしたいです”」


客は目を伏せた。


「……そう言えばよかったのかな」


「次の注文からでも間に合います」


客は黙って、もう一口食べた。


中から、小さな粒が出てきた。


銀杏ではない。


言葉の種だった。


客はそれを噛まずに、舌の上で少し転がした。


「苦くない」


「まだ言葉になる前ですから」


「言葉になると、苦くなるんですか?」


「溜めすぎると」


客は少し笑った。


「それは、わかる気がします」


茶碗蒸しは、少しずつ減っていった。


食べ終えるころには、グラスの内側の曇りも薄くなっていた。


客は空になった器に蓋を戻そうとして、手を止めた。


「蓋、閉めない方がいいですか」


「今日は、少し開けておいてもいいと思います」


店員が言った。


客は蓋を器の横に置いた。


それだけで、テーブルの空気が少し軽くなった。


「ごちそうさまでした」


客はそう言って、店員を見た。


「お代は、お題でしたよね」


店員は少しだけ目を細めた。


「はい。本日のお題をお持ち帰りください」


伝票の代わりに、小さな紙が差し出される。


そこには、こう書かれていた。


――蓋を開ける前に、注文を言葉で確認してください。


客はその紙をじっと見た。


「注文……」


「はい。察してほしい時ほど、まず自分の注文を確認してください」


客は紙を丁寧に折り、鞄にしまった。


立ち上がる時、さっきまで丸まっていた箸袋が、少しだけまっすぐに戻った。


「帰ったら、ひとつだけ言ってみます」


「何を?」


「今日は少し休みたい、って」


店員はうなずいた。


「それは、よい注文だと思います」


客は小さく頭を下げ、店を出ていった。


暖簾が揺れる。


テーブルには、空になった茶碗蒸しの器がひとつ。


蓋は、閉じられていなかった。


厨房では、料理長が器を見ながら、うずうずしていた。


「店主」


「言うな」


「まだ何も言ってません」


「顔に出ている」


「では、顔で報告します」


「するな」


料理長は両手を後ろに組んだ。


「銀杏、次は半分だけ入れてみませんか」


「入れない」


「四分の一」


「入れない」


「香りだけ」


「銀杏から離れろ」


料理長は名残惜しそうに、避けておいた銀杏の器を見た。


「でも、今日のお客さん、ちゃんと蓋を開けましたよ」


「そうだな」


「言葉の種も、苦くなりませんでした」


「溜めすぎる前だったからだ」


「じゃあ、成功ですね」


店主は空になった器を見た。


閉じたままの蓋は、いつか中身を熱くしすぎる。

けれど、無理やりこじ開ければ、客は驚いてまた閉じる。


今日は、自分で開けた。


それで十分だった。


「……記録しておけ」


店主が言った。


料理長の顔が明るくなる。


「採用記録ですか?」


「試験記録だ」


「成功って書いても?」


「小さくなら」


「小さく成功!」


「大きく言うな」


料理長は試作品置き場の札へ駆け寄り、小さな字で何かを書き込んだ。


店主は嫌な予感がして、すぐに確認する。


そこには、こう書かれていた。


察してほしい茶碗蒸し

試験提供:小さく成功

次回、銀杏の可能性あり


店主は無言で赤ペンを取った。


銀杏の可能性なし。


料理長が振り返る。


「店主!」


「報告前に書くな」


「小さく書きました」


「大きさの問題ではない」


料理長は少し唇を尖らせ、それでも楽しそうに笑った。


境界線食堂の厨房は、今日も少しだけ騒がしい。


客席には、蓋の開いた器がひとつ。


そこにはもう、すねた味は残っていなかった。


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