優しさ過積載プレート
境界線食堂のテーブルは、見た目よりも少しだけ丈夫にできている。
重たい悩みを置く客がいる。
言えなかった言葉を広げる客がいる。
誰かの感情を鞄いっぱいに詰めて持ってくる客もいる。
だから、普通の食堂よりも少しだけ頑丈に作られている。
それでも、その日、店員は窓際のテーブルを見て、少しだけ不安になった。
まだ客は来ていない。
それなのに、テーブルの脚が、かすかに震えていた。
「今日は、重い皿が来そうですね」
店員が呟くと、厨房の奥で料理長が元気よく返事をした。
「準備できてます!」
「それが不安です」
厨房では、大きな皿が調理台の上に置かれていた。
皿の上には、まだ何も乗っていない。
だが、皿そのものが少し身構えている。
店主はそれを見下ろし、眉間にしわを寄せていた。
「前回より皿が大きいな」
「受け止めるには器が必要ですから」
「皿を大きくすればいいという話ではない」
「でも、小さい皿だと乗りません」
「全部乗せるな」
料理長は少し黙った。
それから、にこっと笑った。
「まずは客席を見てからですね」
「今、全部乗せる気だったな」
「可能性として」
「過積載の可能性はいらない」
その時、店の戸がからりと開いた。
入ってきた客は、両手にいくつもの紙袋を提げていた。
買い物帰りというわけではなさそうだった。
袋の中身は見えない。
けれど、ひとつひとつの袋に小さな札がついている。
「念のため」
「困っていたら使って」
「これも必要かも」
「相手が喜ぶかもしれない」
「やってあげたほうが早い」
客はそれらを抱えたまま、少しよろけるように席へ着いた。
年齢は四十代くらいだろうか。
服装は落ち着いていて、声もやわらかい。
けれど、座った瞬間、客の足元に置かれた紙袋が、テーブルの下まで広がった。
店員は水を置きながら尋ねた。
「お荷物、お預かりしましょうか」
客は慌てて首を振った。
「いえ、大丈夫です。私が持っていた方がいいので」
「かなり多いように見えます」
「でも、必要かもしれないので」
「誰に?」
客は一瞬、答えに詰まった。
それから、困ったように笑った。
「家族に、ですかね。あと友人にも。職場の人にも少し」
店員は紙袋の札を見た。
「たくさんの方の分ですね」
「はい。私がやった方が早いことって、結構あるんです」
客はそう言って、どこか誇らしそうに笑った。
ただ、その笑い方は少し疲れていた。
「誰かが困る前に気づいてあげたいんです。足りないものがあったら出せるようにしておきたいし、相手が言う前に用意しておいた方がいいかなって」
「なるほど」
「でも最近、なんか重くて」
客は紙袋を見下ろした。
「自分で持ってるのに、重いって思うのも変ですよね」
テーブルの脚が、また少し震えた。
店員は厨房へ向かった。
厨房では、料理長がすでに皿の上に色々と乗せ始めていた。
小鉢。
主菜。
副菜。
汁物。
果物。
薬味。
予備の箸。
追加の毛布。
なぜか裁縫箱。
店主は無言で見ている。
「料理長」
「はい」
「それは何だ」
「優しさ過積載プレートです」
「過積載と自分で言っているな」
「仮名です」
「皿が曲がっている」
「心の広さで支えます」
「物理を無視するな」
料理長は大皿の端に、さらに小さな器を乗せようとした。
店主が止める。
「それ以上乗せるな」
「でも、これもあると便利です」
「便利と必要は違う」
「でも、相手が困った時に」
「相手はまだ困っていない」
料理長の手が止まった。
店主は客席を見た。
「全部出すな。選ばせる形にしろ」
料理長は少し考えてから、目を輝かせた。
「優しさビュッフェ方式!」
「名前を軽くするな」
「でも、方向性はそれですよね?」
「近い」
「やった」
「ただし、客に全部取らせるな。まず自分の皿を見せろ」
料理長は、乗せすぎた小鉢をいくつか下ろした。
大皿ではなく、小さな取り皿が用意される。
その中央に、ほどよい量の主菜。
隣に小さな小鉢を三つ。
残りの料理は、別の台に少し距離を置いて並べられた。
店員はそれを見てうなずいた。
「運べます」
店主は短く言った。
「出せ」
客席に運ばれてきた皿を見て、客は目を丸くした。
「これは……」
「優しさ過積載プレート、調整版です」
「調整版」
「はい。全部盛りではありません」
客は皿の横に置かれた小さな札を読んだ。
本日の形式:選べる優しさ
「選べる……」
店員は、客の前に小さな取り皿を置いた。
「こちらが、お客様ご自身の皿です」
「私の?」
「はい」
「でも、これは誰かのための料理じゃないんですか?」
「まず、お客様の皿に何を乗せるかを確認します」
客は少し戸惑った。
「私の皿に?」
「はい。お客様が今、実際に持てる量です」
客は紙袋の山を見た。
「私は、けっこう持てますよ」
「持てることと、持ち続けられることは違います」
客の指が止まった。
店員は続けた。
「まず、今この場で、ご自分が食べられる分だけ選んでください」
客は皿を見た。
主菜は、やわらかく煮た鶏肉だった。
小鉢には、温野菜、豆腐、少しだけ甘いかぼちゃ。
別の台には、他にもいろいろ並んでいる。
客は少し迷って、温野菜の小鉢を取ろうとした。
すると、紙袋のひとつがかさりと鳴った。
「これも必要かも」
客の手が止まる。
次に、鶏肉に箸を伸ばそうとすると、別の袋が膨らんだ。
「相手が喜ぶかもしれない」
客は眉を寄せた。
「なんか、選びづらいですね」
「はい」
「自分の分を取ろうとすると、他のことが気になります」
「そのようです」
「でも、先に自分の分を取るのって、わがままじゃないですか?」
店員は水を注ぎ足した。
「食事中に、自分の皿へ料理を取ることは、わがままではありません」
客は少し笑った。
「食堂だと、そうですね」
「食堂でなくても、近いことはあります」
客は黙った。
それから、温野菜をひとつ、自分の皿に乗せた。
紙袋の音が少し静かになる。
「ひとつだけなら、いけますね」
「はい」
「でも、家だとそうはいかないんです。私がやらないと、誰かが困るから」
「誰か、とは誰ですか?」
客は少し考えた。
「家族です。子どもとか、夫とか。あと親も」
「全員同じ皿ですか?」
「え?」
「それぞれ、持てる量は同じですか?」
客はすぐに答えられなかった。
店員は、別の小鉢を指した。
「これは、手伝いの小鉢です」
「手伝い」
「はい。差し出すことはできます。ただし、口元まで運ぶかどうかは別です」
客はその小鉢を見つめた。
「私は、口元まで運んでるかもしれません」
「はい」
「相手が食べる前に、食べやすい大きさに切って、冷まして、味見して、場合によっては代わりに食べてるかも」
「それは、もうお客様の食事ではありません」
客は少しだけ顔を伏せた。
テーブルの下の紙袋が、かさかさと揺れる。
「でも、やってあげないと不安なんです」
「相手が困ることが?」
「はい」
少し間が空いた。
「あと……私が冷たい人になることが」
店員は、その言葉を急いで拾わなかった。
客は、自分で言った言葉を聞くように黙っていた。
「私、優しい人でいたいんです」
「はい」
「でも、最近、優しくしてるはずなのに、イライラすることが増えて」
紙袋のひとつから、小さな湯気が上がった。
札には「これだけしてるのに」と書かれている。
店員はそれを見て、静かに言った。
「優しさが重くなると、見返りの湯気が出ることがあります」
客は苦笑した。
「嫌な湯気ですね」
「はい」
「私、見返りを求めてたんですかね」
「求めてはいけない、とは言いません」
客は顔を上げた。
「いいんですか?」
「何かを渡したら、受け取ってほしいと思うことはあります」
店員は、取り皿を指した。
「ただ、相手に確認せずに全部盛ると、相手は持ちきれません」
客は、別の台に並ぶ料理を見た。
「いらないって言われたら、傷つきます」
「はい」
「せっかく用意したのにって思います」
「はい」
「でも……用意したのは私ですね」
「はい」
その「はい」は、突き放す音ではなかった。
ただ、皿の位置を戻す音だった。
客は、鶏肉をひと切れ自分の皿へ乗せた。
今度は、紙袋が鳴らなかった。
「相手に選ばせるって、怖いですね」
「なぜですか?」
「私の優しさが、いらないって言われるかもしれないから」
店員は少しだけ頷いた。
「でも、選ばれなかった料理は、お客様そのものではありません」
客の箸が止まった。
「料理は、私そのものじゃない」
「はい。差し出したものです」
客は、自分の皿に乗った温野菜と鶏肉を見つめた。
「じゃあ、断られても、私が否定されたわけじゃない」
「必ずしも、そうではありません」
客は小さく息を吐いた。
「それ、覚えておきたいです」
「お代に向いていますね」
客は少し笑った。
「もうお題の話ですか?」
「食べ終わってからです」
客は、ようやく一口食べた。
鶏肉はやわらかく、温野菜はほのかに甘い。
味は、思ったよりも控えめだった。
「もっと濃い味かと思いました」
「優しさは、濃すぎると疲れます」
客は笑いそうになって、少しだけ涙目になった。
「わかる気がします」
それから、客は一つずつ、自分の皿へ料理を取った。
全部は取らなかった。
台の上には、まだ小鉢が残っている。
最初はそれが気になって仕方ないようだった。
けれど、食べ進めるうちに、客の紙袋がひとつずつ小さくなっていった。
「これ、残してもいいんですか?」
客が尋ねた。
「はい」
「もったいなくないですか?」
「必要になった時に、また出せます」
「今、全部出さなくても?」
「はい」
客は、台の上の小鉢を見た。
「相手が欲しいと言った時に、渡せばいい」
「それも一つの方法です」
「先に全部並べなくてもいい」
「はい」
客はしばらく黙っていた。
そして、小さく言った。
「私、優しい人でいるために、ずっと準備しすぎてたのかもしれません」
店員は何も足さなかった。
客は自分の皿を見た。
「自分の皿、空っぽでしたね」
「今は、少し乗っています」
客はうなずいた。
「はい」
その声は、入ってきた時より少しだけ軽かった。
食べ終えた客は、紙袋を見た。
まだいくつか残っている。
けれど、最初のように膨らんではいなかった。
客はそのうちのひとつ、「念のため」と書かれた袋を手に取り、中を覗いた。
中には、予備の予備の予備が入っていた。
客は苦笑する。
「これは、今日は置いて帰ります」
「お預かりします」
「捨てなくてもいいんですか?」
「必要ないと確認できたら、その時で構いません」
客はほっとした顔をした。
「じゃあ、少しだけ」
店員は袋を受け取った。
その袋は、見た目よりずっと軽かった。
「お代は、お題でしたよね」
客が言った。
店員は小さな紙を差し出した。
そこには、こう書かれていた。
――全部渡す前に、相手が持てる量を見てください。
客は紙を読んで、少し考えた。
「これ、自分にも使えますか?」
「もちろんです」
店員は言った。
「全部抱える前に、自分が持てる量も見てください」
客は、紙を丁寧に鞄へしまった。
席を立つ時、テーブルの脚はもう震えていなかった。
「帰ったら、ひとつだけ聞いてみます」
「何を?」
「手伝ってほしいこと、ある? って。勝手に全部やる前に」
店員はうなずいた。
「よい確認だと思います」
客は小さく頭を下げ、店を出ていった。
暖簾が揺れる。
客の手には、まだ紙袋がいくつか残っていた。
けれど、両手をふさぐほどではなかった。
厨房では、料理長が別の台に残った小鉢を見ていた。
「店主」
「何だ」
「ビュッフェ方式、悪くないですね」
「全部盛りよりはな」
「でも、台に残った料理、少し寂しそうです」
「料理に寂しがらせるな」
「残された優しさにも出番が」
「必要になった時でいい」
料理長は少し考えた。
「じゃあ、“優しさ予約台”ですか?」
「名前を増やすな」
「“必要な時にどうぞコーナー”」
「軽すぎる」
「“選べる優しさ置き場”」
店主は少しだけ黙った。
料理長が目を輝かせる。
「今の、ありですか?」
「仮だ」
「仮採用!」
「仮だ」
料理長は試作品置き場の札に小さく書き込んだ。
優しさ過積載プレート
試験提供:全部盛り不可
形式:選べる優しさ置き場(仮)
注意:皿を曲げない
店主はそれを見て、赤ペンを取った。
料理長が身構える。
店主は最後の一行にだけ、短く書き足した。
受け取る側の手首も見ること。
料理長は、その文字を見て、少し静かにうなずいた。
「……はい」
厨房の奥で、鍋がやわらかく鳴った。
境界線食堂の客席には、空になった取り皿がひとつ。
その皿は、小さかった。
けれど、ちゃんと満たされていた。




