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境界線食堂  作者: 珠諳


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閑話 調味料棚の注意書き

開店前の境界線食堂は、客席よりも厨房のほうが騒がしい。


まだ暖簾は出ていない。


客席の椅子はきれいに並び、テーブルの上には伏せられたグラスが静かに光っている。けれど厨房の奥からは、包丁の音、鍋の煮える音、瓶の蓋が開く音、そして誰かの鼻歌が聞こえていた。


店主は帳簿を閉じ、ゆっくり立ち上がった。


「……今日は、匂いが強いな」


厨房に足を踏み入れると、湯気の向こうで料理長が何かを刻んでいた。


まな板の上には、細切りにされた「頼まれていない責任」が山になっている。横の鍋では「察しすぎ」が弱火で煮込まれ、泡がぷくり、ぷくりと浮かんでは消えていた。


料理長は店主に気づくと、木べらを振った。


「おはようございます、店主!」


「木べらを振るな。飛ぶ」


「大丈夫です。まだ何も飛んでません」


「“まだ”と言うな」


料理長は笑って、また鍋に向き直った。


店主はため息をつき、厨房の奥へ進む。


壁際には、調味料棚がある。


普通の店なら、塩、砂糖、醤油、酢、油が並ぶところだろう。だが境界線食堂の棚には、もう少し扱いに困るものが並んでいた。


棚の前には、料理長の字で注意書きが貼られている。


丸くて読みやすいのに、妙に勢いのある字だ。ところどころ、文字が踊っている。


店主は一番左の小さな壺を見た。


【遠慮の塩】


入れすぎると、自分の味が消えます。

控えめに見えて、実はかなり強い調味料です。

使用後は、本音の出汁で味を戻してください。


店主は蓋を少しだけ開けた。


中の塩は、普通の塩よりずっと細かい。指先に乗せると、すぐに消えた。


「相変わらず、厄介な塩だ」


少量なら角が取れる。

入れすぎると、何を食べているのかわからなくなる。


この塩を山ほど入れた皿を食べた客は、だいたいこう言う。


「お腹はいっぱいなのに、何も食べた気がしません」


店主は蓋を閉じた。


その隣には、琥珀色の液体が入った瓶がある。


【本音の出汁】


料理の芯を作ります。

ただし、沸騰させると怒鳴り声になります。

火加減に注意。

沈んでいる言葉は、よく振ってから使ってください。


瓶の底には、金色の粒が沈んでいた。


店主が瓶を持ち上げると、奥から料理長の声が飛んできた。


「それ、今日の分はまだ薄めないでくださいねー!」


「聞こえている」


「今日のお客さん、たぶん本音を出す前に遠慮を三杯入れてくるタイプです。最初から薄めると、ただの優しいお湯になります!」


「……優しいお湯」


「飲みやすいだけで、何も残りません!」


店主は瓶を棚に戻した。


言い方は軽いが、料理長の勘はよく当たる。


次に目に入ったのは、白く濁った粉の袋だった。


触る前から、少し湿気ているのがわかる。


【罪悪感の片栗粉】


何にでも絡みます。

入れすぎると、すべてが自分の責任のような食感になります。

湿気を吸うと剥がれにくくなります。

開封後は早めに使い切ってください。

放置厳禁。


店主は眉を寄せた。


「また湿気ているな」


「えっ、またですか?」


料理長が振り向く。


「蓋は閉めたのか」


「閉めました!」


「いつ」


「たぶん昨日!」


「たぶん、で扱うな」


料理長は粉の袋を見て、首をかしげた。


「おかしいなぁ。誰かのため息でも入ったんですかね」


「言い訳を調味料にするな」


「でも新メニューに使えそうです」


「使うな」


罪悪感の片栗粉は、本当に面倒な粉だ。


少しなら、料理にまとまりが出る。

多すぎると、何もかもが自分の皿にくっついてくる。


相手の機嫌。

家族の沈黙。

昔言われたひと言。

まだ起きていない未来の失敗。


全部にとろみがつく。


店主は袋の口を固く閉じ直した。


「これは棚の奥に置け」


「だめです。奥に置くと忘れてもっと湿気ます」


「……それもそうだな」


言い返せなかった。


料理長はなぜか得意げな顔をした。


次は、妙に派手な瓶だった。


金色のラベル。見る角度で色が変わるソース。客席の照明の下なら、きっとよく映える。


【他人軸ソース】


見た目は華やかになります。

周囲の評価に合わせて色が変わります。

かけすぎると、誰の料理かわからなくなります。

白い皿には色移りします。

使用前に「これは本当に必要ですか」と三回確認してください。


店主は瓶に触れなかった。


このソースは、客に人気がある。


少しかけるだけで、皿が立派に見える。


「ちゃんとしてますね」

「気が利きますね」

「あなたがいて助かります」


そういう味がする。


ただし、かけすぎると危ない。


「これ、何味だ?」


食べている本人もわからなくなる。


奥から料理長が言った。


「でも、完全に抜くと今度は孤立の岩塩みたいな味になるんですよね」


「その試作品はまだ出すな」


「出してません。置いてあるだけです」


「どこに」


「秘密です」


「捨てろ」


「まだ味見してないのに!」


店主は目を閉じた。


この料理長は、放っておくとすぐ何かを作る。


以前も「正論の黒胡椒」を試作していた。少量なら味が締まるが、入れすぎると客が泣く。今は店主が鍵付きの棚にしまっている。


その隣には、小さな缶があった。


蓋の隙間から、まっすぐな香りがする。


【自分軸スパイス】


最初は辛く感じることがあります。

慣れると後味がまっすぐになります。

人によって適量が違います。

少量からお試しください。


店主は、その缶だけは手に取らなかった。


これは、客自身が少しずつ慣れるしかない。


店が出せるのは、ほんの一振りまでだ。


最初は辛いと言う客もいる。


「こんな味、わがままじゃないですか」

「人に嫌われませんか」

「前の味のほうが安全でした」


そう言いながらも、二口目を食べる客がいる。


そういう客は、次に来る時、ほんの少し背筋が伸びている。


店主は、それを見るのが嫌いではなかった。


次の瓶には、乾いた葉が入っている。


【我慢の乾燥ハーブ】


少量なら風味になります。

古くなると、香りではなく苦味だけが残ります。

「まだ使える」は危険です。

使用前に必ず確認してください。


店主は瓶を軽く振った。


からから、と乾いた音がする。


我慢にも、使いどころはある。


だが、古くなった我慢は苦い。


「これ、まだ使えますかね?」


料理長が横から覗き込む。


「匂いを嗅げ」


料理長は瓶の蓋を開け、鼻を近づけた。


一秒。


二秒。


「……これは、やめましょう」


「そうしろ」


料理長は素直に瓶を脇へ置いた。


こういうところは早い。


最後に、棚の右端。


透明な瓶があった。


中には、薄く光る油が入っている。傾けると、ゆっくり動いた。


【境界線オイル】


食材同士をくっつけすぎません。

混ぜる前に、まず一滴。

相性の悪い素材を無理に一体化させないでください。

分離は失敗ではありません。

必要な距離を保つことで、料理が成立する場合があります。


店主は瓶を持ち上げた。


「これは、もう少し多めに仕込んでおけ」


「毎日仕込んでますよ」


料理長が胸を張る。


「それなのに減りが早い」


「必要なところに飛んでるんです」


「こぼしているんだな」


「飛んでるんです」


「こぼしている」


「必要なところに、勢いよく、飛んでるんです」


店主は瓶を棚に戻した。


言い方はどうあれ、境界線オイルはいくらあっても足りない。


親切と自己犠牲。

共感と同化。

責任と支配。

優しさと我慢。


似ているものほど、皿の上でくっつきやすい。


くっつきすぎると、どちらの味もわからなくなる。


だから、この一滴がいる。


料理長は棚の前で腕を組み、満足そうにうなずいた。


「いい棚ですねぇ」


「危険物置き場の間違いだ」


「言い方!」


「事実だ」


店主は、棚に並んだ調味料を見渡した。


遠慮の塩。

本音の出汁。

罪悪感の片栗粉。

他人軸ソース。

自分軸スパイス。

我慢の乾燥ハーブ。

境界線オイル。


どれも、扱いを間違えると料理を壊す。


けれど、どれも完全に悪いものではない。


問題は、量と順番と火加減。


そして、その一皿が誰のためのものなのか。


料理長は、それを鼻歌まじりに見分ける。


店主には、それが少し不思議だった。


「よく、これだけのものを使いこなすな」


言ってから、店主は少し後悔した。


料理長が、ぱっと顔を上げる。


「今、褒めました?」


「確認しただけだ」


「褒めましたよね」


「確認だ」


「店主が褒めたー!」


「鍋を見ろ」


「はいはい、見まーす」


料理長は軽い足取りで調理台へ戻っていった。


湯気の向こうで、木べらがくるりと回る。


重すぎる素材を、食べられる皿に変える。

苦すぎる記憶に、香りを足す。

飲み込めなかった言葉を、スープに溶かす。


あれを楽しそうにやる者を、店主は他に知らない。


あいつの腕は、やはり少しおかしい。


褒め言葉ではない。


たぶん。


その時、奥から料理長の声がした。


「あっ、店主ー!」


「今度は何だ」


「罪悪感の片栗粉、また湿気吸ってます!」


「今、閉めたばかりだろう」


「誰かのため息が入りました!」


「だから言い訳を調味料にするな」


「新メニュー名、ため息あんかけ定食とかどうです?」


「却下だ」


「早い!」


客席の時計が、開店十分前を告げた。


店主は、棚の注意書きをまっすぐに直す。


料理長は鍋をかき混ぜながら、また鼻歌を歌い始めた。


今日も誰かが、自分のものではない味を抱えて、この店に来るのだろう。


その皿をどう出すかは、まだわからない。


だが、この厨房には、扱いに困る調味料を前にして笑える料理長がいる。


それだけで、料理は少しだけ救われる。


店主は厨房を出て、暖簾に手をかけた。


外の空気が、店内へ流れ込む。


境界線食堂、本日も開店である。


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