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境界線食堂  作者: 珠諳


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閑話 試作品置き場

境界線食堂の厨房には、店主の許可なく客席へ出してはいけない場所がある。


冷蔵庫の奥ではない。

鍵付きの調味料棚でもない。

ましてや、正論の黒胡椒を封印している小さな戸棚でもない。


それは、厨房の一番端にある細長い台だった。


白い布がかけられ、上には小さな札が立っている。


【試作品置き場】


その下に、料理長の字でこう書かれていた。


店主の許可が出るまで、客席には出さないこと。

ただし、まかないは除く。


店主はその札を見て、眉間にしわを寄せた。


そして、いつものように赤いペンを取り出す。


ただし、まかないも除くな。


そう書き足すと、ちょうど奥から料理長が顔を出した。


「あっ、店主。そこ、勝手に追記しないでください」


「勝手に危険物をまかないにするな」


「危険物じゃありません。可能性です」


「皿に乗せた危険物を、可能性と呼ぶな」


料理長は不満そうに口をとがらせた。


「まだ味見もしてないのに」


「味見の前に、見た目でわかるものがある」


「見た目で判断するのはよくありませんよ」


「料理から煙が出ている」


「演出です」


「皿が震えている」


「躍動感です」


「札に“自己責任でお召し上がりください”と書いてある」


「親切な注意書きです」


店主は深く息を吐いた。


開店前。


本来なら、厨房は仕込みの時間である。


米を炊き、出汁を取り、鍋を温め、客席の空気を整える。


だが今日は、料理長がいつもより早く来ていた。


嫌な予感はしていた。


料理長が早く来る日は、だいたい何かを作っている。


普通の料理ではない。


客のための料理でもない。


本人いわく、ひらめきの試作。


店主いわく、未承認の混乱。


試作品置き場には、すでに三つの皿が並んでいた。


ひとつ目の皿には、色鮮やかな野菜炒めが盛られている。


見た目だけなら、悪くない。


赤、黄、緑の野菜がつやつやと光り、湯気も立っている。香りも甘辛く、食欲をそそる。


ただ、皿の横に置かれた札がよくなかった。


【お前のために言ってるんだよ炒め】


店主は無言で札を見た。


料理長は胸を張った。


「どうです?」


「名前からして出せない」


「ええっ、早い!」


「客席に出す前に、客が逃げる」


「でも、味はかなりリアルですよ。『あなたのため』という名の他人軸ソースをベースに、遠慮の塩をしっかり効かせてあります」


「しっかり効かせるな」


「一口食べると、“あれ? 私が間違ってるのかな?”って気持ちになります」


「客を混乱させるな」


「二口目で、“でも、この人も私のことを思って言ってくれてるのかも”ってなります」


「洗脳するな」


「三口目で、自分の意見がすっと消えます」


「今すぐ廃棄しろ」


料理長は皿を守るように両手を広げた。


「待ってください! これは危険性を知るための料理です!」


「危険性は今知った」


「なら成功では?」


「出せない成功もある」


店主は炒め物の匂いをかいだ。


たしかに、味の方向はよくできている。


甘い。


優しそうな甘さだ。


そこに、遠慮の塩が効いている。自分の味が少しずつ薄まっていく、あの嫌な塩気。


さらに、他人軸ソースの照り。


見た目は立派だ。

相手のためを思っているように見える。

皿の上だけなら、親切にも見える。


だが、箸を入れた瞬間にわかる。


これは、客の舌を奪う。


店主は札を裏返した。


「却下だ」


「せめて一口」


「却下だ」


「まかないなら」


「却下だ」


「料理長特権で」


「ない」


「厳しい!」


料理長は悔しそうに唇を尖らせたが、すぐに隣の皿へ移動した。


切り替えが早い。


そこは少しだけ尊敬している。


少しだけだ。


二つ目の皿は、グラタンだった。


表面のチーズはこんがり焼けている。


いや、焼けすぎている。


ところどころ黒い。


皿の縁からは、ぐつぐつと中身があふれ、器そのものが小刻みに揺れていた。


札には、こう書かれている。


【被害妄想の過加熱グラタン】


店主はこめかみを押さえた。


「名前」


「はい!」


「変えろ」


「そこからですか?」


「そこからだ」


料理長はメモを取り出した。


「えーっと、じゃあ……“未来不安の熱々グラタン”?」


「まだ熱い」


「“まだ起きてない不安の過加熱グラタン”?」


店主は少し黙った。


料理長が目を輝かせる。


「今、少し迷いましたね?」


「迷っていない」


「迷いました」


「名前だけは、前よりましだ」


「やった!」


「料理としては却下だ」


「早い!」


店主はグラタンの皿を見下ろした。


中には、罪悪感の片栗粉でとろみをつけた白いソース。

その上に、まだ起きていない未来の不安。

さらに、誰かに言われたわけでもない責任感。

最後に、焦げるまで焼かれた思い込みのチーズ。


器の底から、ぼこっ、と泡が出た。


泡は小さく破裂して、こう囁いた。


「きっとまた失敗する」


店主は無言で蓋をした。


料理長が説明を続ける。


「この料理はですね、まだ何も起きていないのに、頭の中で何度も火を入れてしまう状態を表現しています」


「表現はできている」


「でしょう?」


「だからこそ出せない」


「ええー」


「器が熱すぎる。客が触れない」


「そこは店員が運べば」


「店員も触れない」


「鍋つかみで」


「そういう問題ではない」


グラタンの表面が、またぐつぐつ鳴った。


「どうせ無理」

「また同じことになる」

「先に全部考えておかないと」


店主は、さらに蓋を押さえた。


「火を止めろ」


「でも、もう少し焼いたら香ばしく」


「炭になる」


「不安の香ばしさって、ちょっと気になりません?」


「ならない」


「少しだけ」


「ならない」


料理長はしぶしぶ火を弱めた。


店主は札を手に取り、裏に赤字で書き加える。


未調整。

火加減注意。

客席提供不可。


料理長が覗き込む。


「“未調整”ってことは、調整すれば?」


「今は出せない」


「今は、ですね?」


「言葉尻をつかむな」


「料理長は可能性を拾う仕事なので」


「落ちている危険物まで拾うな」


料理長はにこにこしている。


店主は、嫌な予感を抱えたまま、三つ目の皿を見た。


それは、ワンタン麺だった。


たぶん。


丼の中には、麺らしきものが沈んでいる。


スープもある。


具もある。


だが、ワンタンが全部くっついていた。


皮と皮が離れず、スープと同化し、麺を巻き込み、丼の中央でひとつの大きな塊になっている。


札には、勢いのある字でこう書かれていた。


【境界線ゼロ距離ワンタン麺】


店主はしばらく黙った。


料理長も黙った。


厨房のどこかで、鍋が小さく鳴った。


「……これは」


「はい」


「茹ですぎた小麦粉の塊だ」


「料理です!」


「料理の体をなしていない」


「でも、テーマ性はあります!」


「テーマ性で噛み切れると思うな」


料理長は丼を回しながら説明した。


「これは、相手との距離が近すぎて、どこからどこまでが自分かわからなくなる状態を表現しています」


「表現はできている」


「でしょう?」


「だからこそ失敗している」


「ええー」


店主は箸を入れようとした。


入らなかった。


ワンタンの塊が、丼全体を抱き込んでいる。


少し力を入れると、皮が破れ、中から熱い具が出てきた。


それがスープと混ざり、さらにわからなくなる。


料理長が明るく言った。


「誰の領域かわかりません!」


「わかってたまるか」


「共感と同化を、もちもち食感で」


「くっつきすぎだ」


「境界線オイル、足りませんかね」


「足りないどころか、入っていない」


「入れ忘れました」


「それがすべてだ」


店主は丼を試作品置き場の端へ押した。


「却下」


「でも、名前は良くないですか?」


店主は黙った。


料理長が身を乗り出す。


「今、また少し迷いましたね?」


「迷っていない」


「迷いました」


「名前だけなら、短くして使えるかもしれない」


「やった!」


「料理は作り直しだ」


「はい!」


返事だけはいい。


店主は赤ペンで札を書き換えた。


【ゼロ距離ワンタン麺】


その下に、小さく追記する。


境界線オイル必須。

皮同士をくっつけすぎない。

共感と同化を混ぜるな。


料理長はその文字を見て、満足そうにうなずいた。


「いいですねぇ。客席に出せそうな気配がしてきました」


「気配だけだ」


「気配、大事です」


「出せるとは言っていない」


「でも、完全却下ではない」


「……」


「店主?」


「次に行く」


「逃げましたね」


「次に行く」


試作品置き場には、三皿だけではなかった。


なぜか、布の下にまだ何かが隠れている。


店主はその膨らみを見た。


「まだあるのか」


料理長は目を逸らした。


「少しだけ」


「少し、とは」


「五つほど」


「多い」


「ひらめきが止まらなくて」


「止めろ」


店主は布をめくった。


そこには、小さな皿がいくつも並んでいた。


【ため息あんかけ定食】

【孤立の岩塩おにぎり】

【察してほしい茶碗蒸し】

【正論だけで炊いた硬めご飯】

【優しさ過積載プレート】


店主は布を戻した。


料理長が慌てる。


「見なかったことにしないでください!」


「見なかったことにしたい」


「せめて説明だけでも」


「いやだ」


「ため息あんかけ定食はですね、吐き出せなかった疲れをやわらかい餡にして」


「罪悪感の片栗粉は使ったのか」


「少し」


「却下だ」


「早い!」


「ため息に罪悪感を絡めるな」


「でも今回は反省ではなく呼吸のとろみです」


「その言い方でごまかせると思うな」


料理長は悔しそうにメモを取った。


「では、罪悪感の片栗粉は抜きます」


「抜いたら見せろ」


「えっ」


店主は一瞬、しまった、という顔をした。


料理長がにやりと笑う。


「今、見せろって言いましたね?」


「調整後の確認だ」


「つまり可能性あり」


「まだ言っていない」


「料理長、聞き逃しません」


「聞き流せ」


料理長は楽しそうに、ため息あんかけ定食の札を大事そうに持った。


店主は、次の札を見た。


【孤立の岩塩おにぎり】


小さなおにぎりがひとつ。


見た目は普通だ。


ただ、周囲に誰も近づけないような気配がある。


皿の上に、ぽつんと置かれている。


「これは?」


料理長が説明する。


「他人軸ソースを完全に抜いた結果、誰とも混ざらなくなったおにぎりです。塩気が強く、噛むほどに“誰にも頼らない”味がします」


「出すな」


「やっぱり?」


「孤立を自立と間違える客が出る」


「なるほど」


「塩を減らせ。あと、味噌汁をつけろ」


料理長は目を丸くした。


「味噌汁?」


「完全に一人で完結させるな」


「……店主、たまに優しいこと言いますね」


「料理の話だ」


「はいはい」


次の皿は、茶碗蒸しだった。


蓋が少しだけ震えている。


【察してほしい茶碗蒸し】


店主は蓋を開けなかった。


「これは?」


「開けるまで中身がわかりません。でも開け方を間違えると、すねます」


「料理がすねるな」


「中に“言わなくてもわかってほしかった銀杏”が入っています」


「抜け」


「えー、そこが主役なのに」


「主役にするな」


「でも、たまに入ってますよね。言わなくてもわかってほしい銀杏」


「入っているから困る」


店主は蓋の上に札を置き直した。


「これは、客に出すなら説明がいる」


「どんな説明です?」


店主は少し考えた。


「蓋を開ける前に、言葉で注文を確認してください」


料理長が拍手した。


「それ、いいですね!」


「拍手するな。手を洗え」


「洗ってます!」


「今、札を触った」


「あっ」


料理長は慌てて流しへ向かった。


その間に、店主は次の皿を見る。


【正論だけで炊いた硬めご飯】


炊飯釜の中に、妙に粒立ちのいいご飯が入っている。


粒は立っている。


立ちすぎている。


箸でつまむと、少し刺さりそうだった。


店主は無言で蓋を閉めた。


戻ってきた料理長が言う。


「あっ、それは自信作です」


「炊き直せ」


「早い!」


「水が足りない」


「でも正しいです」


「正しくても飲み込めない」


「よく噛めば」


「客に努力を強要するな」


料理長は少し考えた。


「じゃあ、優しさの白湯を添えます?」


「米を炊く時点で入れろ」


「なるほど!」


「なるほど、ではない。基本だ」


最後の皿は、大きかった。


大きすぎた。


野菜、肉、魚、小鉢、汁物、漬物、甘味、飲み物。


全部乗っている。


皿の端から端まで、ぎっしり。


札にはこうある。


【優しさ過積載プレート】


店主は黙って料理長を見た。


料理長は目を逸らした。


「これは?」


「よかれと思って」


「それがまず危ない」


「相手に必要そうなものを全部乗せました」


「乗せすぎだ」


「でも、足りないよりは」


「皿が曲がっている」


「心の広さで」


「物理を無視するな」


大皿は、たしかに少ししなっていた。


優しさそのものは悪くない。


だが、積みすぎれば、受け取る側の手首が折れる。


店主は小鉢をいくつか下ろした。


「出すなら、選ばせろ」


「選ばせる?」


「全部渡すな。必要なものを客に選ばせる」


料理長は、ぽかんとしたあと、メモを取った。


「優しさビュッフェ方式……」


「勝手に名前をつけるな」


「でもいいですね、それ」


「まだ言っていない」


「言いました」


「言っていない」


「店主、今日はけっこう採用寄りですね」


「却下のほうが多い」


「でも、全部は捨ててない」


店主は答えなかった。


料理長はにこにこしている。


試作品置き場には、危うい皿が並んでいる。


そのまま出せば、客を混乱させる。

胃もたれさせる。

逃げ場をなくす。

自分の味を見失わせる。


だが、まったく使えないわけでもない。


発想だけは、悪くない。


発想だけは。


店主は、赤ペンを置いた。


「いいか」


「はい」


「試作品は、試作品置き場までだ」


「はい」


「客席に出すな」


「はい」


「まかないにもするな」


「はい」


「勝手に新メニュー札を書くな」


「はい」


「返事だけで済ませるな」


「はい」


「……」


「はい」


「今、わかっていないだろう」


料理長はにっこり笑った。


「わかってます。店主の許可が出るまで出しません」


「本当だな」


「ただし、店主が“調整すれば出せる”と言ったものは、改良します」


「……」


「ゼロ距離ワンタン麺と、ため息あんかけ定食と、孤立の岩塩おにぎりと、察してほしい茶碗蒸しと、優しさ過積載プレート」


「増えている」


「可能性です」


「危険物だ」


「危険物にも、火加減があります」


店主は反論しようとして、やめた。


それを言われると、少しだけ困る。


境界線食堂の料理は、いつもそうだ。


危ないものを、危ないまま出すわけにはいかない。


だが、危ないからといって、すべて捨てればいいわけでもない。


遠慮も、罪悪感も、不安も、優しさも、孤独も、察してほしさも。


どれも、客の中に実際にある。


なかったことにはできない。


料理にするには、火加減がいる。


距離がいる。


余白がいる。


そして、たぶん少しの笑いもいる。


店主は、試作品置き場をもう一度見た。


料理長は、期待に満ちた顔でこちらを見ている。


その顔を見て、店主は小さく息を吐いた。


「ため息あんかけ定食」


「はい!」


「罪悪感の片栗粉は抜け」


「はい!」


「呼吸のとろみ、とやらを使うなら、まず軽くしろ」


「はい!」


「主菜ではなく、小鉢から試せ」


「はい!」


「客席には出さない。まず、店員に味見させる」


料理長の顔が明るくなった。


「採用ですか?」


「試験だ」


「ほぼ採用!」


「違う」


「料理長、腕が鳴ります!」


「鳴らす前に片付けろ」


「はい!」


料理長は、ため息あんかけ定食の札を持って、厨房の奥へ走っていった。


店主はその背中を見送りながら、試作品置き場の札をもう一度見た。


店主の許可が出るまで、客席には出さないこと。

ただし、まかないは除く。

ただし、まかないも除くな。


その下に、いつの間にか小さな文字が増えていた。


ただし、可能性は除く。


店主はしばらくそれを見つめた。


そして赤ペンを手に取る。


可能性も、まず報告しろ。


そう書き足して、店主は暖簾を出しに向かった。


厨房の奥では、料理長が楽しそうに鼻歌を歌っている。


今日の境界線食堂は、開店前から少し騒がしい。


そしてたぶん、明日も騒がしい。


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