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境界線食堂  作者: 珠諳


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3/16

家族なんだから鍋

境界線食堂の暖簾は、今日も路地裏で静かに揺れていた。


表通りから一本入り、さらに細い道を曲がった先。

そこだけ街の音が少し薄くなる。

夜風は冷たいのに、店の入口からは湯気のような温度が漏れていた。


暖簾には、いつもの文字。


**境界線食堂**


その下に、小さく一文。


**本日も、あなたの境界線を調理します。**


私は暖簾の前で、しばらく立ち止まった。


今日は、別に来るつもりはなかった。

本当にない。

ただ、帰り道にたまたまこの路地を通り、たまたま灯りがついていて、たまたま胃の奥に重たいものがあっただけだ。


つまり、だいたい来る時の理由は同じだった。


「……いらっしゃい」


暖簾をくぐると、店主は白い割烹着姿で鍋の前に立っていた。

若いようにも、ずっと昔からここにいるようにも見える、不思議な人だ。


カウンターの上には、すでに卓上コンロが用意されていた。


嫌な予感がした。


「まだ何も頼んでません」


「今日は、鍋です」


「決定事項なんですね」


「ええ」


店主は、手書きの札をカウンターに置いた。


**家族なんだから鍋**


私は札を見て、無言になった。


名前だけで胃が身構えた。

まだ火もついていないのに、すでに重い。


「……具材は何ですか」


「いろいろ入っています」


「その言い方が怖い」


店主は土鍋を運んできた。


大きな鍋だった。蓋は重そうで、湯気が縁から少し漏れている。

中からは、だしのいい香りがした。

白菜、鶏肉、豆腐、きのこ、ねぎ。普通に考えれば、寒い夜にぴったりの温かい鍋だ。


ただ、蓋の上に貼られた紙がよくなかった。


**取り皿禁止**


「待ってください」


私は即座に言った。


「取り皿禁止って何ですか」


「家族なんだから、鍋はひとつで」


「嫌な予感しかしない」


「皆で同じ鍋を囲む温かさがあります」


「そこだけ聞くと良い話なのに」


「ええ。そこだけなら」


店主は蓋を開けた。


湯気が一気に立ち上った。

鍋の中には、たしかに具材がたっぷり入っていた。

白菜、豆腐、鶏肉団子、しいたけ、春菊、しらたき。見た目はとてもおいしそうだ。


ただし、鍋の中央に、明らかに異物があった。


小さな木の札が、具材に混ざって浮かんでいる。


**長女だから**

**親なんだから**

**家族なんだから当然**

**昔お世話したでしょ**

**みんな我慢してる**

**これくらいやってよ**


私は静かに蓋を閉めた。


「無理です」


「まだ食べていません」


「見ただけで胸やけしました」


「よく煮込まれていますから」


「煮込まないでください、そういうの」


店主は平然とコンロに火をつけた。


ぐつぐつと鍋が鳴り始める。

音だけなら温かい。家で食べる鍋の音だ。寒い日に、誰かと囲めば、きっと心までほぐれる音。


でも、さっき見えた札のせいで、湯気まで重く見えた。


「家族を大事にすることは、悪いことではありません」


店主が言った。


「それは、わかります」


私はカウンターに肘をついた。


「家族だから助け合うとか、困った時に支えるとか、そういうのは良いと思います」


「はい」


「でも、家族なんだからって言葉で、何でも押しつけられるのは違う」


鍋が、ぐつりと大きく鳴った。


まるで反論するみたいだった。


店主は菜箸で鍋をかき混ぜた。木札がスープの中をぐるぐる回る。


「この鍋は、良いだしも出ます」


「良いだし?」


「思いやり、安心感、つながり、居場所。よく煮込むと、とても温かい味になります」


「それはいいですね」


「ただし、境界線を入れ忘れると」


店主は鍋から木札を一枚つまみ上げた。


**お前だけ我慢して**


「こうなります」


「最悪の具材」


「味が濁ります」


私は鍋を見つめた。


たしかに、家族という言葉には温かさがある。

何も言わなくても通じる感じ。困った時に手を貸してもらえる安心。

帰る場所がある心強さ。


でも、同じ言葉が、ときどき鎖になる。


家族なんだから断るな。

家族なんだから怒るな。

家族なんだから許せ。

家族なんだから察しろ。

家族なんだから犠牲になれ。


言われた瞬間、自分の輪郭が少し薄くなる。


「お客様」


店主が、小さな器を差し出した。


「取り皿です」


「禁止じゃなかったんですか」


「禁止と書いてある鍋ほど、取り皿が必要です」


私は思わず笑った。


「それ、かなり大事なこと言ってません?」


「鍋は、ひとつでも構いません」


店主は静かに言った。


「でも、食べる器はそれぞれ別でいい」


その言葉に、私は少し黙った。


店主は続ける。


「同じ家で暮らしていても、同じ問題を抱えていても、同じ血が流れていても、感じ方も限界も違います。鍋を囲むことと、器を奪うことは違います」


私は取り皿を受け取った。


白い小さな器だった。何の変哲もない。でも、手の中にあるだけで少し安心した。


「じゃあ、いただきます」


私は鍋から白菜を取ろうとした。


その瞬間、鍋の中から箸が伸びた。


いや、箸ではない。

ねぎだった。


長いねぎが、こちらの取り皿に勝手に具材を押し込んできた。


「え?」


白菜、豆腐、鶏肉、春菊、しらたき。

どんどん入ってくる。


「ちょ、ちょっと待って」


私は取り皿を引いた。


だが、鍋の中の具材たちは妙に積極的だった。

しいたけがぷかぷか寄ってくる。

豆腐が自ら崩れながら滑り込もうとする。鶏肉団子まで、ころんと皿に飛び込んできた。


「多い、多いです」


「家族なんだから鍋ですので」


店主が言った。


「食べられる量を聞かずに、愛情を盛ります」


「迷惑な愛情!」


「残すと傷つきます」


「厄介すぎる!」


取り皿は一瞬で山盛りになった。


湯気は温かい。具材もおいしそうだ。

でも、こちらの腹具合を無視して盛られると、温かさが圧に変わる。


「これ、食べきれないです」


私が言うと、鍋の中の木札がぷかりと浮いた。


**せっかく作ったのに**


胸が少し詰まった。


それは、ずるい言葉だった。

優しさのような顔をして、こちらの罪悪感をつついてくる。


店主が、静かに別の札を差し出した。


**食べられる分だけでいい**


「こちらを入れてください」


私は札を受け取り、鍋に入れた。


すると、鍋のぐつぐつが少し落ち着いた。

勝手に皿へ飛び込もうとしていた具材たちも、ゆっくり鍋の中に戻っていく。


「効いた……」


「境界線だしです」


「だしなんですか」


「はい。鍋には欠かせません」


私は山盛りになった取り皿から、食べられる分だけ残し、少し鍋に戻した。罪悪感がまったくないわけではない。でも、戻しても鍋は怒らなかった。


白菜を食べる。


おいしい。


だしが染みていて、柔らかい。

豆腐も、鶏肉団子も、きのこも、ちゃんとおいしい。


「味はいいですね」


「家族のつながり自体は、よいものですから」


店主は言った。


「問題は、量と距離と同意です」


「料理の話じゃなくなってる」


「最初からそういう店です」


私は小さく笑いながら、鶏肉団子を食べた。


ふわっとしていた。

さっきの押しつけがなければ、ちゃんと温かい味だった。


「家族って、難しいですね」


「はい」


「近いから助け合えるけど、近いから踏み込みやすい」


「はい」


「心配と支配も似てるし、絆と鎖も似てる」


「見た目は似ています」


店主は、鍋に浮いていた札を一枚すくい上げた。


**あなたのため**


「これが入ると、味がわかりにくくなります」


「本当にあなたのための時もあるんですか」


「あります」


「じゃあ、どう見分けるんですか」


店主は少し考えた。


「断った時に、相手がどうなるかです」


鍋の湯気が、静かに上がった。


「本当に相手のためなら、断られても相手の事情を見ます。支配なら、断られた瞬間に怒ります」


私は箸を止めた。


それは、かなりわかりやすい。


「絆は、こちらの器を見てくれる」


「はい」


「支配は、鍋の都合だけ見る」


「はい」


私は取り皿の中を見た。

自分で取った分だけの具材。多すぎない。少なすぎない。これなら食べられる。


鍋そのものを否定しなくてもいい。

全部食べなくてもいい。

取り皿を持っていても、鍋を囲むことはできる。


なんだか、それだけのことが少し救いだった。


店の引き戸が開いた。


年配の女性が一人、入ってきた。いかにも寒そうに肩をすぼめている。


「まだやってる?」


「いらっしゃいませ」


店主が言った。


女性は鍋を見るなり、ぱっと顔を明るくした。


「あら、鍋?いいわねぇ。鍋はみんなで食べるのが一番よ。ほら、もっと取りなさい。若いんだから。遠慮しないの」


言いながら、女性はまだ座ってもいないのに、お玉を手に取ろうとした。


私は反射的に取り皿を引いた。


店主が、すっとお玉を押さえた。


「こちらのお鍋は、各自で取る形式です」


女性は少しむっとした。


「でも、家族みたいなものじゃない」


店主はにこりともせずに言った。


「当店では、家族みたいなものほど、取り皿を尊重します」


店内が一瞬、静かになった。


私は吹き出しそうになり、慌ててお茶を飲んだ。


女性は少し不満そうだったが、やがて肩をすくめて別の席に座った。


「じゃあ、私にも取り皿ちょうだい」


「はい」


店主はすぐに器を出した。


女性はしばらく鍋を見つめてから、自分の分だけ、ゆっくり具材を取った。

最初は物足りなさそうだったが、一口食べると、少し表情がゆるんだ。


「……これくらいで、ちょうどいいわね」


その声は、小さかった。


私は、なんとなく鍋の中を見た。


さっきまで浮いていた木札が、少し減っている気がした。

代わりに、別の札が浮かんでいた。


**おかわりは自由**


私はその札を見て、少し笑った。


そうだ。

自由に取れるから、もう一度取りたくなる。

無理やり盛られると逃げたくなるのに、自分で選べると、ちゃんと戻ってこられる。


鍋はまだ温かい。

湯気はやわらかい。

木のカウンターの上で、土鍋は静かに煮えている。


「家族なんだから、という言葉は」


店主が言った。


「本当は、縛るためではなく、帰ってきてもいいと言うための言葉だったのかもしれません」


私は、鍋のだしを少し飲んだ。


さっきより澄んだ味がした。


「でも、使い方を間違えると?」


「帰る場所ではなく、逃げられない場所になります」


私はうなずいた。


家族という鍋は、たぶん悪くない。

温かいだしも出る。身体も温まる。ひとりでは作れない味もある。


でも、取り皿がないと苦しくなる。

自分の器がないと、何をどれだけ食べたのかもわからなくなる。


「今日のお代は?」


食べ終えてから尋ねると、店主は小さな紙を出した。


そこには、こう書かれていた。


ー本日のお代:自分の器を持って帰ることー


私は紙を見て、取り皿を見た。


「これ、持って帰っていいんですか」


「はい」


「店の備品では?」


「必要な方には、お渡ししています」


「太っ腹ですね」


「器がない方が、あとで高くつきますので」


言い方が妙に現実的で、私は笑った。


店を出る頃には、身体が少し温まっていた。

腹も満たされている。重すぎない。ちょうどいい。


外の路地は冷えていた。


私は手の中の小さな取り皿を見た。白くて、何の飾りもない、ただの器。


でも、それがあるだけで、少し安心した。


家族を大事にすることと、自分を差し出すことは違う。

一緒に鍋を囲むことと、同じ器で食べさせられることは違う。

おかわりする自由と、食べきれない量を盛られることは違う。


私は私の器で食べていい。

食べられる分だけでいい。

欲しい時は、おかわりしてもいい。

いらない時は、箸を置いてもいい。


振り返ると、境界線食堂の灯りが小さく揺れていた。


**本日も、あなたの境界線を調理します。**


怪しい店だ。


けれど、今日の鍋は少しだけ温かかった。


私は取り皿を胸に抱えて、路地を出た。


帰る場所は、誰かに閉じ込められる場所じゃなくていい。


ちゃんと自分の器を持ったまま、

「ただいま」と言える場所であればいい。


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