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境界線食堂  作者: 珠諳


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2/16

察しすぎ注意ラーメン

路地裏の奥に、その食堂はある。


表通りから一本入り、さらに人が通らなさそうな細い道を曲がった先。

街灯は少なく、看板の電球は一つだけ弱々しく点滅している。


暖簾には、相変わらず妙な文字が書かれていた。


**境界線食堂**


その下に、小さく一文。


**本日も、あなたの境界線を調理します。**


二度目でも、やっぱり怪しい。


一度来たことがあるからといって、安心できる店ではない。

むしろ、一度来たことがあるからこそ、油断できない。


前回は「恩着せ煮込み定食」という、とんでもなく胃に重いものを出された。

おかげで、自分が飲み込んできた違和感の正体は少し見えた。

でも、あの店は優しい顔をしているわけではない。


痛いところを、ちゃんと皿に盛ってくる。


だから今日は、入るつもりはなかった。


なかったのに。


「……いらっしゃい」


気づけば、暖簾をくぐっていた。


店主はいつものように、白い割烹着を着てカウンターの中に立っていた。

若いようにも見えるし、ずっと昔からこの場所にいるようにも見える。

鍋の湯気の向こうで、こちらを見たような、見ていないような顔をしている。


「また来てしまいました」


「来る日だったのでしょう」


「相変わらず、怪しいこと言いますね」


「怪しい店ですので」


店主はさらりと言った。


私はカウンターの端に座った。

客は他にいない。木のカウンターは古く、ところどころに傷がある。

誰かが長い間、何かを飲み込み、何かを吐き出してきた跡みたいだった。


「今日は何にしますか」


店主が聞いた。


私はメニューを見た。手書きの札がいくつか並んでいる。


**断れなかった日の冷やし中華**

**いい人疲れの塩焼き**

**家族なんだから鍋**

**目上絶対カツ丼**


どれも嫌だった。


胃が身構える。


その中で、ひときわ妙な札があった。


**察しすぎ注意ラーメン**


私は思わず指を止めた。


「……これ、なんですか」


「本日のおすすめです」


「おすすめの名前じゃない」


「よく出ます」


「嫌な人気メニューですね」


店主は小さくうなずいた。


「お客様には、こちらが合うかと」


「合うって言われても嬉しくないんですけど」


「では、こちらにしましょう」


「まだ頼むって言ってません」


「もう見ていましたので」


「それが察しすぎでは?」


店主は返事をせず、奥の寸胴鍋に向かった。


断れなかった。


私はため息をついた。

たしかに今日は、少し疲れていた。誰かの機嫌を読みすぎたわけではない。

誰かに何かを頼まれたわけでもない。ただ、頭の中でずっと他人の声が鳴っていた。


あれをした方がいいかもしれない。

こう思われるかもしれない。

これは先に片付けた方がいいかもしれない。

あの人は今、こう感じているかもしれない。


誰にも頼まれていないのに、勝手に忙しい。


勝手に疲れている。


「お待たせしました」


目の前に、ラーメンが置かれた。


大きめの丼。透明感のある醤油スープ。細めの麺。

やわらかそうなチャーシューが二枚、煮卵、メンマ、刻みネギ。

見た目は普通に美味しそうだった。

むしろ、かなり良い香りがする。


「普通においしそうですね」


「味はいいです」


「味以外に問題がある言い方」


「気をつけてお召し上がりください」


「何に?」


「このラーメンは、空気を読みます」


私は箸を持ったまま固まった。


「ラーメンが?」


「はい」


「空気を?」


「読みます」


店主は真顔だった。


私は丼を見た。湯気が立っている。

スープの表面に、小さな油がきらきら浮いている。

麺は静かに沈んでいる。どう見ても、ただのラーメンだ。


「いや、ラーメンが空気を読むって何ですか」


「お客様、世の中には必要以上に空気を読むものがあります」


「人じゃなくてラーメンも?」


「この店では」


「この店では、で済ませないでほしい」


店主は、カウンターの奥から小皿を出した。


「こちら、境界線胡椒です。必要な時にお使いください」


「また怪しい調味料出てきた」


「かけすぎると、少し強めに『それは私の仕事ではありません』と言えるようになります」


「強い胡椒ですね」


私は笑いながら、ラーメンに箸を入れようとした。


その時だった。


ガラガラ、と入口の引き戸が開いた。


「すみませーん……まだやってますか」


若い男性が入ってきた。スーツ姿で、肩が落ちている。

かなり疲れている顔だった。

彼はカウンター席に座るなり、お腹を押さえた。


「腹減った……」


その瞬間。


目の前のラーメンが、ぴくりと震えた。


「え?」


丼の中のスープが、ゆらりと揺れる。


「店主さん、今……」


「始まりましたね」


「何が?」


「察しすぎです」


次の瞬間、ラーメンが動いた。


いや、ラーメンだけではない。丼ごとだった。


丼が、カウンターの上をすべるように横へ動き出した。

カタカタカタ、と器が木の上を走る。

湯気を立てながら、まっすぐ新しく来た客の方へ向かっていく。


「ちょ、ちょっと!」


私は慌てて丼の縁をつかもうとした。


だが、ラーメンは速かった。


カウンターの上を器ごと駆けていく。

まるで「お腹がすいている人がいるなら、私が行かなくては」とでも言いたげに、スープをこぼさない絶妙なバランスで進んでいく。


「ラーメンが脱走した!」


「正確には、出張です」


「どっちでもおかしい!」


ラーメンは、疲れた男性客の前でぴたりと止まった。


男性客は目を丸くした。


「え、頼んでないです」


湯気が、ふわりと立った。


ラーメンは黙っている。

だが、なぜか圧がある。

食べてほしそうだった。

全身で「あなた、お腹すいてますよね?」と言っている気がした。


「お客様」


店主が、私に向かって言った。


「気をつけてくださいと言ったでしょう」


「いや、気をつけようがないです」


「このラーメンは、空腹の気配を読むと、自分を差し出しに行きます」


「自己犠牲が強すぎる!」


「察しすぎ注意ラーメンですので」


「名前の通りすぎる!」


私は立ち上がった。


「それ、私のラーメンですよね?」


「はい」


「私まだ一口も食べてません」


「はい」


「なのに、あの人に行ったんですか」


「はい」


店主は悪びれない。


私は、男性客の前にいるラーメンを見た。

男性客は困っている。

ラーメンも、たぶん困っている。

いや、ラーメンが困っているのかはわからない。

でも、湯気の立ち方が少し不安げだった。


「……戻ってきなさい」


私は言った。


ラーメンは動かない。


「あなたは、私の注文です」


湯気が揺れた。


「お腹がすいている人がいるからって、勝手に行かなくていい」


丼が、ほんの少しこちらを向いた気がした。


「その人のお腹は、その人が注文して満たせばいい。あなたが勝手に背負わなくていい」


店の中が静かになった。


男性客が、小さく手を上げた。


「あの、僕、普通に注文します」


「そうしてください」


私が言うと、男性客は少し笑った。


「じゃあ、同じラーメンを」


店主がうなずいた。


「察しすぎ注意ラーメンを?」


「いや、普通の醤油ラーメンで」


「賢明です」


店主は、さらりと言った。


その間に、私のラーメンはカタカタと小さく震えた。

まるで、戻っていいのか迷っているようだった。


私は椅子に座り直し、カウンターを指でとんとんと叩いた。


「こっち」


ラーメンは、ゆっくり動き出した。


今度は走らなかった。

カタ、カタ、と少しずつこちらへ戻ってくる。

途中で一度、男性客の方を振り返るように止まったが、彼が「大丈夫です」と言うと、また進み始めた。


やがて、私の前に戻った。


湯気が少し弱くなっていた。


「……冷めちゃったじゃん」


私はつぶやいた。


店主は、何も言わずに小さな湯差しを持ってきた。

スープを少し足し、丼を温め直す。


「察しすぎると、冷めます」


「ラーメンが?」


「心もです」


その言葉は、少しだけ痛かった。


私は箸を持ち直した。


確かにそうだった。


誰かが困っていそうだから。

誰かが不機嫌そうだから。

誰かが言わなくても求めていそうだから。


そうやって勝手に走っていくうちに、自分の温度が下がる。

自分が食べるはずだったものを、誰かの前に差し出してしまう。

そして、相手に頼まれていないのに疲れて、頼まれていないのに傷つく。


「空気を読むのは、悪いことではありません」


店主が言った。


「でも、空気の全部を自分の責任にすると、苦しくなります」


私は麺をすすった。


おいしい。


腹立つくらいおいしかった。

醤油の香りがやわらかくて、スープは深いのに重すぎない。

チャーシューはほろっと崩れた。

煮卵の黄身は、とろりとしている。


「おいしいですね」


「味はいいですので」


「本当に味はいいんですね」


「問題は、動くことです」


「致命的じゃないですか」


私は少し笑った。


男性客の前にも、普通の醤油ラーメンが置かれた。

彼は「いただきます」と言って、静かに食べ始めた。

こちらのラーメンは動かない。

ちゃんと彼の前で、彼のための湯気を立てている。


それを見て、私は少しほっとした。


あの人のお腹は、あの人の注文で満たされた。


私のラーメンは、私の前にある。


それだけのことなのに、妙に大事なことのように思えた。


カウンターの隅に置かれた境界線胡椒を、少しだけ振ってみた。


香りが立った。


スープをもう一口飲む。


さっきより、味がはっきりした気がした。


「察することと、背負うことは違います」


店主が言った。


「見えることと、引き受けることも違います」


私は黙って聞いた。


「相手のお腹がすいていると気づくのは、優しさです。でも、自分の丼を勝手に差し出すのは、境界線の脱走です」


「ラーメンみたいに?」


「ラーメンみたいに」


私は吹き出しそうになった。


境界線の脱走。


言い方が変なのに、妙にしっくりくる。


たしかに私の中にも、すぐ脱走する何かがいる。

相手の空腹、相手の不機嫌、相手の沈黙、相手の期待。

そういうものを見つけると、頼まれてもいないのに駆けつけようとする。


そして、自分の席が空っぽになる。


「戻ってきなさい、か」


私は小さくつぶやいた。


店主がこちらを見た。


「はい?」


「さっき、ラーメンに言った言葉です」


「効いていましたね」


「自分にも言った方がいいのかもしれない」


店主は、少しだけ目を細めた。


「お客様には、よく効くと思います」


私は残りの麺を食べた。


最後にスープを少し飲む。

全部は飲まない。おいしいけれど、全部飲む必要はない。

丼の底まで責任を取らなくてもいい。


そう思うと、少し笑えた。


食べ終わると、店主がお茶を出した。


湯呑みの横に、小さな札が置かれている。


**本日のお茶:戻ってきなさい茶**


「また名前が直球ですね」


「脱走後におすすめです」


「ラーメンにも飲ませた方がいいんじゃないですか」


「厨房で反省しています」


私は思わず厨房の方を見た。


奥で、同じ丼が棚に伏せられている。

なぜか少しだけ、しょんぼりして見えた。


「ラーメン、怒られてるんですか」


「叱ってはいません。確認中です」


「何を?」


「自分は誰の注文だったのかを」


私は湯呑みを両手で包んだ。


戻ってきなさい茶は、ほうじ茶に近い味がした。

香ばしくて、落ち着く。

飲むと、頭の中で走り出しそうになっていたものが、少しだけ席に戻る感じがした。


「今日のお代は?」


私は聞いた。


店主は、カウンターの上に小さな紙を置いた。


そこには、手書きでこう書かれていた。


**本日のお代:気づいても、全部やらない。**


私は紙を見て、少し黙った。


それは、簡単なようで難しい。


誰かが困っていると気づく。

空気が重いと気づく。

相手が何かを求めていると気づく。


気づいてしまうことは、たぶん止められない。


でも、気づいたものを全部自分の責任にしなくてもいい。


「……高めのお代ですね」


「分割払いで結構です」


「分割?」


「まずは、心の中で一回だけ言えばいいのです」


店主は静かに言った。


「それは、私のラーメンではありません、と」


私はまた少し笑った。


怪しい店だ。


でも、こういうところが嫌いになれない。


店を出る時、男性客はまだラーメンを食べていた。彼は私に軽く会釈した。


「さっきは、ラーメンがお邪魔しました」


私が言うと、彼は笑った。


「いえ、こちらこそ、空腹が漏れてすみません」


「漏れてましたね」


「次からは自分で注文します」


「それがいいです」


外に出ると、夜風が少し冷たかった。


私はお腹をさすった。

ラーメンはおいしかった。

ちゃんと自分の前に戻ってきて、自分の胃に収まった。


それだけなのに、少し満たされた気がした。


誰かの空腹に気づいても、私の丼が走らなくていい。


誰かの機嫌に気づいても、私が全部整えなくていい。


誰かの沈黙に気づいても、私が勝手に答えを用意しなくていい。


私は私の席にいていい。


路地の奥で、境界線食堂の看板が小さく光っていた。


**本日も、あなたの境界線を調理します。**


私は振り返って、少しだけ頭を下げた。


そして、心の中でそっと言った。


戻ってきなさい。


自分の席に。


自分の丼に。


自分の温度に。


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