察しすぎ注意ラーメン
路地裏の奥に、その食堂はある。
表通りから一本入り、さらに人が通らなさそうな細い道を曲がった先。
街灯は少なく、看板の電球は一つだけ弱々しく点滅している。
暖簾には、相変わらず妙な文字が書かれていた。
**境界線食堂**
その下に、小さく一文。
**本日も、あなたの境界線を調理します。**
二度目でも、やっぱり怪しい。
一度来たことがあるからといって、安心できる店ではない。
むしろ、一度来たことがあるからこそ、油断できない。
前回は「恩着せ煮込み定食」という、とんでもなく胃に重いものを出された。
おかげで、自分が飲み込んできた違和感の正体は少し見えた。
でも、あの店は優しい顔をしているわけではない。
痛いところを、ちゃんと皿に盛ってくる。
だから今日は、入るつもりはなかった。
なかったのに。
「……いらっしゃい」
気づけば、暖簾をくぐっていた。
店主はいつものように、白い割烹着を着てカウンターの中に立っていた。
若いようにも見えるし、ずっと昔からこの場所にいるようにも見える。
鍋の湯気の向こうで、こちらを見たような、見ていないような顔をしている。
「また来てしまいました」
「来る日だったのでしょう」
「相変わらず、怪しいこと言いますね」
「怪しい店ですので」
店主はさらりと言った。
私はカウンターの端に座った。
客は他にいない。木のカウンターは古く、ところどころに傷がある。
誰かが長い間、何かを飲み込み、何かを吐き出してきた跡みたいだった。
「今日は何にしますか」
店主が聞いた。
私はメニューを見た。手書きの札がいくつか並んでいる。
**断れなかった日の冷やし中華**
**いい人疲れの塩焼き**
**家族なんだから鍋**
**目上絶対カツ丼**
どれも嫌だった。
胃が身構える。
その中で、ひときわ妙な札があった。
**察しすぎ注意ラーメン**
私は思わず指を止めた。
「……これ、なんですか」
「本日のおすすめです」
「おすすめの名前じゃない」
「よく出ます」
「嫌な人気メニューですね」
店主は小さくうなずいた。
「お客様には、こちらが合うかと」
「合うって言われても嬉しくないんですけど」
「では、こちらにしましょう」
「まだ頼むって言ってません」
「もう見ていましたので」
「それが察しすぎでは?」
店主は返事をせず、奥の寸胴鍋に向かった。
断れなかった。
私はため息をついた。
たしかに今日は、少し疲れていた。誰かの機嫌を読みすぎたわけではない。
誰かに何かを頼まれたわけでもない。ただ、頭の中でずっと他人の声が鳴っていた。
あれをした方がいいかもしれない。
こう思われるかもしれない。
これは先に片付けた方がいいかもしれない。
あの人は今、こう感じているかもしれない。
誰にも頼まれていないのに、勝手に忙しい。
勝手に疲れている。
「お待たせしました」
目の前に、ラーメンが置かれた。
大きめの丼。透明感のある醤油スープ。細めの麺。
やわらかそうなチャーシューが二枚、煮卵、メンマ、刻みネギ。
見た目は普通に美味しそうだった。
むしろ、かなり良い香りがする。
「普通においしそうですね」
「味はいいです」
「味以外に問題がある言い方」
「気をつけてお召し上がりください」
「何に?」
「このラーメンは、空気を読みます」
私は箸を持ったまま固まった。
「ラーメンが?」
「はい」
「空気を?」
「読みます」
店主は真顔だった。
私は丼を見た。湯気が立っている。
スープの表面に、小さな油がきらきら浮いている。
麺は静かに沈んでいる。どう見ても、ただのラーメンだ。
「いや、ラーメンが空気を読むって何ですか」
「お客様、世の中には必要以上に空気を読むものがあります」
「人じゃなくてラーメンも?」
「この店では」
「この店では、で済ませないでほしい」
店主は、カウンターの奥から小皿を出した。
「こちら、境界線胡椒です。必要な時にお使いください」
「また怪しい調味料出てきた」
「かけすぎると、少し強めに『それは私の仕事ではありません』と言えるようになります」
「強い胡椒ですね」
私は笑いながら、ラーメンに箸を入れようとした。
その時だった。
ガラガラ、と入口の引き戸が開いた。
「すみませーん……まだやってますか」
若い男性が入ってきた。スーツ姿で、肩が落ちている。
かなり疲れている顔だった。
彼はカウンター席に座るなり、お腹を押さえた。
「腹減った……」
その瞬間。
目の前のラーメンが、ぴくりと震えた。
「え?」
丼の中のスープが、ゆらりと揺れる。
「店主さん、今……」
「始まりましたね」
「何が?」
「察しすぎです」
次の瞬間、ラーメンが動いた。
いや、ラーメンだけではない。丼ごとだった。
丼が、カウンターの上をすべるように横へ動き出した。
カタカタカタ、と器が木の上を走る。
湯気を立てながら、まっすぐ新しく来た客の方へ向かっていく。
「ちょ、ちょっと!」
私は慌てて丼の縁をつかもうとした。
だが、ラーメンは速かった。
カウンターの上を器ごと駆けていく。
まるで「お腹がすいている人がいるなら、私が行かなくては」とでも言いたげに、スープをこぼさない絶妙なバランスで進んでいく。
「ラーメンが脱走した!」
「正確には、出張です」
「どっちでもおかしい!」
ラーメンは、疲れた男性客の前でぴたりと止まった。
男性客は目を丸くした。
「え、頼んでないです」
湯気が、ふわりと立った。
ラーメンは黙っている。
だが、なぜか圧がある。
食べてほしそうだった。
全身で「あなた、お腹すいてますよね?」と言っている気がした。
「お客様」
店主が、私に向かって言った。
「気をつけてくださいと言ったでしょう」
「いや、気をつけようがないです」
「このラーメンは、空腹の気配を読むと、自分を差し出しに行きます」
「自己犠牲が強すぎる!」
「察しすぎ注意ラーメンですので」
「名前の通りすぎる!」
私は立ち上がった。
「それ、私のラーメンですよね?」
「はい」
「私まだ一口も食べてません」
「はい」
「なのに、あの人に行ったんですか」
「はい」
店主は悪びれない。
私は、男性客の前にいるラーメンを見た。
男性客は困っている。
ラーメンも、たぶん困っている。
いや、ラーメンが困っているのかはわからない。
でも、湯気の立ち方が少し不安げだった。
「……戻ってきなさい」
私は言った。
ラーメンは動かない。
「あなたは、私の注文です」
湯気が揺れた。
「お腹がすいている人がいるからって、勝手に行かなくていい」
丼が、ほんの少しこちらを向いた気がした。
「その人のお腹は、その人が注文して満たせばいい。あなたが勝手に背負わなくていい」
店の中が静かになった。
男性客が、小さく手を上げた。
「あの、僕、普通に注文します」
「そうしてください」
私が言うと、男性客は少し笑った。
「じゃあ、同じラーメンを」
店主がうなずいた。
「察しすぎ注意ラーメンを?」
「いや、普通の醤油ラーメンで」
「賢明です」
店主は、さらりと言った。
その間に、私のラーメンはカタカタと小さく震えた。
まるで、戻っていいのか迷っているようだった。
私は椅子に座り直し、カウンターを指でとんとんと叩いた。
「こっち」
ラーメンは、ゆっくり動き出した。
今度は走らなかった。
カタ、カタ、と少しずつこちらへ戻ってくる。
途中で一度、男性客の方を振り返るように止まったが、彼が「大丈夫です」と言うと、また進み始めた。
やがて、私の前に戻った。
湯気が少し弱くなっていた。
「……冷めちゃったじゃん」
私はつぶやいた。
店主は、何も言わずに小さな湯差しを持ってきた。
スープを少し足し、丼を温め直す。
「察しすぎると、冷めます」
「ラーメンが?」
「心もです」
その言葉は、少しだけ痛かった。
私は箸を持ち直した。
確かにそうだった。
誰かが困っていそうだから。
誰かが不機嫌そうだから。
誰かが言わなくても求めていそうだから。
そうやって勝手に走っていくうちに、自分の温度が下がる。
自分が食べるはずだったものを、誰かの前に差し出してしまう。
そして、相手に頼まれていないのに疲れて、頼まれていないのに傷つく。
「空気を読むのは、悪いことではありません」
店主が言った。
「でも、空気の全部を自分の責任にすると、苦しくなります」
私は麺をすすった。
おいしい。
腹立つくらいおいしかった。
醤油の香りがやわらかくて、スープは深いのに重すぎない。
チャーシューはほろっと崩れた。
煮卵の黄身は、とろりとしている。
「おいしいですね」
「味はいいですので」
「本当に味はいいんですね」
「問題は、動くことです」
「致命的じゃないですか」
私は少し笑った。
男性客の前にも、普通の醤油ラーメンが置かれた。
彼は「いただきます」と言って、静かに食べ始めた。
こちらのラーメンは動かない。
ちゃんと彼の前で、彼のための湯気を立てている。
それを見て、私は少しほっとした。
あの人のお腹は、あの人の注文で満たされた。
私のラーメンは、私の前にある。
それだけのことなのに、妙に大事なことのように思えた。
カウンターの隅に置かれた境界線胡椒を、少しだけ振ってみた。
香りが立った。
スープをもう一口飲む。
さっきより、味がはっきりした気がした。
「察することと、背負うことは違います」
店主が言った。
「見えることと、引き受けることも違います」
私は黙って聞いた。
「相手のお腹がすいていると気づくのは、優しさです。でも、自分の丼を勝手に差し出すのは、境界線の脱走です」
「ラーメンみたいに?」
「ラーメンみたいに」
私は吹き出しそうになった。
境界線の脱走。
言い方が変なのに、妙にしっくりくる。
たしかに私の中にも、すぐ脱走する何かがいる。
相手の空腹、相手の不機嫌、相手の沈黙、相手の期待。
そういうものを見つけると、頼まれてもいないのに駆けつけようとする。
そして、自分の席が空っぽになる。
「戻ってきなさい、か」
私は小さくつぶやいた。
店主がこちらを見た。
「はい?」
「さっき、ラーメンに言った言葉です」
「効いていましたね」
「自分にも言った方がいいのかもしれない」
店主は、少しだけ目を細めた。
「お客様には、よく効くと思います」
私は残りの麺を食べた。
最後にスープを少し飲む。
全部は飲まない。おいしいけれど、全部飲む必要はない。
丼の底まで責任を取らなくてもいい。
そう思うと、少し笑えた。
食べ終わると、店主がお茶を出した。
湯呑みの横に、小さな札が置かれている。
**本日のお茶:戻ってきなさい茶**
「また名前が直球ですね」
「脱走後におすすめです」
「ラーメンにも飲ませた方がいいんじゃないですか」
「厨房で反省しています」
私は思わず厨房の方を見た。
奥で、同じ丼が棚に伏せられている。
なぜか少しだけ、しょんぼりして見えた。
「ラーメン、怒られてるんですか」
「叱ってはいません。確認中です」
「何を?」
「自分は誰の注文だったのかを」
私は湯呑みを両手で包んだ。
戻ってきなさい茶は、ほうじ茶に近い味がした。
香ばしくて、落ち着く。
飲むと、頭の中で走り出しそうになっていたものが、少しだけ席に戻る感じがした。
「今日のお代は?」
私は聞いた。
店主は、カウンターの上に小さな紙を置いた。
そこには、手書きでこう書かれていた。
**本日のお代:気づいても、全部やらない。**
私は紙を見て、少し黙った。
それは、簡単なようで難しい。
誰かが困っていると気づく。
空気が重いと気づく。
相手が何かを求めていると気づく。
気づいてしまうことは、たぶん止められない。
でも、気づいたものを全部自分の責任にしなくてもいい。
「……高めのお代ですね」
「分割払いで結構です」
「分割?」
「まずは、心の中で一回だけ言えばいいのです」
店主は静かに言った。
「それは、私のラーメンではありません、と」
私はまた少し笑った。
怪しい店だ。
でも、こういうところが嫌いになれない。
店を出る時、男性客はまだラーメンを食べていた。彼は私に軽く会釈した。
「さっきは、ラーメンがお邪魔しました」
私が言うと、彼は笑った。
「いえ、こちらこそ、空腹が漏れてすみません」
「漏れてましたね」
「次からは自分で注文します」
「それがいいです」
外に出ると、夜風が少し冷たかった。
私はお腹をさすった。
ラーメンはおいしかった。
ちゃんと自分の前に戻ってきて、自分の胃に収まった。
それだけなのに、少し満たされた気がした。
誰かの空腹に気づいても、私の丼が走らなくていい。
誰かの機嫌に気づいても、私が全部整えなくていい。
誰かの沈黙に気づいても、私が勝手に答えを用意しなくていい。
私は私の席にいていい。
路地の奥で、境界線食堂の看板が小さく光っていた。
**本日も、あなたの境界線を調理します。**
私は振り返って、少しだけ頭を下げた。
そして、心の中でそっと言った。
戻ってきなさい。
自分の席に。
自分の丼に。
自分の温度に。




