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境界線食堂  作者: 珠諳


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恩着せ煮込み定食 〜請求書を添えて〜

路地裏に、その店はあった。


表通りから一本入っただけなのに、そこだけ妙に静かだった。

夜の音が少し遠くなる。車の音も、人の声も、どこか別の世界のものみたいに薄くなる。


古びた木の看板には、筆文字でこう書かれていた。


境界線食堂


その下に、小さく一文。


本日も、あなたの境界線を調理します。


怪しい。


怪しすぎる。


普通なら入らない。

絶対に入らない。


でもその日は、どういうわけか足が止まった。

胸の奥に、飲み込んだままの言葉がいくつも溜まっていた。

言い返せなかったこと。笑って流したこと。

自分が悪いのかもしれないと、無理やり丸めて胃の奥へ押し込んだこと。


それらが全部、内側でぐつぐつ煮えていた。


「……いらっしゃい」


暖簾をくぐると、店主がいた。


年齢のわからない人だった。

若いようにも、ずっと昔からここにいるようにも見える。

白い割烹着を着て、こちらを見るでもなく、鍋の中を静かにかき混ぜている。


カウンターには、他に客はいなかった。


「お好きな席へ」


好きな席も何も、カウンターしかない。

私は一番端に座った。


「今日は、だいぶ飲み込まされましたね」


店主が言った。


手元の水を飲みかけて、少しむせた。


「……なんでわかるんですか」


「顔に書いてあります」


「そんなに?」


「ええ。かなり濃いめに」


店主は、何かを皿に盛りつけ始めた。

注文した覚えはない。


「本日のおすすめです」


出された皿を見て、私は固まった。


見た目は煮込み定食だった。

柔らかそうな肉と野菜が、とろりとした濃い色の汁に沈んでいる。

味噌なのか醤油なのか、甘辛い香りが鼻に来る。隣には白米、小鉢、漬物。

定食としては立派だ。


でも、メニュー名がよくなかった。


恩着せ煮込み定食 〜請求書を添えて〜


「名前が嫌すぎる」


「よく煮込まれていますよ」


「食べたら胃もたれしそう」


「もうしています」


店主は淡々と言った。

腹が立つくらい、図星だった。


箸を持って、恐る恐る一口食べる。

濃い。

味が濃い。


「お前のためを思って」という甘み。

「ここまでしてやったのに」という塩辛さ。

「家族なんだから」という脂っこさ。

「普通は感謝するものだ」という後味。


重い。


とにかく重い。


「これ、料理ですか?」


「料理の形をした記憶です」


「最悪じゃないですか」


「だから、皿に出したんです。腹の中に入れっぱなしにするよりは、見えた方がましでしょう」


私は黙った。


確かにそうだった。

自分の中では、ずっと曖昧だった。

大切にされているのか、支配されているのか。

心配されているのか、縛られているのか。

恩なのか、請求なのか。


見分けがつかなかったから、全部まとめて飲み込んできた。


「絆と支配は、見た目が似ています」


店主が言った。


「違いは?」


「相手の自由が残っているかどうかです」


私は、箸を置いた。


その言葉は、妙にすとんと落ちた。

熱い汁物を飲んだ時みたいに、胸のあたりまで届いた。


「絆は、離れてもつながれる。支配は、離れようとすると怒る」


店主は続けた。


「助け合いは、支え合うこと。犠牲の強要は、誰か一人を沈めること。尊重は、相手を見ること。服従は、相手を消すこと」


店の中は静かだった。

鍋の小さな音だけがしている。


私は、もう一度煮込みを見た。

さっきまでただ気持ち悪かったそれが、少し違って見えた。


これは、自分の中にあった違和感だ。

誰かへの怒りでもある。

でも同時に、自分が自分に向けていた責めでもある。


「私、こういうのを食べさせられてたんですね」


「ええ」


「でも、全部食べなくてもよかった?」


「もちろん」


店主は、小さな湯呑みを出した。


断っても大丈夫茶


湯気が、ふわりと立った。


「またすごい名前」


「効きますよ。即効性はありませんが」


私は湯呑みを両手で包んだ。

熱すぎない温度だった。

一口飲むと、口の中に残っていた濃い後味が、少しだけ薄くなった。


「今日のお代は?」


尋ねると、店主は少し考えた。


「本日は、“違和感をなかったことにしない”で結構です」


「それだけ?」


「最初から高額請求すると、誰も来なくなりますから」


「良心的なんだか、怪しいんだか」


「怪しい店ですので」


店主はあっさり認めた。


私は少し笑った。

胃の奥はまだ重い。

でも、さっきよりも形が見えていた。

見えないものを飲み込んでいる時より、ずっとましだった。


店を出る時、店主が言った。


「今日は、深追いせず帰りなさい」


「家に?」


「まずは、自分に」


その言い方が少しずるかった。

私は返事をしないまま、暖簾をくぐった。


外の路地は、さっきよりも冷えていた。

街灯がぽつぽつと地面を照らしている。

私は腹をさすりながら歩いた。


重い料理だった。

やっぱり胸やけする。


でも、胸やけの正体がわかっただけで、少し息がしやすかった。


路地を曲がると、小さな灯りが見えた。


屋台だった。


赤い提灯ではなく、丸い小さなランタンがぶら下がっている。

木の屋台に、椅子が三つ。客はいない。

湯気だけが、白く夜に溶けていた。


屋台ののれんには、丸っこい文字でこう書いてあった。


ただいまスープ


カウンターの向こうにいたのは、猫だった。


猫。


二度見した。


白と灰色の毛並みをした猫が、小さな前掛けをして、じっとこちらを見ている。


「……営業してます?」


猫は何も言わなかった。

ただ、前足で椅子をぽん、と叩いた。


座れ、ということらしい。


私は座った。


「さっき、境界線食堂に行ってきたんですけど」


猫は無言で鍋を見た。


「かなり重かったです」


猫は、木の椀を出した。


そこに、透明なスープが注がれる。

白菜、玉ねぎ、にんじん、きのこ。

そして、ふわっとした鶏肉団子が入っていた。


一つ、二つ、三つ。


最後に猫は、少し迷ったようにこちらを見て、鶏肉団子をもう一つ入れた。


「今、多めに入れましたよね?」


猫は目をそらした。


「見てましたよ」


猫は、木のスプーンを置いた。


湯気が顔に当たる。

優しい匂いがした。鶏だしに、ほんの少し生姜。

派手じゃない。強くない。

でも、身体が知っている味だった。


貼り紙があった。


本日の一杯:戻ってくる場所がほしい日のスープ


私は、スプーンでスープをすくった。


一口飲む。


ああ、と思った。


何かがほどけた。


味は薄めだった。

でも足りないわけじゃない。

さっきの煮込みが、こちらに飲み込ませようとしてくる味だったとしたら、このスープは、こちらの速度を待ってくれる味だった。


白菜は柔らかく、玉ねぎは甘い。

にんじんは小さく切られていて、きのこは静かに香る。

鶏肉団子はふわっとしていた。噛むと、ほろりと崩れて、生姜の香りが少しだけ立った。


「……おいしい」


猫は何も言わない。


「なんか、懐かしい味がします」


猫は鍋の火を少し弱めた。


私はゆっくり食べた。

急がなくてよかった。

誰も「早くしろ」と言わない。

誰も「感謝しろ」と言わない。

誰も「あなたのため」と言って、別の何かを押しつけてこない。


ただ、温かいものがそこにあった。


不意に、目の奥が少し熱くなった。


「境界線食堂では、違和感を皿に出してもらったんです」


猫は、耳だけこちらに向けた。


「でもここは、皿に出したあとに、戻ってくる場所なんですね」


猫は、ゆっくり瞬きをした。


たぶん、そういうことらしい。


スープを飲み終える頃には、胃の重さが少しだけやわらいでいた。

完全に消えたわけではない。

でも、自分の中に戻れるくらいには軽くなっていた。


「お代は?」


私は聞いた。


猫は、前足で小さな木札を押し出した。


そこには、こう書かれていた。


本日のお代:ちゃんと温かかった、と覚えて帰ること。


私は木札を見て、少し笑った。


「それなら払えます」


猫は満足そうに尻尾を揺らした。


屋台を出る時、振り返ると、猫はまた鍋を見ていた。

ランタンの灯りが、湯気を淡く照らしている。


路地の先には、いつもの街があった。

やることは山ほどある。

掃除も、創作も、生活も。

戻れば、また現実は現実の顔をして待っている。


でもその前に、私は胸の中でそっと言った。


温かかった。


ちゃんと、温かかった。


それを覚えて帰れるなら、今日はもう十分かもしれない。


境界線食堂の怪しい灯りと、ただいまスープ屋台の優しい湯気。

どちらも、たぶんまた必要な日に見つけてしまうのだろう。


そして私はきっと、またあの路地へ行く。


胃薬を片手に。

少しだけ、空腹を抱えて。

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