表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
境界線食堂  作者: 珠諳


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

15/16

もらい不機嫌の麻婆豆腐

境界線食堂の厨房では、朝でも夜でもない時間に、豆腐が静かに揺れていた。


小さな丼の中に、白い豆腐。

細かく炒めたひき肉。

香味油。

そして、赤すぎない麻婆だれ。


それを見ながら、料理長は少し得意げに腕を組んでいた。


「店主」


「何だ」


「この間の麻婆豆腐、そろそろ客席に出してもいい頃合いでは?」


店主は手元の帳簿から顔を上げた。


「ラー油を足しただろ」


料理長は一瞬だけ黙った。


「……要確認と書きました」


「確認前に足すな」


「試作品でしたので」


「試作品ほど報告しろ」


料理長は丼を少しだけ店主の方へ寄せた。


「でも、辛さは落ち着いています。ほら、アクリル板も用意しました」


調理台の横には、透明な板が立てかけられている。


店主は麻婆豆腐を見た。


表面のラー油は、静かに赤く揺れている。


一見、普通の麻婆豆腐に見えた。


だが、厨房の奥で鍋がかたんと鳴った瞬間、赤みが一段濃くなった。


店主はすぐにアクリル板を丼の前に置いた。


赤みが少し落ち着く。


「辛さは控えめ」


「はい」


「後味は残る」


「はい」


「アクリル板は必須」


「はい」


「客に出す前に、必ず火力の出どころを確認しろ」


料理長はぱっと顔を明るくした。


「つまり、試験提供ですね!」


「条件付きだ」


「ほぼ採用!」


「違う」


その時、店の戸がからりと開いた。


店員が顔を上げる。


入ってきた客は、肩をすぼめるようにして立っていた。


雨に濡れているわけではない。


服も乱れていない。


けれど、客の周りだけ、空気が少しぴりぴりしていた。


まるで、見えない油が細かく跳ねているようだった。


「いらっしゃいませ」


店員が声をかけると、客は小さく会釈した。


「ひとりです」


「はい。お好きな席へどうぞ」


客はカウンターから少し離れた席に座った。


水を出されても、すぐには飲まない。


指先が、グラスの縁に触れたり離れたりしている。


店員は静かに尋ねた。


「ご注文はお決まりですか?」


客はメニューを見て、少しだけ迷ったあとに言った。


「麻婆豆腐をお願いします」


厨房の奥で、麻婆豆腐が小さく、ぷつ、と鳴った。


店員はうなずいた。


「辛さはどうされますか?」


「普通で……」


客はそこで言葉を止めた。


水の入ったグラスを見つめる。


「いえ、控えめでお願いします。今日は、もう十分辛いので」


店員は、客の周りに漂うぴりついた空気を見た。


「お客様、少しピリッとされていますね」


客は顔を上げた。


「わかりますか?」


「水面が細かく揺れています」


客はグラスを見た。


水面は、たしかに小さく震えていた。


「今日、何かありましたか?」


客は少し困ったように笑った。


「職場で、ずっと誰かが不機嫌で」


水面が、また細かく震えた。


「その人が直接何か言ってきたわけじゃないんです。でも、机に物を置く音が大きかったり、ため息をついたり、返事がそっけなかったりして」


「はい」


「私が何かしたのかなって考えてしまって」


客は少し笑った。


「何も言われてないのに、勝手に疲れてるんです。変ですよね」


厨房で、麻婆豆腐のラー油がじわりと赤くなった。


店員は厨房へ向かった。


料理長はすでに丼を用意していた。


「来ましたね」


「辛さ控えめで」


店員が言うと、料理長はうなずいた。


「もちろんです。控えめです」


店主が横から、料理長の手元を見た。


「……瓶は置いておけ」


料理長は、何も言わずにラー油の瓶を棚へ戻した。


店主は丼の横にアクリル板を添えた。


「客席で使う。最初から置くな」


「最初から置かないんですか?」


料理長が目を丸くする。


「最初に、辛さの出どころを見る」


店主は短く言った。


「それから置け」


店員は盆を受け取った。


丼の中では、麻婆豆腐が静かに揺れている。


「お待たせいたしました」


客の前に置かれたのは、小ぶりの麻婆豆腐だった。


赤すぎない。


香りも穏やかだ。


湯気は立っているが、むせるほどではない。


「もらい不機嫌の麻婆豆腐です」


客は丼を見つめた。


「もらい不機嫌……」


「はい」


「私、そういう状態ですか」


「まだ判断していません」


「この店、いつも判断が遅いんですね」


「火力を見ていますので」


客は少しだけ笑った。


店員はれんげを置いた。


「まず、一口どうぞ」


客は恐る恐る麻婆豆腐をすくった。


白い豆腐に、赤い餡が少し絡む。


口に入れる。


「……あれ」


「辛いですか?」


「思ったより、辛くないです」


「はい」


「普通においしいです」


客の肩が、少しだけ下がった。


その時、客の鞄の中でスマートフォンが震えた。


客は反射的に画面を見る。


職場のグループ通知だった。


中身を読む前に、客の指が止まる。


丼の中で、ラー油がじわっと広がった。


さっきまで穏やかだった麻婆豆腐が、赤みを増す。


客は驚いた。


「え、急に辛そうになりました」


「今、何を見ましたか?」


「職場の通知です」


「内容は読みましたか?」


「まだです」


「では、通知の音に反応したようです」


客は丼を見つめた。


「私じゃなくて、麻婆豆腐が?」


「はい」


「でも、私も反応しました」


「そのようです」


客はスマートフォンを伏せた。


ラー油の広がりが、少し遅くなる。


店員は、盆の端に置いていた透明なアクリル板を取り出した。


「こちらを置きます」


「何ですか、それ」


「境界線食堂のアクリル板です」


客は少し警戒した顔をした。


「飛沫防止ですか?」


「油跳ね防止です」


「油跳ね」


「はい。よそから跳ねてきた油が、そのままお客様の丼へ入らないようにします」


店員がアクリル板を丼の横に立てると、麻婆豆腐の赤みが少し落ち着いた。


客は目を丸くした。


「本当に落ち着いた」


「はい」


「でも、相手はまだ不機嫌かもしれません」


「そうですね」


「それなのに、私の丼だけ落ち着いていいんですか?」


店員は、すぐには答えなかった。


客は伏せたスマートフォンを見た。


「私、いつも気になるんです。不機嫌な人がいると、何かしたかなって。機嫌を直さなきゃって」


「はい」


「空気が悪いと、私がなんとかしないといけない気がして」


丼のラー油が、また少し滲んだ。


店員は静かに言った。


「不機嫌そのものが辛いのではありません」


客は顔を上げた。


「違うんですか?」


「はい。それを“自分が何とかしなければ”と丼に入れた時、辛さになります」


客は、麻婆豆腐を見た。


「私が、自分の丼に入れてる」


「はい」


「勝手に?」


「確認する前に、入れてしまうことがあります」


客は言葉を止めた。


店員は続けた。


「その辛さは、お客様の丼で生まれたものですか?」


「……わからないです」


「では、一度分けてみましょう」


店員は、小さな取り皿を二つ置いた。


片方には、麻婆豆腐を少し取り分ける。


もう片方には、赤いラー油だけを少しすくう。


「こちらが、お客様の分」


「はい」


「こちらが、よそから跳ねてきた油です」


客は赤い小皿を見た。


「よそから跳ねてきた油」


「はい。お客様の器で生まれた辛さとは、まだ言い切れません」


「でも、その人が怒ってる理由が私かもしれないです」


「そうかもしれません」


店員は否定しなかった。


客は少し驚いたように顔を上げた。


「否定しないんですね」


「確認していないからです」


「じゃあ、私のせいかもしれない」


「かもしれません」


ラー油がまた揺れた。


店員は続ける。


「ただし、どこから跳ねてきたかわからない油を、全部お客様の丼に入れる必要はありません」


客は、赤い小皿を見つめた。


「どこから跳ねてきたかわからない油……」


「はい」


「私は、いつも全部入れてました」


「そのようです」


客は苦笑した。


「だから辛かったんですね」


「はい」


客は、もう一口、麻婆豆腐を食べた。


辛さはある。


でも、食べられる辛さだった。


「これは、私の分ですか」


「はい。お客様の丼で扱える分です」


「相手の不機嫌を、全部無視するわけじゃない」


「はい」


「でも、全部引き受けるわけでもない」


「はい」


客はゆっくり息を吐いた。


「難しいですね」


「火加減は、いつも少し難しいです」


店員は、赤い小皿と客の丼の間に、透明なアクリル板を置き直した。


赤い小皿は、アクリル板の向こう側で、まだ静かに湯気を立てている。


消えてはいない。


けれど、客の丼へ混ざってはこなかった。


厨房では、料理長がそっと客席を覗いていた。


店主が無言で視線を向ける。


料理長はすぐに引っ込んだ。


「大丈夫です。瓶には触ってません」


「ならいい」


「信用が薄い」


「実績がある」


客席では、客が伏せたスマートフォンをもう一度見ていた。


「確認してみようかな」


「はい」


「今?」


「お客様が確認すると決めるなら」


客は少し迷い、スマートフォンを手に取った。


通知を開く。


画面を読む。


そして、拍子抜けしたように瞬きをした。


「……別件でした」


「はい」


「私のことじゃなかった」


「はい」


「でも、開く前にあんなに辛くなった」


客は丼を見た。


ラー油は、もう大きくは広がっていない。


「相手の機嫌って、確認する前に自分の中で勝手に辛くなるんですね」


「はい」


「じゃあ、確認できるものは確認して、できないものは置いておく?」


「それも一つの方法です」


客は赤い小皿を見た。


「この、よそから跳ねてきた油は、どうしたらいいんですか」


店員は、小皿をさらに少しだけ丼から遠ざけた。


「相手の器へ戻します」


「戻す」


「はい。少なくとも、お客様が食べなくてもいいんです」


客は少し不安そうに言った。


「でも、戻したら冷たい人みたいじゃないですか」


「戻すことと、投げつけることは違います」


「投げつける」


「はい。これはお客様の油ではありません、と場所を分けるだけです」


客はしばらく黙っていた。


それから、赤い小皿を見て、小さくうなずいた。


「あれは、私が食べなくてもいいんだ」


ラー油の小皿が、ほんの少し静かになった。


客は麻婆豆腐を食べ進めた。


辛さは残っている。


でも、さっきのように勝手に広がらない。


アクリル板の向こう側で、赤い油は赤いままだった。


消えたわけではない。


ただ、客の丼へ流れ込んではこなかった。


「ごちそうさまでした」


客はれんげを置いた。


「全部食べられました」


「はい」


「辛かったけど、食べられる辛さでした」


「よい火加減です」


客は少し笑った。


「お代は、お題でしたよね」


店員は小さな紙を差し出した。


そこには、こう書かれていた。


――相手の不機嫌を、自分の味つけにしないでください。


客は紙を読んだ。


「これ、持って帰ります」


「はい」


「あと、そのアクリル板も」


店員は少しだけ首を傾げた。


「実物ですか?」


「心の方です」


店員は静かにうなずいた。


「それなら、お持ち帰りいただけます」


客は紙を鞄にしまった。


席を立つ時、スマートフォンがまた震えた。


客は一度だけ画面を見て、それから伏せた。


「帰ってから見ます」


「はい」


「今は、私の丼を片付けます」


店員はうなずいた。


「よい順番だと思います」


客は小さく頭を下げ、店を出ていった。


暖簾が揺れる。


外の空気は少し冷えていたが、客の背中からは、入ってきた時ほどのぴりぴりした熱は出ていなかった。


厨房では、料理長が麻婆豆腐の丼を見ていた。


「店主」


「何だ」


「ラー油、一滴足したの、やっぱりバレてました?」


店主は答えなかった。


代わりに、試作品の札を手に取る。


もらい不機嫌の麻婆豆腐

辛さ:控えめ

後味:はっきり

アクリル板:必須

ラー油:試作品につき要確認


店主は赤ペンを走らせた。


ラー油:確認前に足すな。


料理長は両手を合わせた。


「次からは確認後に」


「足すな」


「確認後も?」


「必要なら、だ」


料理長は少しだけ笑った。


「つまり、可能性はありますね」


「お前に言うと増えるから言わない」


店員は空になった丼を下げながら、アクリル板を拭いた。


透明な板には、少しだけ赤い跡がついている。


けれど、客の丼は空だった。


店主は札の最後に、一行だけ書き足した。


火力の出どころを見てから、辛さを決めること。


料理長はそれを見て、うなずいた。


「なるほど」


「わかったか」


「少し」


「また少しか」


「辛さ控えめなので」


店主は小さくため息をついた。


境界線食堂の厨房には、麻婆の香りがまだ少し残っていた。


赤い香りだった。


けれど、それはもう、誰かの丼を勝手に辛くするほどの熱ではなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ