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境界線食堂  作者: 珠諳


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16/16

大丈夫ですカレー

境界線食堂の暖簾をくぐったお客さんは、席に着く前から少し困った顔をしていた。


けれど、その困った顔は長くは続かなかった。


店員が水を持って近づくと、お客さんはすぐに背筋を伸ばした。


「いらっしゃいませ。お好きなお席へどうぞ」


「あ、大丈夫です」


まだ何も聞かれていなかった。


店員は、ほんの少しだけまばたきをした。


「……では、こちらの席へどうぞ」


「あ、大丈夫です」


お客さんは、そう言って案内された席に座った。


本当は、入口に近い席は少し落ち着かなかった。


人が通るたびに肩が動く気がするし、暖簾の隙間から外の気配も入ってくる。


でも、席を変えてほしいと言うほどではない。


たぶん。


店員はメニューを置いた。


「お冷やは、冷たいものと常温のものがございます」


「あ、冷たいので大丈夫です」


本当は、冷たい水を飲むと胃が少しきゅっとなる。


でも、飲めないわけではない。


冷たい水くらいで常温にしてくださいと言うのは、少し細かい人みたいな気がした。


「辛いものは、お好きですか」


「あ、大丈夫です」


好きかどうかは、聞かれるまで考えていなかった。


辛いものが得意なわけではない。


でも、食べられないわけでもない。


食べられないわけではないものは、だいたい大丈夫に入れていいはずだった。


「苦手な具材はございますか」


「特に、大丈夫です」


玉ねぎの大きいものは、少し苦手だった。


にんじんも、大きすぎると少し身構える。


じゃがいもは好きだけれど、焦げたところは苦いから苦手だった。


でも、苦手と言うほどのことではない。


食べられないわけではない。


そういうものをいちいち言っていたら、面倒な客になる気がした。


店員は、伝票に何かを書き込んだ。


「かしこまりました。では、本日のおすすめをお持ちします」


「あ、大丈夫です」


お客さんは、そこでようやく自分が何度も同じ言葉を言っていることに気づいた。


けれど、気づいただけだった。


言い直すほどのことでもない。


店員が厨房へ向かうと、奥から料理長の声がした。


「来ましたか」


「はい。大丈夫ですカレーを一つ」


「底、すくいました?」


「これからです」


その瞬間、厨房のさらに奥から低い声が飛んだ。


「提供前に一度すくえ」


「わかってますよ、店主」


料理長の声は明るかった。


「でも、大丈夫と言う時ほど、底は賑やかなんですよ。少しくらい発見があった方が――」


「賑やかにするな」


「可能性です」


「事故の別名にするな」


客席まで聞こえていた。


お客さんは水を一口飲んだ。


冷たかった。


胃のあたりが、少しだけ縮んだ。


でも、大丈夫だった。


しばらくして、店員が深い皿を運んできた。


「お待たせしました。大丈夫ですカレーです」


皿の中のカレーは、どこから見ても普通だった。


表面はなめらかで、湯気はやわらかく立っている。


色も、とろみも、香りも、ちょうどいい。


何も問題がなさそうに見えた。


お客さんは少し安心した。


「おいしそうですね」


「ありがとうございます」


店員はスプーンを添えながら言った。


「召し上がる前に、一度、底をすくってください」


「……底、ですか」


「はい。こちらのカレーは、底に具材が沈みやすいので」


お客さんは、皿を見た。


表面は本当になめらかだった。


底に何かあるようには見えなかった。


「でも、大丈夫そうです」


「はい。表面は、大丈夫そうです」


店員は否定しなかった。


その言い方が少し引っかかった。


お客さんは、スプーンをカレーに入れた。


なめらかな表面を破って、ゆっくり底まで沈める。


そして、そっとすくった。


ごろり。


大きすぎるにんじんが出てきた。


スプーンからはみ出しそうなほど大きい。


お客さんは、思わず手を止めた。


「……大丈夫です」


大丈夫。


これくらいなら食べられる。


食べられるはず。


大きいだけだ。


大きいだけなら、困っているとは言わない。


店員は、にんじんを見た。


「お客様」


「はい」


「その“大丈夫です”は、食べられるという意味ですか。それとも、困っていないことにしたい、という意味ですか」


お客さんは、スプーンを持ったまま固まった。


すぐには答えられなかった。


困っていないことにしたい。


そんな言葉を、自分の中に置いた覚えはなかった。


「……食べられます」


「はい。食べられるんですね」


店員は、小さな皿を一枚置いた。


「ただ、一口で食べる必要はありません。スプーンで切り崩せます」


お客さんは、にんじんを見た。


大丈夫、という言葉が口の中まで来て、そこで止まった。


「……じゃあ、少し、切り崩そうかな」


「かしこまりました」


店員は、小さな皿をお客さんの近くに寄せた。


奥で料理長が言った。


「いいですねぇ。最初の具材から大物です」


店主の声が返る。


「大物にするな」


「沈んでいたものですから」


「沈めたのはお前だ」


「可能性としてです」


「包丁を持つな」


スプーンで切り崩したにんじんを、カレーに戻す。


小さくなったにんじんは、同じにんじんなのに、さっきより少し食べやすそうに見えた。


お客さんは、それを一口食べた。


甘かった。


思ったより、ちゃんと甘かった。


「……食べられます」


「はい」


「でも、大きいままだと、ちょっと無理でした」


言ってから、お客さんは自分で驚いた。


無理。


その言葉を使っても、皿は割れなかった。


店員も嫌な顔をしなかった。


店の照明も消えなかった。


ただ、カレーの湯気が少しやわらかくなっただけだった。


「では、次も底をすくってみてください」


お客さんは、もう一度スプーンを入れた。


今度はさっきより少し慎重に、底を探る。


ごろ、ごろ。


焦げかけたじゃがいもが二つ出てきた。


片面だけ黒く、端が少し硬そうだった。


「あ……」


言いかけて、お客さんは口を閉じた。


大丈夫です。


いつもの言葉が、すぐに出てこようとした。


焦げているくらいで、交換してくださいと言うほどではない。


苦いかもしれないけれど、飲み込めばいい。


食べられないわけではない。


「大丈夫……」


そこまで言って、お客さんは止まった。


店員は何も言わなかった。


ただ、皿の底と、お客さんの顔を交互に見ていた。


お客さんは、じゃがいもを見つめた。


本当は、少し疲れていた。


ここに来る前から、ずっと。


誰かに何かをされたわけではない。


大きな事件があったわけでもない。


ただ、小さな用事や返事や気遣いや、後回しにしたものが、少しずつ火にかけられていた。


気づいた時には、端の方が焦げていた。


「……これは、少し苦そうです」


やっと、それだけ言えた。


店員はうなずいた。


「はい。焦げかけています」


「焦げてますよね」


「はい」


「……焦げてるって、言ってもいいんですね」


「料理の状態ですから」


店員は、焦げかけたじゃがいも用に小さな皿を置いた。


「苦いところを外すこともできます。残すこともできます。食べるなら、ほかの具材と一緒にすることもできます」


「残してもいいんですか」


「はい。全部食べるための店ではありません」


お客さんは、少しだけ笑った。


それは、困った顔に近い笑いだった。


「食堂なのに」


「食堂ですので」


店員は、静かに言った。


「食べ方も、お出しします」


お客さんは、焦げた部分を少しだけ外した。


それから、じゃがいもを一口食べた。


苦みは残っていた。


でも、全部が苦いわけではなかった。


三度目に底をすくうと、今度は肉が出てきた。


沈みきって、皿の底に少し貼りついていた。


スプーンで持ち上げようとしても、なかなか取れない。


「あれ」


お客さんは少し力を入れた。


肉は、ぬるりと動いたが、まだ底に残った。


「こちらは、沈みきった肉ですね」


店員が言った。


「長く沈めると、取り出す時に少し力が要ります」


お客さんは、スプーンを止めた。


言いたいことがあった。


誰かに。


いつか。


でも、言っても仕方ないと思った。


言ったところで変わらない気がした。


言ったら空気が悪くなる気がした。


言ったら、自分がわがままな人みたいになる気がした。


だから、底に沈めた。


見えなくなれば、なくなったことにできると思った。


けれど、なくなってはいなかった。


スプーンの先で、まだそこにあった。


「……これ、取れません」


今度の声は、小さかった。


けれど、ちゃんと言葉に出た。


店員は、うなずいた。


「はい。取れにくいですね」


「取れないものも、あるんですか」


「あります」


あっさりした返事だった。


お客さんは、少しだけ息を吐いた。


「全部、きれいに取れるものだと思ってました」


「そういう時もあります。けれど、沈んでいた時間が長いものは、すぐには取れません」


「じゃあ、どうするんですか」


「無理にはがさず、少し周りからゆるめます」


店員は、スプーンで器用に肉の端から隙間を作った。


底に貼りついた肉が、ゆっくり動いた。


「……動いた」


「はい」


「こんな少しで」


「少しでも、入れる場所が合えば」


お客さんは、肉をもう一度すくった。


今度は、さっきより楽に取れた。


完全ではない。


でも、少し動いた。


それだけで、なぜか胸のあたりが軽くなった。


最後に出てきたのは、溶け残った玉ねぎだった。


とろけているようで、半端に形が残っている。


透明になりかけているのに、芯のところだけ白い。


お客さんは、それを見て眉を寄せた。


「これは……」


何かに似ていた。


はっきり嫌だと言えるほどではない。


でも、何となく引っかかる。


説明しようとすると、言葉がほどける。


大げさかもしれない。


気にしすぎかもしれない。


でも、何も感じていないわけではない。


「違和感、ですかね」


店員が言った。


お客さんは、顔を上げた。


「違和感」


「はい。溶けたように見えて、残っているものです」


お客さんは、玉ねぎを見た。


「……それ、苦手かもしれません」


「はい」


「でも、苦手って言うほどじゃないかもしれなくて」


「はい」


「嫌ってほどでもないんです」


「はい」


「でも、少し、残ります」


店員は、うなずいた。


「では、“少し残る”でよろしいと思います」


お客さんは、何度かまばたきをした。


それでいいのか、と思った。


嫌いです、と言い切れなくても。


無理です、と叫ばなくても。


大丈夫じゃありません、と全部ひっくり返さなくても。


少し残る。


少し重い。


少し苦い。


少し大きい。


それでよかったのかもしれない。


皿の表面を見ると、カレーはまだなめらかだった。


けれど、最初とは違っていた。


底に何があるのか、少しだけわかっている。


それだけで、同じカレーなのに、知らない料理ではなくなっていた。


お客さんは、冷たい水を見た。


氷が、からんと音を立てた。


胃のあたりが、また少し縮む。


「あの」


「はい」


「お水、常温にしてもらってもいいですか」


店員は、すぐにうなずいた。


「かしこまりました」


お客さんは、少し慌てて付け足しそうになった。


大丈夫です。


冷たいままでも。


わざわざ替えてもらわなくても。


その言葉が、口の近くまで来た。


けれど、今度は出さなかった。


「……冷たいの、少し苦手でした」


「はい」


店員はグラスを下げ、常温の水を持ってきた。


それだけだった。


誰も困らなかった。


誰も怒らなかった。


厨房の奥で、料理長が小さく言った。


「いいですねぇ。常温変更。地味ですが大きい」


店主が返した。


「地味でいい」


「もっと劇的に、カレー皿が光る演出などは」


「いらない」


「では、湯気だけ少し」


「いらない」


客席に戻った店員は、何事もなかったように水を置いた。


お客さんは、それを一口飲んだ。


冷たくなかった。


ただ、それだけなのに、身体の中で何かが少しほどけた。


「大丈夫ですって、便利ですね」


お客さんがぽつりと言った。


「はい」


店員は答えた。


「便利です」


「でも、便利すぎますね」


「はい。表面をならすには、とても便利です」


店員は、カレー皿を見た。


「ただ、底の具材は消えません」


お客さんは、スプーンを置いた。


皿の底には、まだ少し具材が残っている。


全部を言葉にできたわけではない。


全部を食べられたわけでもない。


でも、見なかったことにはしなかった。


「これ、全部食べなくてもいいですか」


「はい」


「今は、ここまでで」


「かしこまりました」


店員は、小さな蓋つきの器を持ってきた。


「残したものは、こちらへ分けておきます」


「捨てるんじゃないんですか」


「捨てるものと、あとで見ればいいものは違います」


その言葉に、お客さんは少し黙った。


それから、ゆっくりうなずいた。


「じゃあ、これは、あとで」


「はい。あとで」


厨房の奥で、店主が短く言った。


「分ければ、食べられる料理になる」


料理長が、すかさず続けた。


「沈めれば、焦げる」


「それは私の台詞だ」


「いい台詞だったので」


「盗むな」


お客さんは、思わず小さく笑った。


笑った拍子に、肩の力が少し抜けた。


「ごちそうさまでした」


お客さんは、スプーンを置いた。


「全部は食べられませんでした」


「はい」


「でも、何が入っているかは少し見えました」


「よい食べ方です」


お客さんは、小さな蓋つきの器を見た。


「これは、持って帰るんですか」


「実物ですか?」


「いえ」


お客さんは少し考えた。


「心の方です」


店員は静かにうなずいた。


「それなら、お持ち帰りいただけます」


お客さんは、少し困った顔をした。


けれど、今度はすぐに笑ってごまかさなかった。


「お代は、お題でしたよね」


店員は小さな紙を差し出した。


そこには、こう書かれていた。


――大丈夫かどうかを決める前に、一度、底をすくってください。


お客さんは紙を読んだ。


それから、もう一度、蓋つきの器を見た。


中には、まだ少しだけ具材が残っている。


大きすぎたにんじん。


焦げかけたじゃがいも。


沈んでいた肉。


溶け残った玉ねぎ。


どれも、捨てるほどではない。


でも、なかったことにするには、少し重い。


「これ、持って帰ります」


「はい」


「あとで、もう一度見ます」


「はい」


「全部食べるかどうかは、その時に決めます」


店員はうなずいた。


「よい順番だと思います」


お客さんは紙を鞄にしまった。


席を立つ前に、常温の水をもう一口飲む。


冷たくなかった。


ただ、それだけなのに、帰る前の身体にはちょうどよかった。


「次は、注文する前に少し考えます」


「はい」


店員はうなずいた。


「大丈夫かどうかではなく、何が入っているかを」


お客さんは、暖簾の方へ歩き出した。


入口に近い席は、やっぱり少し落ち着かなかった。


冷たい水は、やっぱり少し苦手だった。


大きすぎるにんじんは、一口では食べにくかった。


焦げたじゃがいもは、少し苦かった。


沈んだ肉は、すぐには取れなかった。


溶け残った玉ねぎは、少し残った。


どれも、大きな事件ではなかった。


でも、なかったことにしなくてもいいものだった。


暖簾をくぐる直前、お客さんは振り返った。


「常温のお水、助かりました」


店員は静かに頭を下げた。


「またお越しください」


お客さんが出ていったあと、料理長が厨房から顔を出した。


「どうでした、大丈夫ですカレー」


店員は伝票をまとめながら答えた。


「底が多めでした」


「でしょう」


料理長は誇らしげに胸を張った。


店主が、後ろから無言で札を取り上げた。


赤ペンが入る。


底の具材、多め


その横に、一本線が引かれた。


代わりに、こう書き直される。


底の具材、確認必須


料理長はそれを見て、少しだけ口を尖らせた。


「多めの方が、料理としては面白いんですけどね」


「客は発掘に来ているわけではない」


「でも、見つけることは大事です」


「見つける量を調整しろ」


料理長は、少し考えた。


それから、赤ペンの入った札を見て、にやりと笑った。


「では、次回からは確認必須で」


店主は目を細めた。


「次回から、ではない」


料理長は、聞こえなかったふりをして追加棚へ向かった。


深いカレー皿の底で、まだ少しだけ湯気が立っている。


表面は、もうなめらかではなかった。


けれどその方が、少しだけ、おいしそうに見えた。


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