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境界線食堂  作者: 珠諳


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14/16

閑話 料理長の深夜仕込み

閉店後の境界線食堂は、静かだった。


客席の灯りは落とされ、テーブルの上には水差しだけが残っている。

暖簾はしまわれ、厨房の火も落とされた。


……ことになっている。


厨房の奥。


小さな灯りの下で、料理長がひとり、腕まくりをしていた。


調理台には、鍋、小鉢、黒い皿、すりガラスの器、深いカレー皿、卵焼き器、唐揚げ用の小皿が並んでいる。


料理長は、それらを見渡して、満足そうにうなずいた。


「さて。新しい試作品棚、いきますか」


誰も返事はしない。


店主はいない。

店員もいない。


だから今夜の厨房は、料理長のものだった。


「……怒られる前に形にしておけば、こちらのものです」


料理長はにやりと笑い、最初の鍋に火を入れた。


透明なスープが、ゆっくり温まっていく。


光を受けるたび、赤にも、青にも、甘そうにも、辛そうにも見える。

けれど、香りは薄い。


「一品目。カメレオン風味の七変化スープ、ベース抜き」


料理長は唐辛子を近づけた。


スープが、ほんのり赤くなる。


次に砂糖壺を近づける。


今度は、甘そうな色になる。


「いいですねぇ。周りの味に合わせる、柔軟性抜群のスープです」


料理長はスプーンで味見をした。


「……味がない」


その瞬間、どこからともなく低い声が聞こえた気がした。


――ベースを抜くな。


料理長はぴたりと止まった。


そして、何事もなかったように小さく咳払いをする。


「空耳ですね」


もう一度、スープを見る。


「でもまあ、言われそうではあります。かなり言われそうです」


料理長は棚から小さな岩塩を取り出し、小皿に置いた。


「はいはい。自分だけの岩塩、ひとかけ添えますよ。これで空耳対策完了です」


少し考えて、岩塩を外そうとした。


やめた。


「いや、外しません。これは必要です。味がないからこそ、ひとかけが効くんです」


料理長は札に書いた。


カメレオン風味の七変化スープ

ベース抜き

添え物:自分だけの岩塩、ひとかけ


「よし。怒られたら、その時に考えます」


次に出したのは、黒い皿だった。


その上には、美しく盛られたお造り。


透き通るような身。

つやのある断面。

大葉とわさびも添えてある。


見た目だけなら、今すぐ客席へ出せそうだった。


料理長は箸を入れた。


かちん。


凍っている。


「二品目。ガチガチ冷凍お造り定食。賞味期限、一年前」


料理長は、もう一度つついた。


かちん。


その音に、なぜか満足そうにうなずく。


「この、見た目は新鮮なのに箸が入らない感じ。なかなか良いです」


かちん。


かちん。


「いい固さですねぇ」


今度は、頭の中に赤ペンの気配が走った。


――賞味期限を過ぎたものを出すな。


料理長は顔を上げ、誰もいない厨房を見回した。


「…今のは完全に空耳です」


しかし、黒い皿を見て少し考える。


「まあ、これはすぐには出しません。さすがに包丁が負けます」


料理長は黒い皿を追加棚の奥へ置き、上から布をかけた。


「でも、外しません。すぐ食べられない料理にも、出番はあります」


その言い方には、少しだけ真面目な響きがあった。


すぐに料理長は、いつもの顔に戻る。


「奥で寝かせましょう。冷凍のままですが」


次は、小さな丼だった。


豆腐。

ひき肉。

香味油。

まだ赤くない麻婆豆腐。


最初は、穏やかな色をしていた。


料理長は、わざと厨房の奥で鍋蓋をかたんと鳴らす。


丼の表面に、ラー油がじわっと浮いた。


「おお」


もう一度、かたん。


ラー油が増える。


「三品目。もらい不機嫌の激辛ラー油麻婆豆腐」


料理長の目が、わかりやすく輝いた。


「これはいい。近くの刺激をよく拾います」


香りを嗅いだだけで、喉の奥が少しひりつく。


そこで、また低い声が聞こえた気がした。


――先に置け。


料理長は、手に持っていたラー油瓶をそっと止めた。


「早いですねぇ。まだ何もしてませんよ」


している。


料理長は少し口を尖らせながら、棚から透明なアクリル板を取り出した。


丼の前に置く。


赤くなりかけていたラー油が、少し落ち着いた。


「はい、置きました。これでよろしいでしょうか、空耳店主様」


もちろん返事はない。


料理長はラー油瓶を見た。


「でも、試作品ですからね」


一滴。


ぽとり。


麻婆豆腐が、少し赤く笑ったように見えた。


料理長も笑った。


「これも言われてから考えます」


札に書く。


もらい不機嫌の麻婆豆腐

辛さ:控えめ

後味:はっきり

アクリル板:必須

ラー油:試作品につき要確認


「要確認って便利ですね」


次に出したのは、すりガラスの器だった。


中に冷や奴を置く。


薬味は乗せない。

器の外側を少し曇らせる。


豆腐はそこにあるのに、はっきり見えない。


「四品目。すりガラス器のステルス冷や奴」


料理長は声をひそめた。


けれど顔は、かなり得意げだった。


「見つけにくい。けれど、ちゃんとある」


器を少し回す。


豆腐がぼんやり見える。


料理長は布巾で器の外側を少しだけ拭いた。


曇りの向こうから、白い豆腐が姿を見せる。


「ここで、すぐ薬味を乗せたくなるんですよね」


ねぎ。

生姜。

かつお節。


料理長は薬味の小皿を手に取る。


その瞬間、どこかから聞こえた気がした。


――盛りすぎるな。


料理長は、小皿を持ったまま固まった。


「……今日はよく聞こえますね」


少し迷って、薬味を戻す。


「これは、見つかった後に急に飾り立てる料理じゃないですね。豆腐の味を残します」


珍しく、素直だった。


ただし、最後にかつお節をひとつまみだけつまんだ。


「ひとつまみは飾りではなく、礼儀です」


たぶん怒られる。


でも外さなかった。


次は、深いカレー皿だった。


表面だけなめらかなカレーをよそう。


ほどよい色。

ほどよいとろみ。

ほどよい湯気。


表面は、どこから見ても普通のカレーだった。


料理長は、底に沈ませた具材を忘れない。


焦げかけたじゃがいも。

大きすぎるにんじん。

沈みきった肉。

溶け残った玉ねぎ。


表面をならして盛り付ける。


何事もなかったように見える。


「五品目。大丈夫ですカレー、底に沈む具材入り」


料理長はスプーンで底をすくった。


ごろごろ、ごろごろ。


思ったより出てきた。


「……多いですね」


少しだけ真顔になる。


すぐに、いつもの調子へ戻った。


「でも、大丈夫と言う時ほど、底は賑やかですから」


また空耳がした。


――底を一度すくえ。


料理長はスプーンを掲げた。


「すくってます。すでにすくってます。今回は先回り成功です」


そう言って、底の具材を二つ減らした。


一つ戻した。


「これくらいは必要です」


もう一つ戻しかけて、やめる。


「これは明日、店主の顔色を見てからにしましょう」


料理長は札に書いた。


大丈夫ですカレー

表面なめらか

底の具材、多め

提供前に一度すくうこと


六品目は、卵焼きだった。


卵液を流し、丁寧に巻く。


角を揃え、焦げ目を出さず、切り口をまっすぐにする。


見事な卵焼きができた。


「六品目。ちゃんとしなきゃ卵焼き」


料理長は一切れを持ち上げた。


「見てください、この角。完璧です」


誰も見ていない。


それでも料理長は、胸を張った。


味見をする。


少し硬い。


甘みがない。


沈黙。


すると、頭の中ではっきり声がした。


――甘みがない。


料理長は箸を置いた。


「はぁ、まだ食べてないのに当ててくるの、やめていただきたい」


誰もいない厨房で、料理長は少しだけむくれた。


「でも、ちゃんとするためには、多少の甘みを犠牲に……」


――抜くな。


「はいはいはい。わかりましたよ」


砂糖をひとつまみ。


もう一度、小さく焼き直す。


今度は、ほんの少し甘い。


「これなら怒られ方が弱くなるはずです」


料理長は満足そうにうなずいた。


「焦げ目は出してませんけど」


そこは譲らないらしい。


最後は、唐揚げだった。


小さな皿を三つ並べる。


左の皿に三つ。

中央の皿に三つ。

右の皿にも三つ。


数は同じ。


けれど、料理長が一歩横に動くと、隣の皿だけ少し大きく見えた。


中央の皿を自分の前に置く。


左を見る。


多く見える。


右を見る。


そちらも多く見える。


もう一度、自分の皿を見る。


「……ちょっと少なく見える」


料理長は楽しそうに笑った。


「七品目。比較の唐揚げ盛り合わせ」


唐揚げの香りは良い。


揚げ色も良い。


だから余計に、隣の皿がうまそうに見える。


「これは危険です。いい危険です」


その瞬間、空耳が飛んだ。


――いい危険などない。


料理長はにこにこしたまま、唐揚げを一つつまんだ。


「あります。料理長が言うので、あります」


もう一つ、空耳がした。


――唐揚げで油断させるな。


「油断するのも唐揚げの仕事です」


料理長はそう言い返してから、皿の横に小さな札を置いた。


まず自分の一個を食べること。


「これでどうです。かなり良心的です」


たぶん、店主ならまだ何か言う。


でも、料理長はそれ以上は聞こえないふりをした。


調理台の上には、試作品が並んだ。


七変化スープ。

冷凍お造り。

麻婆豆腐。

ステルス冷や奴。

大丈夫ですカレー。

ちゃんとしなきゃ卵焼き。

比較の唐揚げ。


料理長はそれらを眺め、両手を腰に当てた。


少し顎を上げている。


「いいですねぇ。実にいい棚です」


そして、ふと麻婆豆腐を見た。


アクリル板の向こうで、ラー油が少し赤く揺れている。


「次に出るなら、君かもしれませんね」


麻婆豆腐は、返事の代わりに小さく湯気を立てた。


料理長は札を書いた。


もらい不機嫌の麻婆豆腐

辛さ、控えめ。

ラー油、必要最低限。

アクリル板、必須。


少し迷ってから、最後に一行足す。


ただし、試作品につき要確認。


料理長はじっと札を見た。


「……ラー油、一滴足したのはバレますかね」


しばらく考える。


「まあ、バレた時に考えましょう」


料理長はにっこり笑って、追加棚に布をかけた。


厨房の灯りを落とす直前、料理長は棚を振り返る。


「可能性は、火を入れてみないとわかりませんからね」


その時、どこか遠くから、最後の空耳が聞こえた気がした。


――火を入れる前に報告しろ。


料理長は、まったく反省していない声で答えた。


「明日、報告します」


閉店後の厨房に、試作品たちの小さな気配だけが残る。


その中で、麻婆豆腐のラー油が、布の下でほんの少しだけ赤く光っていた。


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