まだ起きていない不安の過加熱グラタン~現実確認のサラダ添え~
境界線食堂の厨房には、小さなオーブンがある。
普通の店にあるような、パンを焼いたり、グラタンを温めたりするためのものだ。
ただし、この店のオーブンは少し気難しい。
入れたものの火加減よりも、客の頭の中の火加減に反応する。
考えすぎたもの。
何度も焼き直された心配。
まだ起きていない失敗。
言われてもいない言葉。
来てもいない未来。
そういうものを入れると、オーブンはすぐに熱くなる。
その日も、厨房のオーブンは開店前から赤く光っていた。
料理長が、扉の前にしゃがみ込んで中を覗いている。
「店主、香ばしくなってきました」
「焦げている」
店主は即答した。
「不安の香ばしさです」
「焦げだ」
「でも、この焦げ目、かなりリアルですよ。『どうせ無理』と『また失敗する』のチーズがいい感じに」
「客に出すな」
料理長は少しだけ残念そうに、オーブンのつまみを見た。
中では、グラタン皿がぐつぐつと揺れている。
表面のチーズはこんがりを通り越して、ところどころ黒い。
泡がひとつ、ぱちんと弾けた。
――先に全部考えておかないと。
店主は目を細めた。
「火を止めろ」
「でも、まだ中まで」
「火を止めろ」
料理長は素直に火を落とした。
珍しく反論しない。
それだけ、オーブンの熱が強かった。
店員は客席のテーブルを拭きながら、その熱を感じていた。
まだ客は来ていない。
それなのに、窓際の席の上だけ、空気が少し揺れている。
まるで、誰かが座る前から、見えない皿が熱を持っているようだった。
店員が水差しを置いた時、店の戸がからりと開いた。
入ってきた客は、両手を軽く握っていた。
荷物は多くない。服装も乱れていない。けれど、目だけが少し忙しそうだった。
何かを見るたびに、次の何かを探している。
席へ案内されると、客は椅子に座る前に窓の外を見た。
それから、店内の時計を見た。
水差しを見て、メニューを見て、また時計を見た。
店員は水を置いた。
「ご注文はお決まりですか?」
客はメニューを開いたまま、すぐには答えなかった。
「すみません。ちょっと考えます」
「はい」
「いや、でも考えすぎると決められないので、早く決めた方がいいですよね」
「急がなくても大丈夫です」
「でも、迷っている時間がもったいない気がして」
客はそう言って、メニューの端を指で押さえた。
その指先が、少し熱を持っているように見えた。
「最近、何かを待っていますか?」
店員が尋ねると、客は顔を上げた。
「待っている?」
「はい」
客は少し考えた。
「結果を待っています」
「結果」
「仕事の件で。まだ返事は来てないんですけど、たぶん駄目かもしれなくて」
「まだ返事は来ていない」
「はい。でも、駄目だった時のことを考えておかないと」
テーブルの上に置かれた水の表面が、細かく震えた。
「もし駄目だったら、次を探さないといけないし。周りに何て言うかも考えないといけないし。生活もあるし。もしかしたら、あの時ああ言ったのがよくなかったのかもしれないし」
言葉が、少しずつ早くなる。
「それに、駄目なら駄目で早く言ってくれた方がまだいいんですけど、でも実際に来たら怖いし、来ないなら来ないでずっと考えちゃうし」
店員は、水をもう少し注いだ。
「頭の中で、何度も焼いていますね」
客はきょとんとした。
「焼く?」
その時、厨房から、ぱちん、と小さな音がした。
オーブンの中の泡が弾けた音だった。
店員は厨房へ向かった。
料理長がオーブンの前で、耐熱手袋をつけている。
「今ですかね」
「まだ熱い」
店主が言った。
「でも、出さないと焦げます」
「もう焦げている。だからこれ以上焼くな」
料理長はオーブンからグラタン皿を取り出した。
皿そのものが熱で赤くなっている。
表面のチーズは焦げ目だらけで、ソースは器の端でぐつぐつと鳴っていた。
泡がまたひとつ弾ける。
――失敗したら全部終わり。
店主は眉を寄せた。
「そのまま出すな」
「冷まします?」
「冷ます。それから、現実確認のサラダをつけろ」
料理長はぱっと顔を上げた。
「サラダですね!」
「余計なトッピングはするな」
「まだ何も言ってません」
「顔が言っている」
料理長は少しだけ不満そうにしながら、冷蔵棚から小さな皿を取り出した。
皿の上には、葉野菜、きゅうり、トマト、薄く切った玉ねぎ。
どれも今ここにあるものだけだった。
「まだ起きていない未来のクルトンは?」
「いらない」
「最悪想定のチーズは?」
「いらない」
「備えのナッツくらいは」
「少量なら」
料理長は小さなナッツを二粒だけ乗せた。
店主はそれを見て、うなずいた。
「それでいい」
店員は盆を受け取った。
グラタン皿は少し冷まされたが、まだ熱い。
横には、現実確認のサラダ。
小さなグラスには、待つための水。
客席へ戻ると、客はまだメニューを開いたままだった。
文字を読んでいるというより、文字の上で考え続けているようだった。
「お待たせいたしました」
店員が皿を置くと、客は驚いた。
「私、まだ頼んでません」
「はい。こちらは確認用です」
「確認用」
「まだ起きていない不安の過加熱グラタン、現実確認のサラダ添えです」
客はグラタンを見た。
表面のチーズが焦げている。
ソースはまだ少しぐつぐつしていて、湯気が強く上がっていた。
「すごく熱そうですね」
「はい」
「今すぐ食べるんですか?」
「今は、まだ触れません」
客は少し意外そうな顔をした。
「食べ物なのに?」
「熱すぎる不安は、すぐには食べられません」
客は黙った。
グラタンの泡が小さく弾けた。
――あの時の言い方が悪かったのかも。
客の肩がぴくりと動く。
「今、何か言いました?」
「グラタンです」
「グラタンが?」
「はい」
泡がまた弾ける。
――駄目だったらどうするの。
客は眉を寄せた。
「嫌なグラタンですね」
「はい」
「でも、聞き覚えがあります」
店員は、現実確認のサラダを少し前へ出した。
「先に、こちらをどうぞ」
客はフォークを取った。
サラダを一口食べる。
葉野菜は冷たく、きゅうりは水気があり、トマトは少し甘かった。
「普通のサラダですね」
「はい。今ここにあるものだけで作っています」
「今ここにあるもの」
「まだ届いていない結果は入っていません」
客はフォークを持ったまま、少し黙った。
「……まだ、結果は来ていません」
「はい」
「駄目だとは、まだ言われていません」
「はい」
「成功とも言われてませんけど」
「はい」
「どっちでもない」
「今は、そうです」
客は、サラダをもう一口食べた。
グラタンの湯気が、ほんの少し弱まる。
「でも、考えておかないと不安なんです」
「考えることと、焼き続けることは違います」
店員は言った。
客はグラタンを見た。
「焼き続ける」
「はい。今は、オーブンから出してあります」
「でも、頭の中では戻してます」
「そのようです」
客は苦笑した。
「勝手に温め直してますね」
「はい」
「しかも、何度も」
「そのたびに、表面が焦げます」
客は焦げたチーズを見つめた。
「備えることは、悪いことじゃないですよね」
「悪くありません」
店員は、サラダの上の小さなナッツを指した。
「備えは、少量なら食感になります」
「少量」
「はい。全部を備えようとすると、皿が別のものになります」
客は少し笑った。
「防災リュックみたいですね」
「必要なものは入れます。ただ、まだ起きていないすべての災害を背負うと、歩けません」
客はフォークを置いた。
「私、それやってるかもしれません」
店員は水を置いた。
「こちらは、待つための水です」
「待つための水」
「はい。何もしないのではなく、今は待つ、というための水です」
客はグラスを見つめた。
「待つのが苦手です」
「はい」
「待ってる間に、悪い方に考えてしまうので」
「それなら、待つ時間にすることをひとつだけ決めてもいいと思います」
「たとえば?」
「今日は、メールを一回だけ確認する」
客は少し驚いたように顔を上げた。
「一回だけ」
「はい」
「何度も見ない」
「はい」
「見たくなったら?」
「サラダを思い出してください」
客は笑った。
「サラダ」
「今ここにあるものだけを見る練習です」
客はグラタンを見た。
湯気はまだあるが、さっきより落ち着いている。
「もう食べられますか?」
店員は皿に手を近づけた。
「少しなら」
客はスプーンを取った。
焦げたチーズの端を避け、まだ焦げすぎていないところをすくう。
口へ運ぶ。
熱い。
けれど、火傷するほどではない。
中のソースは濃厚で、少し苦い。
「苦いです」
「焦げた不安は、少し苦くなります」
「でも、食べられないほどじゃない」
「冷ましたので」
客は、もう一口食べた。
グラタンの中には、細かく刻まれた「もしも」が入っていた。
全部取り除くことはできない。
けれど、サラダと水を挟みながらなら、少しずつ食べられる。
「不安って、なくならないんですね」
「なくすものではないと思います」
店員は言った。
「では、どうするんですか」
「火を止めます」
客は、スプーンを持ったまま止まった。
「火を止める」
「はい。必要な分だけ考えたら、一度オーブンから出します」
「また不安になったら?」
「また温めても構いません」
客は少しだけ安心した顔をした。
「二度と考えるな、じゃないんですね」
「はい」
「それなら、できるかもしれません」
グラタンの泡が、また小さく弾けた。
――でも失敗したら。
客はその泡を見た。
今度は、すぐに飲み込まれなかった。
「失敗した時のことを、少しだけ考えておくのはありですか」
「ありです」
「でも、焦げるまで焼かない」
「はい」
客は、水を一口飲んだ。
「じゃあ、今日やることをひとつだけ決めます」
「はい」
「返事が来たら見る。来ていなかったら、今日は一回だけ確認して終わりにする」
「よい火加減だと思います」
客は、少しだけ肩の力を抜いた。
「それでも不安です」
「はい」
「不安なままでも、火を止めていいんですか」
「はい」
店員は静かに言った。
「火を止めるのは、不安が消えた後だけではありません」
客は、その言葉をしばらく受け取っていた。
そして、グラタンをもう一口食べた。
苦味はまだある。
でも、最初より熱くない。
客はサラダを挟み、水を飲み、ゆっくり食べ進めた。
全部は食べなかった。
焦げが強い部分を、少し残した。
「残してもいいですか」
「はい」
「もったいないですかね」
「焦げすぎたところまで、無理に食べなくても大丈夫です」
客はほっとしたように笑った。
「それ、助かります」
食べ終えたあと、グラタン皿には少し焦げが残っていた。
けれど、器はもう赤くなかった。
テーブルの上の水面も、静かになっている。
「お代は、お題でしたよね」
客が言った。
店員は小さな紙を差し出した。
そこには、こう書かれていた。
――まだ起きていないことを、焦げるまで焼かないでください。
客は紙を読み、小さく息を吐いた。
「長いですね」
「今日は、少し長めです」
「でも、必要ですね」
「はい」
客は紙を鞄にしまった。
そして、立ち上がる前に言った。
「帰ったら、メールを一回だけ確認します」
「はい」
「来てなかったら、お風呂に入ります」
「よい予定だと思います」
「それでも不安なら?」
「その時は、もう一度水を飲んでください」
客は笑った。
「この店、サラダと水の使い方が独特ですね」
「よく言われます」
客は小さく頭を下げ、店を出ていった。
暖簾が揺れる。
外の空気は、少し冷えていた。
けれど客の背中からは、入ってきた時ほど強い熱は出ていなかった。
厨房では、料理長がグラタン皿を見ていた。
「店主」
「何だ」
「焦げ、少し残りましたね」
「全部食べさせる必要はない」
「不安の焦げですもんね」
「そうだ」
料理長は試作品置き場の札を取り出した。
まだ起きていない不安の過加熱グラタン
注意:器まで熱くしない
添え物:現実確認のサラダ
水:待つための水
備考:焦げすぎた部分は残してよい
店主は赤ペンを取った。
料理長が少しだけ背筋を伸ばす。
店主は最後に一行書き足した。
オーブンから出すのも、調理である。
料理長はそれを見て、何度かうなずいた。
「……火を止めるのも、料理なんですね」
「そうだ」
「じゃあ、焼きすぎない練習をします」
「まず、つまみから手を離せ」
料理長は、そっとオーブンのつまみから手を離した。
境界線食堂の客席には、焦げの残ったグラタン皿がひとつ。
その横で、現実確認のサラダの皿は空になっていた。
不安は、少し残っている。
けれど、もう焦げ続けてはいなかった。




