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境界線食堂  作者: 珠諳


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12/16

まだ起きていない不安の過加熱グラタン~現実確認のサラダ添え~

境界線食堂の厨房には、小さなオーブンがある。


普通の店にあるような、パンを焼いたり、グラタンを温めたりするためのものだ。


ただし、この店のオーブンは少し気難しい。


入れたものの火加減よりも、客の頭の中の火加減に反応する。


考えすぎたもの。

何度も焼き直された心配。

まだ起きていない失敗。

言われてもいない言葉。

来てもいない未来。


そういうものを入れると、オーブンはすぐに熱くなる。


その日も、厨房のオーブンは開店前から赤く光っていた。


料理長が、扉の前にしゃがみ込んで中を覗いている。


「店主、香ばしくなってきました」


「焦げている」


店主は即答した。


「不安の香ばしさです」


「焦げだ」


「でも、この焦げ目、かなりリアルですよ。『どうせ無理』と『また失敗する』のチーズがいい感じに」


「客に出すな」


料理長は少しだけ残念そうに、オーブンのつまみを見た。


中では、グラタン皿がぐつぐつと揺れている。


表面のチーズはこんがりを通り越して、ところどころ黒い。


泡がひとつ、ぱちんと弾けた。


――先に全部考えておかないと。


店主は目を細めた。


「火を止めろ」


「でも、まだ中まで」


「火を止めろ」


料理長は素直に火を落とした。


珍しく反論しない。


それだけ、オーブンの熱が強かった。


店員は客席のテーブルを拭きながら、その熱を感じていた。


まだ客は来ていない。


それなのに、窓際の席の上だけ、空気が少し揺れている。


まるで、誰かが座る前から、見えない皿が熱を持っているようだった。


店員が水差しを置いた時、店の戸がからりと開いた。


入ってきた客は、両手を軽く握っていた。


荷物は多くない。服装も乱れていない。けれど、目だけが少し忙しそうだった。


何かを見るたびに、次の何かを探している。


席へ案内されると、客は椅子に座る前に窓の外を見た。


それから、店内の時計を見た。


水差しを見て、メニューを見て、また時計を見た。


店員は水を置いた。


「ご注文はお決まりですか?」


客はメニューを開いたまま、すぐには答えなかった。


「すみません。ちょっと考えます」


「はい」


「いや、でも考えすぎると決められないので、早く決めた方がいいですよね」


「急がなくても大丈夫です」


「でも、迷っている時間がもったいない気がして」


客はそう言って、メニューの端を指で押さえた。


その指先が、少し熱を持っているように見えた。


「最近、何かを待っていますか?」


店員が尋ねると、客は顔を上げた。


「待っている?」


「はい」


客は少し考えた。


「結果を待っています」


「結果」


「仕事の件で。まだ返事は来てないんですけど、たぶん駄目かもしれなくて」


「まだ返事は来ていない」


「はい。でも、駄目だった時のことを考えておかないと」


テーブルの上に置かれた水の表面が、細かく震えた。


「もし駄目だったら、次を探さないといけないし。周りに何て言うかも考えないといけないし。生活もあるし。もしかしたら、あの時ああ言ったのがよくなかったのかもしれないし」


言葉が、少しずつ早くなる。


「それに、駄目なら駄目で早く言ってくれた方がまだいいんですけど、でも実際に来たら怖いし、来ないなら来ないでずっと考えちゃうし」


店員は、水をもう少し注いだ。


「頭の中で、何度も焼いていますね」


客はきょとんとした。


「焼く?」


その時、厨房から、ぱちん、と小さな音がした。


オーブンの中の泡が弾けた音だった。


店員は厨房へ向かった。


料理長がオーブンの前で、耐熱手袋をつけている。


「今ですかね」


「まだ熱い」


店主が言った。


「でも、出さないと焦げます」


「もう焦げている。だからこれ以上焼くな」


料理長はオーブンからグラタン皿を取り出した。


皿そのものが熱で赤くなっている。


表面のチーズは焦げ目だらけで、ソースは器の端でぐつぐつと鳴っていた。


泡がまたひとつ弾ける。


――失敗したら全部終わり。


店主は眉を寄せた。


「そのまま出すな」


「冷まします?」


「冷ます。それから、現実確認のサラダをつけろ」


料理長はぱっと顔を上げた。


「サラダですね!」


「余計なトッピングはするな」


「まだ何も言ってません」


「顔が言っている」


料理長は少しだけ不満そうにしながら、冷蔵棚から小さな皿を取り出した。


皿の上には、葉野菜、きゅうり、トマト、薄く切った玉ねぎ。


どれも今ここにあるものだけだった。


「まだ起きていない未来のクルトンは?」


「いらない」


「最悪想定のチーズは?」


「いらない」


「備えのナッツくらいは」


「少量なら」


料理長は小さなナッツを二粒だけ乗せた。


店主はそれを見て、うなずいた。


「それでいい」


店員は盆を受け取った。


グラタン皿は少し冷まされたが、まだ熱い。


横には、現実確認のサラダ。


小さなグラスには、待つための水。


客席へ戻ると、客はまだメニューを開いたままだった。


文字を読んでいるというより、文字の上で考え続けているようだった。


「お待たせいたしました」


店員が皿を置くと、客は驚いた。


「私、まだ頼んでません」


「はい。こちらは確認用です」


「確認用」


「まだ起きていない不安の過加熱グラタン、現実確認のサラダ添えです」


客はグラタンを見た。


表面のチーズが焦げている。


ソースはまだ少しぐつぐつしていて、湯気が強く上がっていた。


「すごく熱そうですね」


「はい」


「今すぐ食べるんですか?」


「今は、まだ触れません」


客は少し意外そうな顔をした。


「食べ物なのに?」


「熱すぎる不安は、すぐには食べられません」


客は黙った。


グラタンの泡が小さく弾けた。


――あの時の言い方が悪かったのかも。


客の肩がぴくりと動く。


「今、何か言いました?」


「グラタンです」


「グラタンが?」


「はい」


泡がまた弾ける。


――駄目だったらどうするの。


客は眉を寄せた。


「嫌なグラタンですね」


「はい」


「でも、聞き覚えがあります」


店員は、現実確認のサラダを少し前へ出した。


「先に、こちらをどうぞ」


客はフォークを取った。


サラダを一口食べる。


葉野菜は冷たく、きゅうりは水気があり、トマトは少し甘かった。


「普通のサラダですね」


「はい。今ここにあるものだけで作っています」


「今ここにあるもの」


「まだ届いていない結果は入っていません」


客はフォークを持ったまま、少し黙った。


「……まだ、結果は来ていません」


「はい」


「駄目だとは、まだ言われていません」


「はい」


「成功とも言われてませんけど」


「はい」


「どっちでもない」


「今は、そうです」


客は、サラダをもう一口食べた。


グラタンの湯気が、ほんの少し弱まる。


「でも、考えておかないと不安なんです」


「考えることと、焼き続けることは違います」


店員は言った。


客はグラタンを見た。


「焼き続ける」


「はい。今は、オーブンから出してあります」


「でも、頭の中では戻してます」


「そのようです」


客は苦笑した。


「勝手に温め直してますね」


「はい」


「しかも、何度も」


「そのたびに、表面が焦げます」


客は焦げたチーズを見つめた。


「備えることは、悪いことじゃないですよね」


「悪くありません」


店員は、サラダの上の小さなナッツを指した。


「備えは、少量なら食感になります」


「少量」


「はい。全部を備えようとすると、皿が別のものになります」


客は少し笑った。


「防災リュックみたいですね」


「必要なものは入れます。ただ、まだ起きていないすべての災害を背負うと、歩けません」


客はフォークを置いた。


「私、それやってるかもしれません」


店員は水を置いた。


「こちらは、待つための水です」


「待つための水」


「はい。何もしないのではなく、今は待つ、というための水です」


客はグラスを見つめた。


「待つのが苦手です」


「はい」


「待ってる間に、悪い方に考えてしまうので」


「それなら、待つ時間にすることをひとつだけ決めてもいいと思います」


「たとえば?」


「今日は、メールを一回だけ確認する」


客は少し驚いたように顔を上げた。


「一回だけ」


「はい」


「何度も見ない」


「はい」


「見たくなったら?」


「サラダを思い出してください」


客は笑った。


「サラダ」


「今ここにあるものだけを見る練習です」


客はグラタンを見た。


湯気はまだあるが、さっきより落ち着いている。


「もう食べられますか?」


店員は皿に手を近づけた。


「少しなら」


客はスプーンを取った。


焦げたチーズの端を避け、まだ焦げすぎていないところをすくう。


口へ運ぶ。


熱い。


けれど、火傷するほどではない。


中のソースは濃厚で、少し苦い。


「苦いです」


「焦げた不安は、少し苦くなります」


「でも、食べられないほどじゃない」


「冷ましたので」


客は、もう一口食べた。


グラタンの中には、細かく刻まれた「もしも」が入っていた。


全部取り除くことはできない。


けれど、サラダと水を挟みながらなら、少しずつ食べられる。


「不安って、なくならないんですね」


「なくすものではないと思います」


店員は言った。


「では、どうするんですか」


「火を止めます」


客は、スプーンを持ったまま止まった。


「火を止める」


「はい。必要な分だけ考えたら、一度オーブンから出します」


「また不安になったら?」


「また温めても構いません」


客は少しだけ安心した顔をした。


「二度と考えるな、じゃないんですね」


「はい」


「それなら、できるかもしれません」


グラタンの泡が、また小さく弾けた。


――でも失敗したら。


客はその泡を見た。


今度は、すぐに飲み込まれなかった。


「失敗した時のことを、少しだけ考えておくのはありですか」


「ありです」


「でも、焦げるまで焼かない」


「はい」


客は、水を一口飲んだ。


「じゃあ、今日やることをひとつだけ決めます」


「はい」


「返事が来たら見る。来ていなかったら、今日は一回だけ確認して終わりにする」


「よい火加減だと思います」


客は、少しだけ肩の力を抜いた。


「それでも不安です」


「はい」


「不安なままでも、火を止めていいんですか」


「はい」


店員は静かに言った。


「火を止めるのは、不安が消えた後だけではありません」


客は、その言葉をしばらく受け取っていた。


そして、グラタンをもう一口食べた。


苦味はまだある。


でも、最初より熱くない。


客はサラダを挟み、水を飲み、ゆっくり食べ進めた。


全部は食べなかった。


焦げが強い部分を、少し残した。


「残してもいいですか」


「はい」


「もったいないですかね」


「焦げすぎたところまで、無理に食べなくても大丈夫です」


客はほっとしたように笑った。


「それ、助かります」


食べ終えたあと、グラタン皿には少し焦げが残っていた。


けれど、器はもう赤くなかった。


テーブルの上の水面も、静かになっている。


「お代は、お題でしたよね」


客が言った。


店員は小さな紙を差し出した。


そこには、こう書かれていた。


――まだ起きていないことを、焦げるまで焼かないでください。


客は紙を読み、小さく息を吐いた。


「長いですね」


「今日は、少し長めです」


「でも、必要ですね」


「はい」


客は紙を鞄にしまった。


そして、立ち上がる前に言った。


「帰ったら、メールを一回だけ確認します」


「はい」


「来てなかったら、お風呂に入ります」


「よい予定だと思います」


「それでも不安なら?」


「その時は、もう一度水を飲んでください」


客は笑った。


「この店、サラダと水の使い方が独特ですね」


「よく言われます」


客は小さく頭を下げ、店を出ていった。


暖簾が揺れる。


外の空気は、少し冷えていた。


けれど客の背中からは、入ってきた時ほど強い熱は出ていなかった。


厨房では、料理長がグラタン皿を見ていた。


「店主」


「何だ」


「焦げ、少し残りましたね」


「全部食べさせる必要はない」


「不安の焦げですもんね」


「そうだ」


料理長は試作品置き場の札を取り出した。


まだ起きていない不安の過加熱グラタン

注意:器まで熱くしない

添え物:現実確認のサラダ

水:待つための水

備考:焦げすぎた部分は残してよい


店主は赤ペンを取った。


料理長が少しだけ背筋を伸ばす。


店主は最後に一行書き足した。


オーブンから出すのも、調理である。


料理長はそれを見て、何度かうなずいた。


「……火を止めるのも、料理なんですね」


「そうだ」


「じゃあ、焼きすぎない練習をします」


「まず、つまみから手を離せ」


料理長は、そっとオーブンのつまみから手を離した。


境界線食堂の客席には、焦げの残ったグラタン皿がひとつ。


その横で、現実確認のサラダの皿は空になっていた。


不安は、少し残っている。


けれど、もう焦げ続けてはいなかった。


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