正論ご飯の白湯炊き定食
境界線食堂の厨房では、ときどき米が怒る。
米そのものに悪気はない。
一粒一粒は、まっすぐで、白くて、きちんとしている。
ただ、水が足りないまま炊かれると、やけに粒立ちがよくなりすぎる。
立ちすぎた米は、箸で持ち上げると少し刺さりそうになる。
その日、厨房の炊飯釜の中では、そんなご飯が炊き上がっていた。
料理長は、釜の蓋を開けて目を輝かせる。
「見てください、店主。粒が立ってます」
店主は釜を覗き込んだ。
「立ちすぎだ」
「正しさが一粒ずつはっきりしています」
「箸でつまむと刺さりそうだ」
「噛みごたえがあります」
「飲み込めない」
料理長は少し考えて、棚から小さな湯呑みを取った。
「では、優しさの白湯を添えます」
店主は首を横に振った。
「添えるな」
「えっ」
「炊く時点で入れろ」
料理長は釜と白湯を見比べた。
「でも、もう炊けています」
「だから炊き直す」
「正論を?」
「ご飯を」
料理長は少し残念そうに炊飯釜を見た。
「この粒立ち、けっこう好きなんですけどね」
「客の喉を見ろ」
店主はそう言って、客席へ目を向けた。
その時、店の戸がからりと開いた。
入ってきた客は、姿勢のよい人だった。
背筋が伸び、歩幅も一定で、椅子に座る動きにも無駄がない。
年齢は三十代後半くらいだろうか。
きちんとしたシャツ。
整えられた髪。
鞄の中身も、きっと分類されているのだろうと思わせる雰囲気があった。
店員が水を置くと、客はすぐに言った。
「おすすめをお願いします」
「苦手なものはありますか?」
「特にありません。合理的なものなら何でも」
「合理的なもの」
「はい。無駄がないものがいいです」
店員は、客の前に置かれたグラスを見た。
水面が、まっすぐすぎるほど水平だった。
「最近、誰かに何かを伝えましたか?」
客は少し驚いたように店員を見た。
「なぜですか」
「ご注文に関係することがあります」
客は少し考えた。
「部下に助言をしました」
「助言」
「はい。明らかに効率が悪いことをしていたので、事実を伝えました。改善点も具体的に」
「相手は受け取りましたか?」
客は少し黙った。
「……受け取るべき内容でした」
店員は、その言葉を急いでほどかなかった。
客は水を一口飲む。
「正しいことを言っただけです。感情的になったわけでもありません。むしろ冷静に、筋道立てて説明しました」
「はい」
「なのに、相手は黙ってしまって。そのあと、距離を取られています」
グラスの水面が、ぴん、と張った。
客は少しだけ眉を寄せた。
「間違っていることを放置する方が、よくないと思うんです」
「はい」
「傷つけるつもりはありませんでした」
「はい」
「でも、正しいことを言って嫌がられるなら、何を言えばいいのかわかりません」
店員は厨房を見た。
奥で、料理長が白湯を持ったまま固まっている。
店主が小さくうなずいた。
店員は客に向き直った。
「本日は、少し炊き直したものをお出しします」
「炊き直し?」
「はい。正論ご飯の白湯炊き定食です」
客は、少しだけ怪訝な顔をした。
「正論ご飯」
「はい」
「それは、私に必要なものですか?」
「まだ判断していません」
客は小さく息を吐いた。
「この店は、判断が遅いんですね」
「炊き急ぐと、硬くなりますので」
客は何か言い返そうとして、やめた。
厨房では、料理長が炊き直し用の小さな土鍋を用意していた。
硬めのご飯をほぐし、優しさの白湯を少しずつ注ぐ。
店主が横から見ている。
「入れすぎるな」
「やわらかくしないんですか?」
「やわらかくしすぎると、正しさの粒が消える」
「難しいですね」
「正論は、扱いが雑だとすぐ武器になる」
料理長は小さくうなずき、火を弱めた。
小鍋には、事情を聞く味噌汁。
具は豆腐と大根。
相手の状態を受け止めるように、薄めの味で温められている。
小皿には、急がない漬物。
すぐ結論へ走らないための、箸休めだ。
店員は盆を受け取り、客席へ戻った。
「お待たせいたしました」
客の前に置かれたのは、小さな土鍋のご飯だった。
湯気が立っている。
粒は残っているが、最初のように刺さる感じはない。
横には味噌汁と漬物。
「正論ご飯の白湯炊き定食です」
客は土鍋を見つめた。
「ご飯にしては、ずいぶん説明的ですね」
「当店の料理は、だいたいそうです」
客は箸を取った。
まず、ご飯を一口。
少し硬い。
けれど、噛めないほどではない。
白湯が入っている分、喉を通る。
客はゆっくり飲み込んだ。
「……思ったより、普通ですね」
「正論そのものは、特別な毒ではありません」
「毒ではない」
「はい」
客はもう一口食べた。
「なら、なぜ嫌がられるんでしょう」
店員はすぐには答えず、味噌汁を指した。
「こちらもどうぞ」
客は味噌汁を飲んだ。
大根がやわらかい。
豆腐は崩れず、けれど箸で簡単に切れた。
「何の味噌汁ですか」
「事情を聞く味噌汁です」
客は眉を上げた。
「事情を聞く」
「はい。正しいことを言う前に、相手の喉の状態を見るためのものです」
客は少し黙った。
「喉の状態」
「はい。乾いているのか、詰まりかけているのか、そもそも食べられる状態なのか」
「相手が間違っていても?」
「間違っていても、です」
客の箸が止まった。
「間違いは、早く正した方がいいと思います」
「早く正すことが、いつも早く届くとは限りません」
店員は、急がない漬物を客の方へ少し寄せた。
「急がない漬物です」
「……徹底していますね」
「はい」
客は少し苦笑し、漬物を一切れ食べた。
歯ごたえがある。
噛む時間が必要だった。
飲み込むまで、次の言葉が出せない。
客は、そのことに少し驚いたようだった。
「黙る時間ができますね」
「はい」
「それが目的ですか」
「目的のひとつです」
客は、器の中のご飯を見つめた。
「私は、相手のために言ったつもりでした」
「はい」
「遠回りするより、問題点をはっきり言った方がいいと思って」
「はい」
「でも、相手は黙った」
「はい」
「たぶん、傷ついたんでしょうね」
水面が少し揺れた。
客は自分で言ってから、眉を寄せた。
「でも、傷ついたからといって、間違いがなくなるわけではありません」
「その通りです」
客は顔を上げた。
店員は静かに続けた。
「ただ、相手が飲み込めなければ、正しさは栄養になりません」
客は何も言わなかった。
ご飯の湯気が、客の眼鏡を少し曇らせた。
「じゃあ、どう言えばよかったんですか」
「まず、相手の状況を聞くことはできます」
「例えば?」
「“今、少し話しても大丈夫ですか”」
客は味噌汁を見た。
「それだけで?」
「それだけで、相手の喉を見ることができます」
「忙しそうだったら?」
「あとにします」
「今すぐ直した方がいい場合は?」
「その場合でも、言葉の水分は必要です」
客は少しだけ苦い顔をした。
「水分」
「はい」
「私は、たぶん、水分なしで出しました」
「かなり硬めだったと思います」
客は小さく笑った。
「そこは判断するんですね」
「食感については」
客はまたご飯を食べた。
今度は、味噌汁と一緒に。
最初より、喉を通りやすい。
「でも、優しく言いすぎると、伝わらないこともありますよね」
「あります」
店員はあっさり答えた。
「正しさの粒は、残した方がいいです」
「消さないんですか」
「消すと、ただのやわらかいお粥になります」
客は少し目を細めた。
「それはそれで、意味がない」
「はい」
「正論を捨てる必要はない」
「ありません」
客は、少し深く息を吐いた。
「炊き方の問題ですか」
「はい」
「水加減と、火加減と、出す順番」
「その通りです」
客は黙って食べ進めた。
途中で、急がない漬物をもう一切れ食べる。
噛む。
待つ。
それから言った。
「私、相手ができていないことを見ると、すぐに直したくなるんです」
「はい」
「放っておくと、もっと悪くなると思って」
「はい」
「でも本当は、相手ができていない状態を見るのが、自分も不安だったのかもしれません」
店員は水を注ぎ足した。
「それは、お客様の器に入っているものですね」
客はうなずいた。
「私の器」
「はい」
「相手の問題だと思っていたけど、私の不安も混ざっていた」
「はい」
客は、土鍋の底に残ったご飯を見た。
「だから、急いで直そうとした」
「はい」
「相手のため、だけじゃなかった」
店員は何も足さなかった。
客は最後の一口を、味噌汁と一緒に食べた。
正しさの粒は、まだ残っている。
けれど、喉には刺さらなかった。
食べ終えた客は、箸を置いた。
「ごちそうさまでした」
「はい」
「お代は、お題ですよね」
店員は小さな紙を差し出した。
そこには、こう書かれていた。
――正しさにも、水加減がいります。
客はしばらくその紙を見ていた。
「短いですね」
「はい」
「でも、長く説明されるより刺さりますね」
「刺さりましたか」
「少し」
客は苦笑した。
「でも、飲み込めます」
店員はうなずいた。
客は紙を鞄にしまった。
席を立つ前に、少し迷うように口を開く。
「帰ったら、部下にひとつ聞いてみます」
「何を?」
「この前の話、あの時に聞ける状態だったか、って」
店員は静かに頷いた。
「よい聞き方だと思います」
「謝った方がいいですかね」
「それも、お客様が決めることです」
客は少し考えた。
「そうですね。まず、聞きます」
立ち上がる時、客の背筋はまだ伸びていた。
けれど、入ってきた時ほど硬くはなかった。
店を出る直前、客は振り返った。
「次は、もう少しやわらかめでお願いします」
店員は少しだけ笑った。
「ご注文、承りました」
暖簾が揺れる。
客が出ていったあと、厨房では料理長が土鍋を覗き込んでいた。
「店主」
「何だ」
「正論ご飯、炊き直すと悪くないですね」
「最初が硬すぎた」
「粒は残りました」
「残さないと意味がない」
料理長は試作品置き場の札を取り出した。
そこには、前にこう書かれていた。
正論だけで炊いた硬めご飯
注意:水が足りない
備考:正しくても飲み込めない
料理長はその下に、新しく書き込む。
正論ご飯の白湯炊き定食
試験提供:成功
必要:事情を聞く味噌汁
箸休め:急がない漬物
店主は赤ペンを手に取った。
料理長が少し身構える。
店主は、最後に一行だけ書き足した。
正しさは、相手の喉を見てから出すこと。
料理長はそれを見て、静かにうなずいた。
「……はい」
それから、少しだけ笑う。
「でも店主、これ、けっこう正論ですね」
店主は赤ペンを置いた。
「だから水を入れた」
料理長は、炊飯釜の蓋を閉めながら笑った。
境界線食堂の客席には、空になった土鍋がひとつ。
底に残った湯気は、まっすぐ上がっていた。
刺さるほど硬くもなく、消えるほど薄くもなく。
ちゃんと、食べられる正しさの湯気だった。




