第二話:ピカピカの絶望と、悪魔の耳鳴り
リナがこの城に住み着いてから、一ヶ月が経った。
第99階層の空気は、かつての「死の臭い」を完全に失い、今はリナがどこからか見つけてきたハーブの香りが仄かに漂っている。
「ゼヴィス様! そこ、どいてください。ワックスを塗ったばかりなんです」
漆黒の翼を広げ、優雅に空中を散歩していたゼヴィスは、リナの鋭い声に反射的に空中で静止した。
見下ろすと、リナが頬を膨らませてモップを構えている。かつては恐怖に震えていた少女は、今やこの階層で最も発言力の強い存在へと進化していた。
「……リナよ。私はここの主だぞ。どこを歩こうが、私の勝手だろう」
「ダメです。足跡がついたら、私の三時間の努力が水の泡です。ほら、そこにある『お客様用のスリッパ』を履いてください」
ゼヴィスは忌々しげに鼻を鳴らし、しぶしぶとリナが差し出したモコモコのスリッパ(魔獣の毛皮製)に足を通した。
深淵の王が、ピンク色のスリッパを履いて大理石の上を摺り足で歩く。その姿を配下の魔物たちが見れば、あまりの衝撃に発狂するに違いない。
「ところでゼヴィス様、最近……変な音がしませんか?」
リナが手を止め、首を傾げた。
ゼヴィスも耳を澄ます。確かに、上層階から「ガシャン!」「ひえぇぇ!」という情けない悲鳴と、金属が激しくぶつかる音が響いてくる。
「……侵入者か。第90階層を突破する者が現れたようだな」
ゼヴィスは久々の獲物に、口角を吊り上げた。
だが、その期待はすぐに困惑へと変わった。
玉座の間へ飛び込んできたのは、ボロボロの鎧を纏った勇者一行……ではなかった。
彼らは入り口の扉を開けた瞬間、あまりの「眩しさ」に目を抑えてうずくまったのだ。
「ま、眩しいっ!? なんだこの床は、鏡か!?」
「おい、壁に埃ひとつないぞ! 罠はどこだ? 毒霧はどうした!?」
勇者たちは、あまりにも清浄な空間にパニックを起こしていた。
彼らが警戒していた「死の罠」や「不浄の呪い」は、すべてリナによって洗い流され、除菌されていたのだ。
殺気立っていたはずの勇者たちは、汚れ一つない空間に自分たちの泥だらけの靴で踏み入ることに、言いようのない「罪悪感」を抱き始めていた。
「……あの、すみません。そこ、土足厳禁なんですけど」
リナがモップを片手に、スッと勇者たちの前に立った。
伝説の武器を構えた勇者が、ただの掃除係の少女に気圧される。
「あ、いや……すまない。つい……」
「お母さんが言ってたんです。靴が汚れている人は、心も汚れてるって。ほら、外で靴の泥を落としてから出直してきてください」
リナの剣幕に押され、勇者たちは「あ、はい……」と力なく返事をして、すごすごと扉の外へ戻っていった。
それを見ていたゼヴィスは、額を押さえて深く溜息をついた。
「リナ……。私の城の威厳は、一体どこへ消えたのだ」
「何言ってるんですか。綺麗になれば、心もスッキリして、戦いなんて馬鹿らしくなるんですよ。ね?」
そう言って笑うリナの瞳は、どんな宝石よりも輝いて見えた。
ゼヴィスはふと、彼女の母親のために必要な「薬」の材料が、この階層のさらに奥、自分の心臓に最も近い宝物庫にあることを思い出す。
(この平穏を壊してまで、私はそれを渡すべきなのだろうか……)
悪魔の胸に宿ったのは、かつて知ることのなかった「情愛」という名の、最も厄介な毒だった。




