「深層の管理者、迷い子を拾う」
数多の冒険者が「富」と「名声」を求めて挑み、そして散っていった伝説の迷宮。
その最深部には、神にすら恐れられる最強の悪魔が鎮座していると言われています。
しかし、その殺風景で血生臭い玉座の間が、今、かつてない危機に瀕していました。
……そう、「不潔」という名の危機に。
これは、最強の悪魔と、ひょんなことからその城の「清掃員」に任命された一人の少女が紡ぐ、少しおかしなダンジョン管理記録です。
掛け
前人未踏の最下層、第99階層。そこは、数多の英雄が命を散らし、希望が絶望へと反転する終着点。漆黒の石材で組まれた玉座の間には、陽の光など届くはずもなく、ただ魔力の奔流が生み出す青白い燐光が、静寂を支配していた。
「……退屈だ」
玉座に深く腰掛けた悪魔・ゼヴィスは、低く、地響きのような声で独りごちた。
かつて世界を震撼させた四枚の翼は、今はただの飾りのように垂れ下がっている。ここ数百年、彼に謁見できた人間などいない。たまに「勇者」と称する羽虫が紛れ込んできても、彼の吐息ひとつで灰に変わる。それが深淵の王にとっての日常だった。
だが、その日の静寂は、場違いな「音」によって破られた。
「はぁ、はぁ……っ」
重厚な大扉を押し開けて現れたのは、黄金の鎧に身を包んだ戦士でも、賢者の杖を携えた魔術師でもなかった。
ボロボロの綿入れを着て、膝を泥だらけにした一人の少女だった。
彼女は玉座の威圧感に腰を抜かし、崩れ落ちる。その手には、刃の欠けた小さな果物ナイフが握られていた。
「殺しなさいよ……。でも、その前に、これだけは食べさせて」
少女は震える手で、懐からカビの生えたパンの耳を取り出した。涙で濡れた瞳には、恐怖以上に「空腹」という、動物的で強烈な生への執着が宿っていた。
ゼヴィスは嘲笑しようとした。だが、彼女の魂から漂う匂いに、ふと興味を惹かれた。そこには、英雄たちが持ち込む薄っぺらな正義などなく、泥にまみれた「必死」だけが黒々と渦巻いていたからだ。
「小娘。貴様、なぜここへ来た。ここは命を捨てに来る場所だぞ」
「……お母さんの、病気を治す薬がほしいの。ここには、悪い悪魔が隠した宝物がいっぱいあるって、村の人が言ってたから……」
ゼヴィスは鼻で笑った。「悪い悪魔」とは心外だ。自分はただ、ここに居るだけなのだから。
「宝ならある。だが、それを持ち帰る力が貴様にあるのか?」
ゼヴィスが指先を軽く振ると、少女の足元の影がうごめき、巨大な影の獣が牙を剥いた。少女は悲鳴すら上げられず、目を強く閉じる。
だが、数秒経っても痛みは来なかった。
「命が惜しければ、私の城を磨け。この階層は少々、前任者の返り血で汚れすぎている」
それが、奇妙な契約の始まりだった。
翌日から、少女――名はリナといった――の仕事が始まった。
ゼヴィスが与えたのは、決して折れない魔銀製のバケツと、汚れを吸着する聖獣の毛で作られたモップ。
「……うわぁ、ピカピカ」
リナが慣れない手つきで床を磨き始めると、数百年放置されていた血痕や埃が、嘘のように消えていった。
当初は怯えていたリナだったが、次第に肝が据わってきたのか、掃除の合間にゼヴィスへ話しかけるようになった。
「ねえ、ゼヴィス様。ここの魔物さんたち、掃除してると邪魔してくるんだけど、怒ってもいい?」
「……好きにしろ」
次にゼヴィスが通路を通りかかったとき、彼は奇妙な光景を目にした。
階層最強の守護者であるはずのキマイラが、リナに「そこ、まだ濡れてるから踏まないで!」とモップで鼻先を叩かれ、シュンと丸まっていたのだ。即死トラップの落とし穴も、彼女が丁寧に溝を掃除してからは、彼女が通るときだけは自動で蓋を閉める「賢い床」へと変化していた。
「……フン、合理的な変化だ。汚れは思考を鈍らせるからな」
ゼヴィスは自分に言い聞かせるように呟いた。
だが、リナが磨き上げた黒大理石の床に、自分の姿が鏡のように映るのを見たとき、彼は初めて自分の顔が少しだけ「穏やか」になっていることに気づき、慌てて表情を険しくした。
冷酷であるべき悪魔の城に、今、石鹸の香りと少女の鼻歌が響き渡る。
深淵の王は、磨き上げられた床に一歩を踏み出す際、無意識に足音を殺すようになっていた。
最後までお読みいただきありがとうございます。
本来、悪魔といえば魂を奪ったり、世界を滅ぼしたりするのが仕事ですが、もし彼らが「自分のテリトリーを綺麗に保ちたい」という几帳面な性格だったら……? という妄想からこのお話が生まれました。
最強の悪魔ゼヴィスも、少女が磨き上げたピカピカの床を歩くときは、心なしか足音が静かになっているようです。
果たして少女は、お母さんのための薬代を稼ぎきることができるのか。そしてゼヴィスは、この妙に居心地の良くなってしまった城をいつまで維持できるのか。
二人の奇妙な共同生活は、まだ始まったばかりです。
もしよろしければ、彼らの「掃除の続き」もまた覗きに来てくださいね。




